TBSラジオ『アフター6ジャンクション』月~金曜日の夜18時から放送中!
6月16日(金)放送後記
宇多丸:さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、日本では5月26日から劇場公開されているこの作品、『aftersun/アフターサン』。
11歳の少女ソフィが父親と2人で過ごした夏休みを、そこから20年後、その時の父親と同じ年齢になった彼女の視点から振り返るヒューマンドラマ。父親カラムを演じたのは、第95回アカデミー賞主演男優賞にノミネートされたポール・メスカルさん。そしてソフィ役は、オーディションで選ばれた新人フランキー・コリオさんです。監督・脚本は、なんと本作が長編デビューとなる新星シャーロット・ウェルズさん。
ということで、この『aftersun/アフターサン』をもう観たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「やや少なめ」。まあ、公開規模とかがあんまり大きくないのと、地味めな映画ということもあるんでしょうかね。ただ皆さんね、もちろんね、『ザ・フラッシュ』とね、『アクロス・ザ・スパイダーバース』が同日に公開されて、それは大変な騒ぎだと思うんですが……いや、これは観逃していただきたくないな、という気持ちもしますが。
賛否の比率は、褒める意見が「およそ8割」。主な褒める意見は、「ムダな説明が一切なく、観客たちが自由に解釈できるよう作ってある」「つい自分の親のことを思い出してしまった」「悲しく美しく、胸に迫る忘れない特別な一本になった」などがございました。一方、否定的意見は、「意味がわからなかった」「悲しすぎる映画。
「すべての完璧でない親たちと、子どもたちの未来に優しく寄り添ってくれている気がして、泣いてしまった」
代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「タレ」さん。「すごい映画だった。豊かな余白をもった映画の隅々に細やかに散りばめられたピースを拾い上げていくと、観客それぞれにちがった心象風景が浮かび上がるようにつくられている。監督が観客の想像力と、記憶が呼び起こすノスタルジーを最大限信頼してくれているのが伝わってきて、まずそこに感動してしまった。
わたしは母であり、娘でもあるので、いろいろな立場や角度から感情を動かされて、心がぐちゃぐちゃになった。例えば、「11歳のときどんな大人になっていると思っていた?」というインタビューの無邪気さと残酷さ。カラム(お父さん)の「頭が大きい」には、子として。ソフィの「お金がない」には、親として…」。まあ、ちょっと喧嘩気味になってる瞬間だから、売り言葉に買い言葉ではあるんだけど、そんなことを……「どうせ金もないくせに」みたいなことを言って。心底傷ついた顔してましたね、カラムさんね。
「……それぞれ悪気のないジョークとわかっていながらも、家族特有のデリカシーの無さに傷つく。
「ラスト、明滅するクラブの扉へ消えてゆくカラムの姿は、どうしようもなく胸に刺さった。夜の海へクラブの闇へ消えてしまいたい気持ち、それでも「行かないでほしい」と願う気持ち、そしてそれが叶わなかったこと、がないまぜになった。
それでもあのとき、父が娘に贈った言葉が、いまの娘の「chosen family(チョーズン・ファミリー)」のかたちにつながっているのかもしれない、と思うと、すべての完璧でない親たちと、これからの子どもたちの未来に優しく寄り添ってくれているような気がして、泣いてしまった」。お父さんがね、途中……まあ全体がすごく何気ないタッチで描かれる作品なんで、何気ない会話なんだけど、「好きな場所で好きなように生きなさい」という風にね、言うんですよね。それを経ての現在の彼女の姿であろう、というようなことじゃないですかね。
あとちょっとこれ、全部は読めないですが、いつもね、がっつりした評をありがとうございます、「レインウォッチャー」さん。たとえばその「背中」が印象的である、ということとかね……監督もね、すごく「背中を撮るのがうまい」監督たちということで、パンフレットで何人か、名前を挙げられたりとかしていたりとかしましたね。
とかですね、いろんなことを書いていただいている方もいる一方、ダメだったという方。「siz」さん。「映画を観たあと思考停止したようにぼんやりとし、30分ほどして浮かんできたのは、この映画を好きではないという実感でした。同じく「父と娘の最後の数日」を切り取った映画として、『ザ・ホエール』を思い起こさずにいられなかったのですが、『ザ・ホエール』は暗闇の中での生きる希望を、『アフターサン』は陽光の中での生きる絶望(もしくは死の希望)を描いているという点で、作り手が正反対の目線を持っていると感じました。
ソフィ役のフランキー・コリオがこの映画を2度、3度観たあとでシャーロット・ウェルズ監督に、「どうしてこんな悲しい映画を作ったの」と言ったそうですが、私も同じように思います」と。まあ、悲しすぎるじゃないかと。「表現や主役二人の演技の素晴らしさは認めつつ、個人的な好みとしてこの映画の評価は「否」です。また、死を誘惑に感じることのあるひとには安定している時以外、視聴をおすすめしない映画です…多分引っ張られるので。」と。
はい。皆さん、でも多様なご意見、本当にありがとうございます。皆さんそれぞれになんか「ああ、なるほどな」というような意見が出てくるような、たしかにそういうタイプの映画でもございますね。ということで『aftersun/アフターサン』を、私もヒューマントラストシネマ渋谷で2回、見てまいりました。
「記憶」を巡る映画であり、記憶の在り方と「映画」はとてもよく似ている
それでね、行ったらね、劇場パンフが売り切れていたんですよ。で、「ああ、残念だな」と思って、既にゲットしていた番組ディレクターの簑和田くんに借りたんですけど。
見たらなるほど、こちらですね、大島依提亜さん仕事でございます! 番組グッズのロゴも作っていただきました大島依提亜さんなんですけど、パンフレットの中で……特に今回はですね、たぶんその旅の中のいろんなスナップであるとか、旅先でとったチラシとか、いろんなそういう旅先のごちゃごちゃ感、なんでしょうね。異なるサイズの、異なる印刷の、異なる紙の写真が、ランダムに入れ込まれているような作りになっていて。これ、まさに大島依提亜イズムというか、めちゃくちゃ手間がかかっているパンフで。これが売り切れるっていうのは皆さん、本当にお目が高い、としか言いようがない。素晴らしい! あと、『BRUTUS』に載っている(大島依提亜さんと)シャーロット・ウェルズさんとの対談も非常にナイスでしたので、ちょっと後ほど一ヶ所ぐらい、引用するところもあると思いますが。
ということで、端的に言えば、「記憶」を巡る映画でございます。我々の記憶ってね、固定的なものではもちろん、全くないですよね。今はたしかに、写真やビデオで思い出の瞬間の記録みたいなものはですね、誰もが豊富に持っている、という時代ですけども。そこから想起される「記憶」というのはですね、我々各々の人間が、覚えている……と自分で思っていることと、そうした断片的な記録物から、その都度再構成されていくもの、っていうことですね。
だから、同じ出来事を思い返したり、その時の写真やビデオを見返したりしても、年齢や状況によって、言ってみればその「解釈」と「再物語化」っていうのは、全然違うものになっていたりするわけですね。で、本作はまさにそういう、我々の「記憶」というもののあり方を描いている映画、という言い方がひとつできると思います。
ちなみに、さっきから言ってるようなこの「記憶」のあり方、この構造って、「映画」っていうものとよく似ている、と僕は思います。いつも僕は言ってますけども、「映画」というのは、ある一定の画と音の連なりを一通り受け取った「後」から、振り返ってそれらを思い起こして、それで各々が「うん、このひと連なりの音の画はこういうものだったよな」と脳内で再解釈、再構成、再物語化したもの……そこに立ち上がってくる全体像のようなものが、我々が普段話している、「映画」という体験ですよね。
だから「記憶」というテーマは、映画というものと、言うまでもなく大変相性がいいですし。特に本作『aftersun/アフターサン』は、その非常に相似した構造というのに、意識的に取り組んでみせた作品だ、と言えると思います。
監督・脚本は本編がデビュー作となるスコットランドの新鋭シャーロット・ウェルズさん
本作で世界的に脚光を浴びることになった、脚本・監督のシャーロット・ウェルズさん。劇中の主人公たち同様、イギリス、スコットランドの方ということですけども。
これまでに撮られた短編たち……2016年の『Tuesday』、あと2017年の『Laps』、同じく2017年の『Blue Christmas』。この3本しか撮ってないんですよ。短編もね。で、シャーロット・ウェルズさんのホームページがあるんですよ。「charlotte-wells.com」みたいなホームページがあって、そこから無料で全部、観られるんで。ぜひ皆さん、興味ある方は観ていただきたい。
で、『aftersun/アフターサン』との共通項もすごく……もう既に明らかに、いくつも見出せるような短編群でございます。たとえば最初に作った『Tuesday』というのの、既に亡くなってしまったお父さんの、その不在と向き合うことになる娘、というこのお話の構図は、完全に今回の『aftersun/アフターサン』と重なるものだし。あるいはですね、その『Laps』という次の作品。地下鉄の車内での、日本でいう痴漢的な性的暴力、それを人々がどうも見て見ぬふりしてるという、なかなかきつい内容の作品なんですね、『Laps』というのは。で、その『Laps』における、その人の感覚にシンクロしてしまうような極度に「近い」視点、極度に説明を削ぎ落としたストーリーテリングのスタイル……などなど、みたいな。これも『aftersun/アフターサン』に連なる、シャーロット・ウェルズさんのはっきりした作家性と言えると思います。
これらの短編を観ると、「ああ、通じるところ、全然あるんだな」と思うんだけど。と同時に、本作『aftersun/アフターサン』はですね、短編からさらに飛躍的に進化/深化……要するに進んでるし、深まっているという意味で、進化・深化した作品であることを改めて確認できる、という風にも思います。テーマや語り口は過去の短編と繋がっているんだけども、より重層的で、細やかで、豊か。そしてエモーショナルになっている、ということですよね。
「これは誰によって見返されてるのか? 誰の思い出なのか?」
改めて順を追って話していきますけれども。まずね、冒頭。今回の映画の製作会社各社のロゴが次々と出てくる中、後ろではですね、いかにも一昔前の、家庭用ビデオカメラの音。まあテープを取り出したり、セットしたりする時の、「ウィーン、ガチャッ。ウィーン、ガチャッ」っていう、あの特徴的な音がずっと流れてるわけです。
で、パッとね、実際にその、一昔前っぽいホームビデオ映像が映るわけですね。その中に映っているのは、仲の良さそうな娘とお父さんが、バカンス先かなにかで話してるんでしょう、という場面。で、「お父さんが私の年齢だった時、どんな大人になりたかった?」と質問したところで、画面がちょっと不吉にも、ポーズされるんですね。それもなんか、映画(全体)でポーズっていうよりは、その機材を誰かがポーズしている、って感じなんですね。どうやらそのバカンスの様子を記録したというその映像が、そこから先の……あのね、後から、2回目を見るとわかるんですよね。チェスをやっているところとか、いろんなこの後出てくる場面が、バーッと早送りになっていって。
で、「これは誰によって見返されてるのか? 誰の思い出なのか?」ということですけども。これは、そこから画面がパッと打って変わって、暗闇の中でストロボが焚かれて、周囲に踊る人々がいて……まあ、明らかにクラブっぽい空間。ただし、かなり抽象化された、なんなら心象風景的にも見えるクラブっぽい空間。そこに一人佇む、おそらくは先ほどの女の子の成長した現在の姿、というのがある。これ、後ほどあるタイミングで、まさに映像の中の父と同じ、31歳のソフィさん、ってことがわかるんですけども。
とにかく、その現在のソフィが、11歳の時の旅行を、おそらくはさっき言ったビデオ映像を見返しながら……特に、大人になった今なら少しは理解できるようになっている、のかもしれない、あの時の、つまり今の自分と同い年の父の本当の気持ちに思いを馳せる、ということを込みで、思い返している。記憶を再構成している。そういう構造の作品ですよ、ということが、冒頭のこのところで……つまり三つ、異なる次元の映像が出るんですね。昔のビデオ映像と、現在のソフィがいる、おそらくは彼女の中のその心象風景としてのクラブ的空間みたいなものと、そして本作のメインとなる、言ってみれば「劇映画的に再構成」されたバカンスの記憶。
「劇映画的に再構成」っていうのはどういうことか?っていうと、つまり「神の視点」込み、っていうことですね。つまり、本来彼女が知らない、見てないはずのお父さん側の視点、みたいなものも含まれるという、言ってみれば「劇画的に再構成」されたバカンスの記憶。この三つの異なる次元の映像、シークエンスで構成されている、っていうことですね。そんな作品でございます。
前半は「家族旅行あるある」も含めたまったりバカンス風
とはいえ、前半はまだですね、バカンスらしく、いい意味でまったりした心地よさが基本的には全体を包んでいる、と思っておりまして。『リアリズムの宿』物、というかですね(笑)。トルコのリゾート地の話なんだけど、どうやらかなり大衆向けの施設みたいなんですよね。日本で言ったら、なんですかね? だからハトヤとか、そういうような感じですかね。で、夜中に宿に着いたら、誰も出てこない!とかね。あと、ようやくその部屋に入ったと思ったら、「あの、すいません、501号室の者なんですけども……ツインで予約したと思うんですけど、ベッドひとつしかないんですけど。代理店にそう頼んでいるんですけど……はあ? ああ、対応できない? まあ、もういいです。今日はとりあえずいいです」みたいな感じとか(笑)。
あと、朝から建物の改修工事でうるさいわ、景色も殺風景だわで、なんだここ?みたいな……「クレイグがすすめた」っていうんだけども、「クレイグ、なんだよ!」みたいな感じで(笑)。ああいう、なんていうの、特に家族旅行あるある的な、要所要所が間抜けだったり、ダサかったりするという観光地エピソードみたいなものが、すごく共感もできるし、笑えるし。でもどこかで、やっぱりちょっと懐かしいっていうか、そんな感情を呼び起こさせるところもあって。まず前半のこういうところもすごく楽しい、という感じですよね。
映画の中で描かれてきた父親像に異義を唱える、「ちゃんとお父さんとしてはいい人」
で、お兄さんと間違われるほど若い……実際、役柄上よりもかなり若いポール・メスカルさん。30代っていう役ですけど、まだ25歳ぐらいですね、ポール・メスカルさん。31歳の父カラムがですね、オーディションで選ばれたそのフランキー・コリオさん演じる11歳のソフィとの関係……まあ、この関係は、いたって良好なんですよね。これ、『TOKION』というところの平岩壮悟さんさんという方による監督インタビューによれば、映画にはとかく、お父さんが出てきたりする時って、ダメだったり、あと不在だったりするって父親像が、映画だと多い。そういうものばっかりが描かれる。で、観客もそういうものを期待するようになっちゃってる、っていうんだけど、今回のそのカラムに関しては違って、そうじゃないお父さん像というもの、ちゃんとお父さんとしてはいい人だ、というのを描きたかったという。
まあ、別居もしているし、経済的にも楽ではなさそうだけど、少なくともソフィにとっては、もう何の不足もない、最高の父親。もちろん、多少は変なところはあるけど、そんなの人間、誰だってあるから。喧嘩したりするということもあるし、っていう程度で。ソフィから見れば、ソフィにとっては、最高の父親として描かれる……でも、だからこそ、31歳の今のソフィの視点で振り返った時に初めてわかる気もする、当時父カラムの抱えていた不安や焦燥、あるいは自分のコントロールできなさ、まあ言ってしまえば未成熟さみたいなものが、ヒリヒリと、まさにアフターサン(日焼け跡)のように、切実な痛みとして感じられ始める、ということですよね。特にめちゃくちゃダメな人ってわけじゃないっていうか、なんだけど……っていうことですね。
注目すべきは違う方向を向いている人物たちを同一画面に収める「画面内フレーム」使い
たとえば、とても楽しい一日っていうのを過ごした後でこそ、帰ってきた後に襲ってくる疲労感と、あとなんか寂しさと、みたいな、それ自体はやはり我々誰もが味わったことがあるであろう感情というのをですね、ソフィが、ベッドに寝転がりながら話してるわけです。
で、その寝っ転がりながら話してる姿っていうのが、壁にかかってる鏡に映された形で、画面右側に見えるんですね。一方、父カラムは、左側のバスルームにいて。バスルームの洗面台、やはり顔が鏡に映った形。要するに鏡二つに映された形で、同じ画面で顔や姿が見える状態になっているんですけど。
するとですね、カラムさん、娘がですね、「すごい楽しかったんだけど、楽しかった後ってなんか虚しくなるよね」みたいに言うことに、直接同意はせず……後ほどの父親のいろいろ不安定な悩みとかを考えると、やっぱりちょっと、彼の中の何かを刺激しすぎるんですよね、その意見はね。楽しかった後の虚無、みたいなのは。
だから直接同意はしないまま、「でも、楽しかったろう?」みたいなことを言う。「うん」「じゃあ、ご飯にサクッと行きましょうか」みたいなことを言うんだけど……「さあ、じゃあご飯、サクッと行きましょうか」って出ていく、その一瞬前に、僕はちょっと映画館で、思わず「あっ、えっ?」って言っちゃうような、ちょっと……で、角度的にはソフィには見えない、ワンアクションなんですけども。ちょっと、さりげなくも乱暴な、「えっ、なんなのこの人?」っていうワンアクションをするんですね。これ、ちょっとぜひ、劇場で驚いていただきたいんで、なにをするかは伏せますけど。
で、洗面所の電気が消えて、「そこ」がどうなったかは一旦、見えなくなるんですけど。これ、まるでそのカラムがですね、実は不安定な内面、というのを表に出さずに、飲み込んでしまったかのように……でもその後、二人が部屋に帰ってきて電気がつくと、やっぱりその痕跡は、同じ場所に、「そこ」に、やっぱり残っているんですよね。っていうような感じ。
事程左様にですね、本作における監督シャーロット・ウェルズさん、鏡とか、テレビ画面とか……テレビ画面はしかも、そのスイッチ入った状態、切った状態の、両方。あと、机の上とか、ガラスなどといったですね、反射するものですね。反射面。あるいはですね、壁一枚を隔てて隣り合ったベッドルームとバスルーム、あるいはベッドルームとベランダ、などなどですね、画面内に実は緻密な計算のもとに配置された……先ほどの『BRUTUS』の記事、大島依提亜さんの言葉を借りるなら、「スプリットスクリーン的(画面分割的)なアプローチ」で、同じ空間にはいるけど違う方向を向いているキャラクター同士、本作ではほぼもちろん父カラムと娘ソフィの顔や姿を、いわば「切り分けた」状態で、同一画面内に、しかもシチュエーションとしてはごくごく自然な流れの中で、収めてみせる、提示してみせる、という独自のスタイル、スキルをですね、全編で実は炸裂させているんですね、本当に。
ちゃんと反射とか、「画面内フレーム」に注意して観ていると、マジでヤバいですよ。この人、本当にすごい!
映画50分あたりから始まるワンカットに刮目。膨大な情報量を収める緻密な画面構成!
その白眉はですね、先ほどレインウォッチャーさんも本当に細かく分析していただいてたんですけど、ちょうど上映時間真ん中、50分目ぐらい……オープニング、先ほど言ったビデオ映像のみで、しかも途中でポーズされた、その場面ですね。「私の年齢だった時、将来どういう風になりたいと思っていた?」という質問のところでポーズされる、冒頭のその場面が、今度はフルサイズ……つまり、カメラが止められた後も込みで、本当は記録に残っていないところも込みで、「私の心のカメラに留めるから」っていう言葉通りに、フルサイズで再現されるわけですね。
ここですね、すごいですよ。まず画面構成。まず、壁の鏡ですね。と、テレビ画面内のビデオ映像。で、途中でその映像を切られるんですけど、切られてからも、今度はテレビ画面そのものが鏡のように反射している、そこの映り込み。そして実際のその画面のカメラがとらえる人物の姿、という。大きく言って三つだけど、何重ものスプリットスクリーン効果というか、スプリットスクリーン化されたひとつの画、として示される。
しかもここは、会話の流れに従ってですね、ピントがそれぞれの場所……つまり鏡とかテレビ画面とか、こちらの隅っこに見える鏡の端っことかでカラムとかソフィの顔が映るんですけど、そっちに、会話の流れに従って、ピントが次々に送られてゆくんです。さっきまでピントが合ってなかったところに、チャッ、チャッて、(ピントが)送られていくんですね。離れ技と言いたいようなスキルだし、この語り口、レインウォッチャーさんも書いていたけれども、ちょっと見たことないレベルの、緻密な演出と画面構成ですね。反射を使った演出ってもちろん、昔からありますけど、こんなに緻密に配置を……しかも、自然なんですよね。なかなかないと思いますね。
しかもね、加えてこの画面、左下には、カラムが読んでる本が積まれてるんですね。まあ劇中で彼がやってる太極拳とか、あとは瞑想の本とかを読んでるんだけど。つまり「心を安定させたい」という、彼の非常に切実な心情というのがもちろん見える本たちだし。あと、もう1冊はですね、シャーロット・ウェルズさんが本作で大きな影響を受けたという、マーガレット・テイトさんというですね、映画作家で詩人で医者の方がいて。この方のね、たぶん評伝かな、それが見えたりする、という。
しかもですね、ここで交わされている会話が結構キーポイントで。ここを境に、次第にその、31歳のソフィが慮った31歳カラムの秘めたる悩み、苦しみ、不安定性のようなものが、ここからいよいよ前面化しだす、という感じになるわけです。
なので、この50分くらいから始まる数分間のワンカットだけで、どんだけの情報量を自然にさっくり収めて、説明じゃなく見せているんだ?っていう。これはただもんじゃねえぞ!っていう、シャーロット・ウェルズさん。驚きますね。ここ、度肝を抜かれるショットですね。
「解放」ではなく「内面のもがき」として見せるクラブでのダンスシーン
で、ここからさかのぼると、思えばこのカラムさんですね、たとえば道路の渡り方とか、あと無免許のスキューバとか、あとは何だろう? 顔に濡れタオルをかぶせて呼吸していたり……あとこのちょっと後ですけど、ベランダの手すりに立ったり、とかですね、なんか危なっかしい行動を取るような人なんですよね。
一方、聡明な11歳というソフィなりに、父親を愛し、気遣ってるからこそ起こる心のずれ、というのがまた痛く切ない、というのがどんどん後半、増してくるという。途中ですね、いかにも90's!な選曲も相まって、非常に絶妙な、新たな「気まずカラオケ」の名シーン(笑)とかね、生まれてますしね。ここもぜひ、観ていただきたいですし。
あと、さっき言ったですね、前述の抽象的心象的クラブ空間の場面。ダンスというものを、解放というよりも、内面のもがきとして見せるっていう、これはなかなか……でも、自分の経験から言っても、クラブのフロアのど真ん中、特にハウスとかですね。ヒップホップというよりはハウスとかテクノとかのクラブのフロアのど真ん中で一人で踊り狂ってる時って、むしろそっちっていうか。解放っていうよりかは、心のもがきとしてのダンスっていうか。意外とこれは描かれてなかった側面だな、とも思ったりしますし。
あとね、小道具で言いますと、当時のカラムさんにしてみれば、かなり清水の舞台から飛び降りるつもりで買ったのだろう、絨毯……それが、今のソフィの暮らしの中にあって。で、そこから描かれる、今のソフィの暮らし。同性パートナーと赤ちゃんがいて、という現在から、あのバカンス……その現在からあのバカンスというものを照射すると、改めて見えてくる、11歳のソフィの性への無意識の目覚め。わけてもクィアな感性への無意識の目覚め、というのが要所で暗示されている、というのも、非常に興味深いあたりだと思います。
とある有名80'sポップをこんなエモーショナルに使った例はない。大正解!
そしてすみません、時間ないけど、クライマックス。とある、めちゃくちゃ有名な、80'sの名曲がかかります。他にもこれ、うまく使った例はあります。映画でね。『アトミック・ブロンド』とか、めちゃくちゃうまかった例ですけど……ここまでこの曲が、エモーショナルに響いた例はないと思います。この曲の、後半部分をここまで完璧に生かした例は、ないと思う。これ、歌詞のシンクロがやばくてですね。監督的には、ここまで言葉で説明しないできたのに、最後の最後で歌詞があまりにもシンクロしすぎていて。「ちょっと言い過ぎかな?って思うんだけど……いや、これはもうこの曲のエモーションに任せるっしょ!」って感じで流したらしいんですね。これ、大正解だと思います。最後にこの大団円は、OKだと思います。
そして、ラストショットの切れ味!ですね。残る余韻……これね、さりげない作品だけど、これはなかなかすごいレベルの作品じゃないでしょうかね。シャーロット・ウェルズさん、なかなかすごいですね。もちろん、さりげない映画でもあるんですけども、さりげなくも複雑かつ豊かで、深く、でも楽しいとこもあったりとか。で、我々誰もの記憶とか、心の何か柔らかいところにタッチするような、ちょっとこれはすごいレベルの作品じゃないかな、と思いますんで。
ぜひぜひね、もう今、ビッグタイトルが公開されて、なかなかそれどころじゃないかもしれないけれど。そういう中で、この作品も観逃さないでいただきたい。ぜひ、劇場の暗闇の中で、記憶にタッチするという意味で、ご覧いただくのがよろしいかと思います。ぜひぜひウォッチしてください!