いまから57年前、新潟県を中心とする地域を大地震が襲いました。この時、新潟市の石油タンク群で発生した大火災を消し止めるべく、東京から老兵プロペラ輸送機が新潟へ向かいました。

在日米軍と共同で挑んだ世紀の“死闘”を振り返ります。

大地震発生で石油タンクから出火

 1964(昭和39)年6月16日13時01分、新潟県下越沖を震源とするマグニチュード7.5の「新潟地震」が発生しました。この影響で、ひと月前に完成したばかりの「昭和大橋」が落ち、近代的な県営アパートが横倒しになるなど、新潟県を中心に大きな被害に見舞われます。

 加えて、この地震の直後、新潟市の日本海沿岸部にあった製油所で石油タンク5基(4万5000リットル2基、3万リットル3基)が一斉に火柱を上げます。タンク内の「浮屋根」の金属シールと側壁が、地震の揺れでこすれて火花を生じ、原油に引火したことで起きた火災でした。次々と噴き上がる黒煙は、余震によって機能不全を起こした新潟市の上空を覆います。

 夜になるとさらに事態は悪化しました。石油タンク近くの工場から別の火災が発生したのです。さらに炎上中のタンクが熱でこわれて油が流出。火のついた石油は、液状化現象で湧いた地下水や津波の海水にのって燃え広がり、付近一帯は手のつけられない大火災となってしまいました。

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静岡県にある航空自衛隊浜松広報館に展示されているC-46輸送機(柘植優介撮影)。

 油火災には専用の泡消火剤と化学消防車が必要不可欠です。

しかし当時の新潟市消防局に化学消防車は1台もなく、企業所有のものが3台だけ。消火剤の備蓄もわずかでした。

 これを知った東京消防庁は6月16日夕方、化学消防車5台と消防隊員36名を応援として出動させ、消火剤も緊急輸送することを決定します。消火剤は東京と埼玉のメーカーで直接トラックに載せられ、パトカーの先導付きで新潟へ向かいました。とはいえ、当時はまだ関越自動車道などなく(1985年全線開通)、一般道で約11時間以上もかかる大変な行程でした。

泡消火剤を航空自衛隊で空輸せよ!

 しかし、応援が新潟に向かう間にも、火災がすさまじい勢いで広がっているとの情報が次々と入ります。そこで東京消防庁では、航空機による消火剤の空輸を防衛庁(当時)に打診。防衛庁は航空自衛隊の出動を決定します。在日米空軍からも協力の申し出があったため、日米共同での空輸作戦を行うこととなりました。

地獄のコンビナート火災へ向かった空自の老兵機&在日米軍機 知られざる51時間の死闘

1964年6月17日13時5分頃、黒煙を上げ続ける製油所の石油タンクの様子。新潟市東部、中央埠頭付近上空を飛ぶヘリコプターから撮影した写真(画像:国立防災科学技術センター)。

 地震発生の翌日、6月17日早朝、東京都下の在日米空軍立川基地(現在の陸上自衛隊立川駐屯地)に古めかしいプロペラ輸送機4機が集結します。

輸送機の名前はカーチスC-46「天馬」。第2次世界大戦中にアメリカで大量生産され、戦後に航空自衛隊へ供与された、製造から20年過ぎた「老兵」です。在日米空軍からはロッキードC-130輸送機1機が、アメリカ軍提供の消火剤を積んで参加しました。

 集まったC-46とC-130の5機は、消火剤入りポリタンクと専用の噴射ノズルを積んで立川基地を離陸します。新潟空港は施設が破損して離着陸不能であったため、あらかじめ消火剤にはパラシュートがくくり付けられており、それを空港上空で地上へ落とす「物量投下」を実施。こうして新潟に届けられた消火剤は、さっそく火災現場に運ばれ延焼の阻止に使われました。

 そして6月18日午前5時、10時間以上かけて新潟市まで到着した東京消防庁の指揮の下、体制を整えた消防隊による“火災への反撃”が開始されます。誘爆するタンクや煮えたぎる石油と死闘をくり広げる消防隊を支援するため、消火剤の空輸は続行されました。なお、18日から、輸送機の出発地は消火剤メーカーに近い埼玉県の航空自衛隊入間基地に移されています。

ベテラン機 ドラム缶の炎を目標に夜間投下を敢行

 6月18日から19日にかけての深夜には、航空自衛隊のC-46輸送機7機とアメリカ空軍のC-130輸送機3機による夜間空中投下が敢行されました。投下目標は、新潟空港の滑走路上。そこには夜間ということで目印代わりに炎が焚かれたドラム缶が並べられていました。

 ちなみに、C-46「天馬」は、レーダーなどなく、舵も重かったといわれているため、夜間低空飛行は非常に困難であったと想像されます。

 空輸作戦は6月19日午後まで続けられ、延べC-46×22機、C-130×5機により、約8万7730リットルの消火剤の空中投下を達成します。これら自衛隊とアメリカ軍による懸命の空輸、警察の協力、そして消防隊の奮闘により20日午前8時、火災を制圧。51時間に及ぶ消火作業は終わりを告げました。

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C-46輸送機への物資積載の様子(リタイ屋の梅作画)。

 新潟地震では大活躍した航空自衛隊のC-46でしたが、旧式で鈍重、事故も多かったことから評判は決して高い航空機ではありませんでした。しかし、のちに国産のYS-11輸送機(旅客機)や、同じく国産のC-1ジェット輸送機が配備されるまで、航空自衛隊唯一の大量輸送手段として老体に鞭打ちながら日本の空を飛び続けたのです。

 黙々と任務に励んだアメリカ生まれの中古輸送機、いまは航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)を始めとして、航空自衛隊美保基地(鳥取県境港市)や同入間基地(埼玉県狭山市)、同岐阜基地(岐阜県各務原市)、所沢航空記念公園(埼玉県所沢市)などで見ることができます。

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