日本人にはその名をよく知られたアメリカ空軍の戦略爆撃機B-29。同機にそっくりの妹分といえる機体にB-50があります。

世界記録を打ち立てるなどしているものの実戦参加していないため、影が薄い同機について見てみます。

改良型として誕生したB-50

 太平洋戦争末期、日本全土に爆撃のため襲来した戦略爆撃機、ボーイングB-29「スーパーフォートレス」。同機と全く同じ愛称を持つ爆撃機がアメリカ空軍にかつてありました。その名はB-50「スーパーフォートレス」。同機は愛称だけでなく見た目もB-29とソックリさんでありながら、実戦に参加したことがないため、あまり知られていません。

 しかし、航空史に記録を残すなど、決して欠陥機ではありませんでした。

なぜこのような機体が生まれたのか、どうしてB-29とよく似ているのかを見てみます。

 そもそも、B-29こそ最初から明確に戦略爆撃機として開発された初の航空機といっても過言ではない機体です。なぜなら、本機以前の大型爆撃機は、単に爆弾をたくさん搭載して長距離を飛べる重爆撃機として開発されたに過ぎず、敵国深奥にある国家中枢やインフラ、軍需生産設備などを粉砕するという、戦略的運用を念頭に置いて開発された機体ではなかったからです。

 ゆえにB-29は従来の大型爆撃機とは一線を画すほどの高い飛行性能も有していたのですが、同機は重大な問題を抱えていました。それは、「心臓」たるライトR-3350空冷2重星型18気筒エンジンです。「デュプレックスサイクロン」と呼ばれたこのエンジンは高性能でしたが、実用化を急いだせいで火災や故障を起こすことが多く、初期にはそのような事故で失われた機体がかなりの数になりました。

後に改善が進んだものの、それでもエンジンは、本機にとっての大きなウイークポイントでした。

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アメリカ空軍博物館に展示されているB-50「スーパーフォートレス」(画像:アメリカ空軍)。

 しかし、B-29はエンジン以外のメカニズムは、「時代を超えた」先進的なものでした。そこで、問題の多い2200馬力の「デュプレックスサイクロン」エンジンを、より高出力な新型エンジンに換装し、トラブル多発の根本原因を解決するだけでなく、高性能化をはたそうとアメリカ軍は考えます。

 こうして白羽の矢が立ったのが、出力3500馬力のプラット&ホイットニーR-4360空冷4重星型28気筒エンジン「ワスプ・メジャー」。この目的のため、B-29A型のエンジンを換装してXB-44が造られました。

別機種扱いになったワケ

 B-29の大規模改良型といえるXB-44は1945(昭和20)年5月に初飛行に成功。そして、その実績を反映したエンジン換装型のB-29Dが発注されたのですが、わずか3か月後の8月に第2次世界大戦(太平洋戦争)が終結したことで、軍事費は大幅に削減されることとなり、結局、B-29Dの生産はキャンセルされてしまいました。

 しかし、思惑通りエンジン・トラブルの問題が解決され、性能まで著しく向上した「ワスプ・メジャー」搭載型は、大戦をB-29で戦ったアメリカ戦略航空軍団(SAC:Strategic Air Command)にとって「使い勝手を知り尽くした機体の性能向上型」として、どうしても欲しい機種でした。

 そこで、渋るアメリカ議会の承認を得るため、あえて新型機のように装うべくB-50の型式番号が付与されたのです。もちろん、エンジン換装だけでなく垂直尾翼の大型化などかなりの改修も施されていたので、決して議会に対するカモフラージュだけが目的でもなかったようですが……。

偉大なる「B-29そっくり機」って? 実戦投入ゼロのB-50が証明した「世界のどこへでも核爆弾」

B-50「スーパーフォートレス」が搭載した出力3500馬力のプラット&ホイットニーR-4360空冷4重星型28気筒エンジン「ワスプ・メジャー」(画像:アメリカ空軍)。

 余談ながら、アメリカ空軍では爆撃機や戦闘機などの型式番号は、正式に開発が始まった順番で付与されます。そのため、建前上レシプロのB-50は、同じくボーイング社で開発された最新鋭のジェット戦略爆撃機B-47「ストラトジェット」よりも後に開発された機体という位置付けになっています。

 かくして370機が生産されたB-50は、B-29と同じ「スーパーフォートレス」の愛称が付与されました。外観も両者はよく似ています。しかし、性能的にはかなり向上しました。それを端的に示す例のひとつが、B-50A型の1機、ニックネーム「ラッキー・レディII」による、世界初の無着陸世界一周飛行です。

B-50が達成した世界記録と隠れたメッセージ

 1949(昭和24)年2月26日12時21分、テキサス州カーズウェル空軍基地を離陸した「ラッキー・レディII」は、東回りで世界を一周し、4日後の3月2日10時22分に同基地へ着陸しました。飛行時間は94時間1分、飛行距離は3万7742kmで、航路の途中、北大西洋アゾレス諸島のラジェス航空基地、サウジアラビアのダーラン飛行場、フィリピンのクラーク空軍基地、ハワイのヒッカム空軍基地、この4か所の上空でKB-29M空中給油機から飛んだまま燃料補給を受けています。

「ラッキー・レディII」は、長距離飛行に備えて爆弾倉内に増加燃料タンクを積んでいましたが、防御火器の50口径12.7mm機関銃12挺はそのままでした。また、パイロットは休息時の交代要員として1名多い3名が乗り込み、全乗員数は14名を数えました。

偉大なる「B-29そっくり機」って? 実戦投入ゼロのB-50が証明した「世界のどこへでも核爆弾」

アメリカ空軍のKB-50空中給油機。補助として主翼下にジェット・エンジンを追加装備している(画像:アメリカ空軍)。

 このときの成功により、「ラッキー・レディII」は世界初の無着陸世界一周飛行を達成した機体として飛行機の歴史に名を刻むこととなります。ただ、この成功は単に航空史上の快挙というだけではありませんでした。これにより、アメリカ戦略航空軍団は、大統領/政府が決断すれば世界中のどこへでも、核爆弾を積んだ戦略爆撃機を送り込むぞという全世界に向けたメッセージにもなったのです。

 しかし一方で、B-50が実戦に参加する機会はついぞありませんでした。1950(昭和25)年6月に始まった朝鮮戦争には、旧式化したB-29は投入されたものの、本機はアメリカの核戦力を維持するため温存されます。

 やがて軍用機のジェット化により、B-50は爆撃任務からは外れ、改修されて支援機である給油機型のKB-50や気象観測機仕様のWB-50となりました。ただ、これら支援機はジェット化の必要性が低かったこともあって長生きし、1965(昭和40)年まで使われ続けました。そのためKB-50空中給油機は、ベトナム戦争にも参加しています。

 KB-50やWB-50は在日米軍でも運用され、長らく日本に駐留していたので、「B-29のそっくりさん」たるこれら機体は、大戦終結から20年経っても日本の空を飛んでいたのです。

 B-50は生まれた時期が悪かったからこそ実戦参加できなかったと言えますが、逆にジェット化されなかったからこそ、B-29ゆずりの優秀性を活かして支援機として飛び続けたとも言えるのかもしれません。