各国には様々な「武勲艦」が存在しますが、旧海軍の駆逐艦「初霜」もその1つです。初春型駆逐艦4番艦として就役し、太平洋戦争中の主要な海戦に数多く参加、戦艦「大和」の沖縄特攻にも随伴・生還しています。

建造途中で設計変更 武装を減らした姿に

 各国海軍には様々な海戦で活躍した「武勲艦」が存在します。旧日本海軍では駆逐艦「雪風」や空母「瑞鶴」「隼鷹」などが知られますが、駆逐艦「初霜」もその1つに含まれるでしょう。

 太平洋戦争の開戦直後から南へ北へと奔走し、数々の海戦に参加。戦艦「大和」が沖縄に特攻した坊ノ岬沖海戦からも生還しています。有名な「雪風」に比肩するほどの強運な船「初霜」の武勲について、改めて見てみます。

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初霜の同型艦「子日」(画像:アメリカ海軍)。

 駆逐艦「初霜」は、1934(昭和9)年9月に就役した初春型駆逐艦4番艦です。

 初春型駆逐艦は、ロンドン海軍軍縮条約で駆逐艦の保有量を制限された旧日本海軍が、排水量1400トンの船体に、1クラス上の特型駆逐艦(排水量1680トン)並みの性能を盛り込んだ「重武装艦」です。

 当初は特型に比肩する12.7cm連装砲3基6門、魚雷発射管を4連装2基8門(特型駆逐艦は3連装3基9門)とする計画でしたが、4連装発射管の設計が間に合わなかったため、結局主砲5門、魚雷発射管9門の形で就役しました。

 しかし、就役半年前の1934(昭和9)年3月に起きた「友鶴事件」が初春型駆逐艦の大幅な設計変更をもたらしました。演習を行っていた水雷艇「友鶴」が、過度な重武装化によってトップヘビーとなっており、復原力が不足する中で荒天による高波を受けて沈没してしまった事件です。

 これを受け、初春型駆逐艦についても復元力の確保を目的に武装の見直しが図られた結果、「初霜」は就役前に主砲5門、魚雷発射管6門へと武装を減らされています。

 なお、性能改善後の初春型が3連装魚雷2基6門で排水量1780トン。一方、4連装魚雷2基8門を搭載した白露型では同1685トンと軽くなっているため、4連装魚雷発射管が実用化にこぎつけていれば、復原性能問題は表面化せず、後の朝潮型並みの「超重武装艦」になっていたかもしれません。

進水式やり直しで「縁起悪い」とも

「初霜」は建造中に設計変更されただけでなく、進水式でもトラブルに見舞われています。多くの来賓が見守るなか、進水式の船台で停止したのです。軍楽隊が軍艦行進曲(いわゆる軍艦マーチ)を演奏し、くす玉が割れて鳩と五色の紙吹雪が飛び出すなか、動かない「初霜」の前途を建造関係者は「縁起が悪い」と憂いたのだとか。

 結局、1か月遅れで就役した「初霜」は、第21戦隊の駆逐艦として、太平洋戦争開戦を迎えます。同型艦「若葉」「初春」「子日(ねのひ)」と共に、日本近海で対潜掃討に従事しました。

 1942(昭和17)年1月に「初霜」は、オランダ領東インド(現在のインドネシア)の攻略作戦に従事します。このとき、旗艦の軽巡洋艦「長良」と「初春」が衝突し、「若葉」「子日」が護衛で「長良」「初春」を連れて行ったため、司令官の久保少将は、しばらく「初霜」を旗艦にしたそうです。

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初春型駆逐艦の1番艦「初春」。写真は竣工直後で友鶴事件による改装を受ける前なので、1番砲塔と2番砲塔が背負い式など明らか重武装(画像:アメリカ海軍)。

 その後起きたバリ島沖海戦では、第8駆逐隊の朝潮型駆逐艦4隻が、連合軍艦隊と交戦したと聞き、「長良」や「初霜」など第21駆逐隊は現場に急行しますが、海戦が終わった後でした。

第21駆逐隊はバリ海峡を突破しようとしたアメリカ駆逐艦4隻を追撃します。アメリカ艦隊は退却のため蒸気圧を最大にしており、第21駆逐隊は振り切られました。その後「初霜」は「若葉」と協力し、敵武装商船を撃沈しています。

 その後、「初霜」ら第21駆逐隊は、1942(昭和17)年5月に北方部隊へと編入され、軽巡「阿武隈」とともに、アラスカ沖のアリューシャン列島攻略作戦に従事します。アッツ島の攻略を果たし、同島への輸送船団を護衛し続けました。しかし、北方海域は悪天候がひどかったため、行方不明者9名を出すなど、厳しい任務でした。

 そのアッツ島への輸送船団を攻撃するアメリカ艦隊と、「初霜」を含む日本軍第五艦隊はアッツ沖海戦で対決します。「初霜」は「若葉」と共に、重巡「那智」「摩耶」を護衛して海戦に参加しました。ただ、このとき損害を恐れた第五艦隊司令長官の細萱中将が、重巡どうしの遠距離砲戦を続けたこともあり、「初霜」は主砲の射撃も魚雷の発射も外して、戦果を挙げることなく終わりました。

第五艦隊司令部が置かれたことも

 その後、第21駆逐隊は、第五艦隊の第一水雷戦隊に編入されます。1943(昭和18)年夏にはキスカ島撤退作戦に投入されます。しかしその途次、濃霧で軽巡「阿武隈」、駆逐艦「初霜」「若葉」「長波」、海防艦「国後」が多重衝突を起こしたため、損傷した「初霜」は輸送船「日本丸」の護衛に回され、キスカ島の脱出作戦には参加できませんでした。

ただ、撤退作戦そのものは成功裏に終わっています。

 1944(昭和19)年1月となり、「初霜」は、空母「雲鷹」「千歳」「瑞鳳」「龍鳳」を護衛します。潜水艦ハダックの雷撃を受けた「雲鷹」を、駆逐艦「玉波」らと護衛。7ノット(約13km/h)しか出ない「雲鷹」を、敵潜水艦2隻が追撃しますが、「初霜」は見事「雲鷹」を守り抜きました。

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初春型駆逐艦の2番艦「子日」。写真は竣工直後で友鶴事件による改装を受ける前なので、1番砲塔と2番砲塔が背負い式など明らかな重武装(画像:アメリカ海軍)。

 6月、「初霜」はマリアナ沖海戦に補給部隊護衛として参加しました。補給部隊は、駆逐艦「初霜」「響」「雪風」「卯月」「夕凪」「栂」で、タンカー4隻を護衛しました。初春型1隻、特型1隻、陽炎型1隻、睦月型1隻、神風型1隻、樅型1隻と、同型艦は1隻もなく、寄せ集めの編成でした。しかし、アメリカ空母機の空襲被害はタンカー2隻のみで済み、「初霜」が護衛した「速吸」は生き残ります。

 その後「初霜」は、輸送船4隻を、駆逐艦6隻、海防艦4隻で護衛する第二次多号作戦に従事します。このとき「初霜」らは、煙幕で敵機の視界を妨害しつつ、輸送船を護衛し、作戦を成功させました。

 ただ、この間、第五艦隊所属として戦っていた第21駆逐隊の仲間を次々失います。そのため、なんと駆逐艦「初霜」に第五艦隊司令部が乗艦し、駆逐艦「霞」「朝霜」「潮」「竹」を率いてマニラを出港する形となりました。

東京下町の病院に今も残る「初霜」の碇

 以後「初霜」は、損傷した戦艦「榛名」や重巡「妙高」の護衛に就くなどして、1945(昭和20)年をシンガポールで迎えます。

「初霜」は駆逐艦「霞」「朝霜」と共に、航空戦艦「伊勢」「日向」、軽巡「大淀」を護衛する北号作戦に参加します。「伊勢」は高角砲で、敵潜水艦が発射した魚雷を撃破し、「初霜」も魚雷8発を回避するという離れ業を見せます。そういった奮闘などにより作戦は成功、「初霜」も日本本土に帰還することができました。

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駆逐艦「初霜」の全景。太平洋戦争前に撮られたもののため、船体側面に艦名を書き込んでいる(パブリックドメイン)。

 ただ、本土に帰り着いたことで「初霜」は同年4月の坊ノ岬沖海戦に投入されることに。呉で再編成を受け、第二水雷戦隊隷下の第21駆逐隊所属となった「初霜」は、戦艦「大和」を護衛して、沖縄へと向かうことになったのです。

 アメリカ軍艦載機による猛攻の結果、「大和」や軽巡「矢矧」はもちろん、参加した駆逐艦についても、10隻中、「磯風」「霞」「朝霜」「浜風」の4隻が沈没。残った艦は本土に戻ることとなりました。

そういったなか、「初霜」はこの時、魚雷が艦底を通過するものの命中しないという幸運を発揮し、生き残りました。

 なんとか坊ノ岬沖海戦を生き延びた「初霜」ですが、第二水雷戦隊も解隊され、第21駆逐隊も消滅します。結果「初霜」は、同じく生き延びて戻ってきた「雪風」と舞鶴で第17駆逐隊を組みました。

 6月、「初霜」は宮津湾で砲術学校練習艦となります。そして7月末、機雷封鎖された宮津湾を空襲が襲い、「初霜」「雪風」は狭い湾内で袋叩きとなります。

「初霜」はついに被弾し、沈没を避けるために獅子崎付近に自ら座礁します。艦体は中央から折れ、後半は海中に、前半は砂浜に横壁を埋め、艦首を斜めに高く上げた状態でした。生存者は生き残った「雪風」に救助され、そのまま終戦を迎えます。

 こうして「初霜」は旧日本海軍で最後に沈没した駆逐艦以上の艦艇となりました。ちなみに「初霜」の碇は、東京都墨田区の山田記念病院の入口脇で保存されています。これは、同院の開設者である山田正明院長が「初霜」軍医長だった縁とのことです。

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