日本最大の湖・琵琶湖をそのまま北へ伸ばし「太平洋と日本海を運河で結ぼう」という壮大な構想が、実は約1000年前の平安時代から何度も浮かんでは消えています。

人力の引き船で「船、山に上る」を実現か

 近畿地方にある日本最大の湖・琵琶湖をそのまま北へ伸ばし「太平洋と日本海を運河で結ぼう」という壮大な構想が、実は約1000年前の平安時代から何度も浮かんでは消えています。

一歩手前だった「日本版パナマ運河」とは!?「琵琶湖~日本海直...の画像はこちら >>

貨物船のイメージ(画像:国土交通省)。

「琵琶湖運河」や「中部横断運河」「日本横断運河」と呼ばれ、滋賀県北部と福井県南部に広がる標高900m級の野坂山地が舞台で、幅約20kmの区間です。

 若狭湾の敦賀(福井側)から山を越え琵琶湖(滋賀側)に至る塩津街道は、昔から日本海側と京・大坂とを結ぶ一大物流路です。ただし峠越えは人馬による陸運頼りで、水運と陸運との積み替えには「手間・ヒマ・コスト」が非常にかかるのがネックでした。

 なお琵琶湖に到着後は再び船積み(丸子船)で湖南端の大津まで運ばれ、また陸路で京か、あるいはさらに淀川を船で下り大坂へと向かいます。 

 海運で敦賀~大坂間を移動するとなると、日本海西回り航路(下関~瀬戸内海)というものすごい迂回ルートを取らざるを得ません。

気象や時化具合に大きく左右されるため、速くて2週間、ときには1か月以上かかることもざらで、座礁・難破・漂流の危険性もありました。

 対して塩津街道ルートは、煩雑さはありますが日数は3~5日ほど。冬の豪雪で不通の期間はあるものの、琵琶湖での座礁・難破・漂流の危険性はかなり低かったはずです。そこで、より素早くここを山越えできないか、と先人たちはいろいろ知恵を絞って挑みました。

 平安時代末期の1150年頃に平清盛の嫡男で越前(現・福井県)の統治者(国司)だった平重盛が、運河計画を申し出たのが、記録で残るものとしては最古のようです。

 ところが開削作業を始めて間もなく「巨大な岩石」が出現して先に進めず、あえなく挫折してしまいました。

現在でも県境に近い滋賀県側の深坂という場所には「掘止(深坂)地蔵」があり、当時の痕跡と見られています。

 江戸時代に入ると商業の急速な発達で全国の産物の荷動きも活発化し、大量・迅速輸送が求められ始めます。

 これに応じて同時代初期には西廻り航路(北陸~下関~瀬戸内海~大坂)が整備されますが、一方で琵琶湖ルートの衰退を案じた京の豪商たちは、1600年代後半にこの「運河構想」を再び活性化。既存河川を最大限活用して運河掘削の距離を短くした構想を打ち出し、幕府も乗り気でした。しかし敦賀側の商人などから「既得権益を奪われる」と猛反対され白紙となります。

計画を次々に阻む戦争の影

 1800年代初期には、敦賀近隣の笙(しょう)川を使い、引き船を浮かべて人員や馬で「できるだけ上流まで引っ張って遡ろう」という案が登場します。

この計画はそれなりにモノになり、「疋田(ひきた)川船」として幕末まで使われました。

一歩手前だった「日本版パナマ運河」とは!?「琵琶湖~日本海直結」の夢はなぜ何度も散ったのか
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琵琶湖(画像:写真AC)。

 それでも「運河全通」の夢は、明治維新後もいくつか構想として登場します。1873(明治5)年の「阪敦運河」計画は、当時の貴族院も採択し順調に進むかに思われましたが、日露戦争(1904~05年)で予算のメドがつかずあえなく断念となってしまいました。

 同様に1933(昭和8)年には、半植民地の満州国(現・中国東北地方)と京阪神との経済的つながりを深めようと、「大琵琶湖運河計画」が持ち上がります。

 発案したのは土木技師・田辺朔郎。

水害対策や発電目的で京都市内へ水を引くために造られた「琵琶湖疏水」の設計を主導した人物でした。閘門(こうもん。水門の一種)で運河を堰き止めて水面を上下させることで、日本海と琵琶湖の高低差(約85m)を克服し船を通そうというもので、まさに“日本版パナマ運河”です。

 計画では全幅85m、水深10mで1万t級の商船の航行を想定。工期10年を予定していましたが、これも日中戦争と、続く太平洋戦争の激化で幻と消えてしまいました。

「新幹線を停めた男」が船頭役で実現まであと一歩

 第2次大戦後に現れた計画は、あと一歩で実現していたかもしれません。

 1960年代の高度成長期になると、運河計画が息を吹き返します。しかも旗振り役は、当時の与党・自民党の副総裁、大野伴睦(ばんぼく)氏という大物政治家ですから、現実味は俄然増して、周辺自治体は大いに期待しました。

 大野氏は「新幹線を停めた男」として有名です。1964(昭和39)年に東海道新幹線は開業しましたが、「通過県なのにわが県だけ駅がないのは不平等」として、岐阜県の田んぼの真ん中に「岐阜羽島駅」の建設を追加させた実力者です。「政治駅」と揶揄されましたが、地元では英雄視され、駅前公園には同氏夫妻の銅像まで建てられました。

 大野氏は未達成の運河計画を引っ張り出して、実現させようと自ら船頭役を買って出ました。

ただしこれまでの「琵琶湖~大阪(大坂)」とは異なり、「我田引水」よろしく伊勢湾へとルート変更します。

 琵琶湖北部の長浜から姉川を伝って東進して関ケ原を横切り、濃尾平野の揖斐川まで運河を開削する約44kmの部分と、揖斐川~伊勢湾の既存河川を使う約25kmの部分の合計約70kmで、琵琶湖最北端の塩津~敦賀間約20kmを合わせ総延長は110km弱となります。

 運河は閘門式を採用し、3万総トン級の商船が1日あたり18隻。片道の運航時間は北行きで14時間、南行きで20時間を予定しました。また予想工事費は2500~2500億円と見積もりましたが、東海道新幹線の建設費が約3000億円だったことを考えると「超」巨大プロジェクトだったことは確かです。

 大野氏は岐阜、愛知、三重、滋賀、福井の周辺5県など関連自治体を束ね、1962年に「日本横断運河建設促進期成同盟会」を旗揚げ。自ら会長につき「“海なし県”岐阜に港を造る」を口癖に“船頭役”として政府に猛プッシュします。

 これが奏功したようで、何と1963年度には政府から調査費1000万円を獲得。とにかく“剛腕”には定評がありました。

 ところが無念にも、翌年1964年に大野氏は帰らぬ人に。強力なリーダーを失った運河計画は数年後に中止となってしまいました。

 すでにモータリゼーションの真っただ中で、国内物流も急速に整備された高速道路とトラック輸送にシフトしていた時期だったので、仮に完成しても、果たして巨費を投じるだけのメリットはあったのか、という疑問は残します。

 その後も1990年代のバブル期以降も、運河構想は何度か出現しますが、いずれも説得力に欠け、時代錯誤の感が否めないようです。