まるで盲腸のように、地味に存在している首都高の1号上野線。なぜそうした中途半端な状態になっているのでしょうか。
首都高1号上野線は、江戸橋JCTから入谷ランプまで約4kmの盲腸線です。用地の制約から、江戸橋JCTでの接続も銀座方面のみのと不便で、交通量は1日あたり約3万台と、ほかの放射線の3分の1以下に過ぎません。
ただこの上野線には「II期」と呼ばれる延伸計画があり、足立区本木付近でC2中央環状線と接続することになっていました。それが実現すれば、地味な上野線も有効活用されるのではないか。そのように考える方は少なくないでしょう。
現在もこの計画は完全に消えたわけではありませんが、2号目黒線の延伸や練馬線の計画同様、お蔵入り状態になっています。いったいなぜでしょう。
原因のひとつに、ルートがあります。上野線は全線、国道4号線および昭和通りの上に高架構造で建設されていますが、入谷から先の「II期」は途中で西に外れ、三河島浄水場の脇を通って隅田川と荒川を渡り、本木でC2に接続する構想なのです。そこに幅員の広い道路はなく、一部を除いて新規に用地を取得しなければなりません。いったいなぜこんなルートになったのか謎です。
高速道路の建設ルートは、基本的に密室のなかで決定され、いきなり「ここを通ります」と発表されてきました。現在決まっている都市計画はほとんどすべてそのパターンで、「なぜここを通るのか」と尋ねても、誰も答えてくれません。唯一の例外は現在建設中の首都高横浜環状北西線で、ここは事前に3案が示され、住民との話し合いの末にルートが決定されましたが、それまでこのような例は絶無でした。
首都高の下にマンションを造る案も首都高の場合、もともと用地の制約が非常に厳しいので、川床や道路の上など公共用地を可能な限り使っていますから、状況からルート選定の理由が察しやすいのですが、この上野線II期に関しては、見当がつきません。
2000(平成12)年、私(清水草一)は当時の建設省道路局長に、「高速道路のルートはどうやって決定されるのですか」と、単刀直入に尋ねました、答えは、「私ども(建設省道路局)が関係自治体および関係団体と協議の上決定しています」という、簡単明瞭なものでした。その経緯が明かされることはありません。
そこには政治的な圧力も含め、さまざまな要素が入り組んでいるはずですが、すべては闇の中。上野線II期の計画立案は昭和30年代で、もはやルート決定の経緯など知る術もありません。
1992(平成4)年、当時の首都高速道路公団は、この上野線II期について、高さ20メートル程度の高架道路の下にマンションを入れ、用地問題と防災対策の一石二鳥の提案をしましたが、その後、立ち消えになりました。1999(平成11)年、私がこの上野線II期工事について公団に取材した際は、「地下化するしかないと考えています」との回答でした。
いま首都高速道路株式会社にコメントを求めても、「都市計画手続きが行われておらず、弊社としてお答えすることはできません」という、紋切型の回答が返ってくるのみです。
箱崎の混雑緩和に効果がある上野線II期計画、しかし…私がこの上野線II期に興味を持ったのは、これを建設すれば、箱崎JCT~両国JCT間の渋滞がかなり緩和されると考えたからです。
当時、C1都心環状線から7号線小松川方面および常磐道、東北道方面へは、必ず箱崎を通らねばならず、首都高最大の渋滞ボトルネックになっていました。しかし上野線II期が完成すれば、東北・常磐道方面から、箱崎を通らずに都心部へアクセスが可能になります。上野線は江戸橋JCT手前で2車線から1車線に絞られてしまうので、交通容量は限られていますが、それでも交通分散効果は小さくありません。
が、1999年の時点で、すでに公団側は上野線II期工事に消極的でした。効果はあるものの限定的で、地下化すれば建設費は莫大。「それよりも、中央環状線の全線開通に全力を挙げたいと考えています」というのが、公団側の回答でした。
あれから16年。そのあいだに公団は民営化され、C2の王子線、新宿線、そして品川線が順次開通し、箱崎~両国間の渋滞は大幅に緩和されました。もういまさら、巨費を投じて上野線II期を建設すべしと主張する人は少ないでしょう。それよりも目黒線の第三京浜への延伸のほうが、はるかに費用対効果は上です。
ただ、上野線II期の計画があったことは間違いありません。荒川に架かる西新井橋のやや西寄り、C2本木付近の高架は、内回りと外回りで高低差が付けられています。
なぜC2のこのあたりだけ、内回りと外回りに高低差があるのか、そのことに疑問を抱く方は少ないと思いますが、この構造は、少なくともC2が大規模更新で造り直されるまで、あと数十年は残るでしょう。