今年ついに、東京都の環状2号線が全通します。しかしその計画は元々、1世紀近くも前に誕生したものです。
2015年11月、東京都の舛添知事は、都心と臨海部を結ぶ道路として都が整備中の環状2号のうち、港区新橋~江東区豊洲間の3.4kmを今年、2016年12月をめどに暫定開通させるとの見通しを明らかにしました。築地市場が今年11月に豊洲へ移転するのに伴い、その跡地に仮設道路を造るとのことです。本計画(トンネル)による開通は、2020年のオリンピック前が目指されています。
環状2号線が計画されたのは、1927(昭和2)年のことでした。
環状2号線は大部分が「外堀通り」をなぞっていますが、虎ノ門から新橋までの区間は、幹線道路の空白地帯に新設することが計画されました。これがいわゆる「マッカーサー道路」と呼ばれた部分です。実際にはGHQとはまったく無関係で、マッカーサーが建設を指示したというのは都市伝説に過ぎません。
この虎ノ門~新橋間(「新虎通り」とも呼ばれる)が開通したのは2014年6月。計画から87年が経過していました。
その先、新橋から豊洲までの延伸計画が決まったのは1993(平成5)年です。こちらは汐留や臨海副都心の整備に合わせたものですが、今年、暫定開通するのはその区間で、これによって環状2号線はついに全線開通することになります。
なぜ東京の環状線は完成がこんなに遅いのか「環状線」といえば、近年は首都高のC2中央環状線、外環道、圏央道の「3環状」に注目が集まっていますが、「東京の環状線」といえば先述のように、一般街路の環状1号線から8号線までの計画のほうがずっと先輩です。しかし全体の完成は、はるかに後から計画された「3環状」が先になりそうです。
東京の一般街路の環状線は、1世紀近く前に計画されていながら、なぜこれほど完成が遅れているのでしょう。
理由のひとつは予算不足です。
欧州史は外敵の侵入の歴史です。生命を守るため都市は城塞化する必要があり、強力なリーダーシップや、強制性を伴った都市計画が必須でした。アメリカもその歴史を引き継いでいます。
しかし日本は、外敵の侵略を受けた経験がごくわずかしかありません。民衆にとって最大の敵(?)は支配階級であり、都市計画は民有地を奪う権力の横暴として、江戸期から激しい抵抗の対象だったのです。
明治以降、東京の都市計画には3回、大きな転換期がありました。
(1)関東大震災後の震災復興期
(2)太平洋戦争後の戦災復興期
(3)「東京オリンピック(1964年)」整備期
環状2号線などが計画されたのは(1)の時期です。震災復興時、元東京市長だった後藤新平が復興院を率いて非常に野心的な計画を立てましたが、予算不足や各界の反対などで大幅な縮小を余儀なくされました。それでも現在の都心部と下町の道路整備はほとんどこのときに実行され、現在も東京の都市機能を支えています。
この時期に計画された8本の環状道路のうち、実際に震災復興事業として造られたのは環状5号線、つまり「明治通り」だけ。これが東京初の環状道路で、当時の感覚としては現在の外環道に当たるでしょうか。
実は東京は、太平洋戦争後の戦災復興期には、ロクに道路を新設できていません。当時、日本は敗戦国で予算もないうえ、GHQは日本を中進国に戻せば十分と考えており、東京の復興計画に冷淡でした。当時の安井東京都知事も、焼け出されて食うにも困っている人が多いのだから、都市計画など後回しでいいという考えで、千載一遇の機会を逃したのです。
環7が全線開通したのは1985(昭和60)年、環8は2006(平成18)年です。計画から完成までそれぞれ58年、79年かかりました。
一方、環1から環4までは既存の道路を転用するなど、当初から“つぎはぎ”で計画されたものでした。うち環3と環4はいつ完成するのか、現在も目途が立っていません。
環3(外苑東通り)には拡幅事業中の区間があります。環4(外苑西通り)は現在、新宿区内で原道のない区間が330メートルにわたって新設中です。ただいずれも、建設速度は牛歩です。
しかしそれでも、20世紀中のことを思えば、3環状高速の完成が見え、環状2号線も全線開通が間近な現在は、2020年の「東京オリンピック」に向けての「第4の道路建設期」といえるのかもしれません。