橋上秀樹インタビュー 後編

野村克也原辰徳、辻発彦といった名将たちの「参謀」として常勝チームを支えた橋上秀樹氏。インタビュー後編では、巨人時代の原監督とのエピソードや、阿部慎之助(現・巨人二軍監督)に与えた打撃開眼のきっかけ、ヘッドコーチに求められる役割について語ってもらった。

原辰徳監督と阿部慎之助から信頼を得たきっかけ。橋上秀樹が明か...の画像はこちら >>

現在は新潟アルビレックスBCの監督を務める橋上秀樹氏

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 2005年、楽天ヘッドコーチに就任した橋上秀樹氏は、4年にわたり監督を務めた野村克也氏とともに2009年限りで退団。その後、1年間、解説者として活動し、2010年10月に独立リーグ・BCリーグの新潟アルビレックスBCの監督に就任した。

「いくつかのNPB球団からコーチのオファーはいただいていたのですが、『監督』というポストで要請をいただいたのは新潟アルビレックスBCだけでした。野村監督から教えを受けた組織運営のあり方や人材育成について私が記した著書を、新潟の球団の方に読んでいただいたというのがきっかけでした。それまでまったくと言っていいほど独立リーグについて知識がなかったのですが、監督というポストにやりがいを感じ、引き受けることにしたんです」

 監督として、10代から20代前半のNPB入りを夢見る若者たちと過ごすなかで、橋上氏はかつて自身が野村氏から聞かされた「人間的成長なくして、技術的な成長なし」という言葉を繰り返しチームに言い聞かせた。2011年シーズン、開幕の4月から6月までの前期こそ東地区で最下位だった新潟だが、7月以降は徐々に成績を伸ばし、9月には後期優勝を飾った。
そしてプレーオフでは球団創設5年目にして初の地区優勝。そんなチームの成長を興味深く見つめていた人物が、当時の巨人GM・清武英利氏である。


「2011年の7月と9月に2度、巨人の二軍チームと新潟が"交流戦"を行ないました。1試合目は3対2で新潟が勝利し、2試合目は10対0で新潟が圧勝。その試合を見ていた清武GMからしばらくして連絡があり、『来季から巨人に来て、戦略部門を強化してほしい』というオファーをいただきました。巨人という名門球団で、OBでもない自分が指導できる機会は多くない。
私は巨人の『戦略コーチ』を引き受けることにしました」

 ところが、橋上氏が予期しなかった出来事が起こる。戦略コーチ就任会見からわずか10日後、あの"清武の乱"が起きる。清武氏は解職となり、橋上氏は自らを抜てきしてくれた最大の後ろ盾を失うことになったのだ。

「生え抜きの指導者が多い巨人のなかで、スタートの時点で"マイナス"から入ったことは事実でした。2011年の秋季キャンプ、そして2012年の春季キャンプを経て、そうした"距離感"は痛いほど感じていた。当初は原監督とも距離があって、こちらに何かを聞いてきたり、積極的に会話をしたりするような間柄ではなかったですね」

 2012年シーズンが開幕し、橋上氏は戦略コーチとして一軍ベンチに入った。

巨人は開幕直後から打線が振るわず、4月には2度の5連敗を喫するなど下位に低迷。そこで橋上氏は原監督に呼ばれたという。

「神宮球場のヤクルト戦で敗れた後でした。ビジターのロッカールームで岡崎(郁)ヘッドコーチ、江藤(智)打撃コーチ、村田(真一)打撃コーチら、一軍のコーチ陣が呼ばれました。原監督が『この状況を打破するためにはどうしたらいいか』と言われ、それぞれが意見を述べたのですが、最後に私に順番が来た時に『小笠原(道大)の起用法を考え直したほうがいいのではないでしょうか』と言いました。

 開幕からずっと小笠原がスタメンで出場していたのですが、前年のケガから続く不調で結果を残せていなかった。
その小笠原について進言した瞬間、原監督が間髪を置かずに『そうなんだよ。実は俺もそこに頭を痛めているんだ』と。原監督はFAを経て入団してきた小笠原に特別な思いがあったようで、これまでそのバットで何度も助けられてきた。だからこそ、なかなか外す決断ができなかった。今から思えば誰かに背中を押してもらいたかったのではないでしょうか」

 チームは小笠原をスタメンから外す決断をした。その後、5月に入ると投打が噛み合い上昇気流に乗る。
交流戦ではセ・リーグのチームとして初優勝。その後、リーグ優勝と日本シリーズ制覇を成し遂げた。


「あの小笠原の一件で、原監督との距離が縮まったかなと思います。その後はベンチで質問されることも多くなりました」

 首脳陣の信頼を勝ち取った橋上氏は、同時にその的確なアドバイスで選手からの信頼も勝ち取っていった。特に安田学園高校の後輩でもある阿部慎之助(現・巨人二軍監督)は全幅の信頼を寄せた。きっかけとなる出来事があったという。



「2012年まで、阿部は高い打撃技術を持っているにもかかわらず、なぜかタイトルを獲ることができないでいました。そこで阿部に対して『配球』の話をしました。それまでは打者と捕手を別々に考えているように見えた。まず言ったのが、『打者・阿部慎之助』として考える相手バッテリーの配球を、『捕手・阿部慎之助』の時に生かすこと。それが、相手のウラをかくことや、かわすリードにつながるのではないかとアドバイスしました。同じように、捕手としての心理を、打撃にも生かせば、もっと成績も向上するはずだと。それ以降、阿部は打席に立つ際、狙い球をどう絞るのか、状況に応じてどういう打撃をしたらいいのか、より深く考えるようになったと思います」

 橋上氏が戦略コーチに就任した2012年、阿部は打率.340、打点104で打撃タイトル二冠を獲得した。卓越した打撃技術に、橋上氏のアドバイスを生かした捕手としての「読み」を加えた結果だった。

「阿部からは『僕がタイトルを獲れたのはあのアドバイスのおかげです』といまだに感謝されています。もともと阿部は高い技術を持っていたので、私は彼が持っているポテンシャルを引き出す"きっかけ"を与えたにすぎないと思っているのですが、そう言ってもらえるのはうれしいことです。阿部の成績が上がったことで、巨人の他の選手もアドバイスを聞いてくれるようになった。阿部慎之助というチームの中心選手を味方につけたことで、巨人で信頼されるようになったと思います。

 ただアドバイスの仕方は選手によって変えました。一番わかりやすい例が坂本勇人長野久義(現・広島)です。坂本はこちらから多くのことを言うと"拒否反応"を示すようなタイプ。そのため、あえていろいろ言わないようにして、本人が興味をそそる程度のデータを提供し、あとは自分から聞いてきたら答えるようなスタンスにしました。一方、長野は、事前に聞けるデータはすべて聞きたいというスタンス。こんなに聞いたら頭が混乱するのではないか、というくらい相手の細かなデータを希望してきました」

 坂本と長野は2012年、ともに最多安打(173安打)をマークし、タイトルをわけ合った。それまで楽天、そして独立リーグで指導者としてキャリアを積んできた橋上氏にとって、巨人という名門球団で結果を残したことは「自信になった」と言う。その年のオフには第3回WBCの日本代表戦略コーチに抜てきされた。橋上氏は2014年までの3年間、戦略コーチ、打撃コーチとして巨人の3連覇に貢献した。

「結局、選手との信頼関係を築くためにはコミュニケーションが大切で、人となりを把握し、相手のニーズに合うようにやらなければ長続きしません。特にベテラン選手は若い選手以上にプライドもあるので、そこは尊重しなければいけないし、気を遣う必要がある。『信は万物の基を成す』という野村監督の言葉は、指導者として常に胸にありました」

 橋上氏は巨人退団後の2015年に楽天でヘッドコーチを務め、2016~18年までの3年間、西武で一軍作戦コーチや野手総合コーチ(ヘッドコーチ格)を歴任。2年目にはその年就任した辻監督のもとで4年ぶりのAクラス入りとなるリーグ2位、そして2018年には10年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた。チーム打率.273、196本塁打、792得点を誇った強力な攻撃陣は「山賊打線」と呼ばれた。

「西武では浅村栄斗森友哉、金子侑司といった主力選手と個別ミーティングをやりました。辻監督とも野球観にズレはなかったですし、それまでに野村監督や原監督を経験していたことで、自分自身に柔軟性が生まれて、監督の求めに合わせることに関してはまったく窮屈さを感じませんでした。ただ、辻監督は僕の顔を見る度に『俺はID野球じゃないから』と言うのが口癖でした(笑)。

 辻監督は現役時代、森祇晶監督のもとで活躍し、最後はヤクルトの野村監督のもとで過ごしたことで『さらに野球を勉強できた』と言っていました。中日では落合博満監督のもとでコーチもしている。いろいろな監督に仕えて野球経験を重ねてこられた方なので、そういう口癖になったのだと思います」

 数々の名将のもとで"ヘッドコーチ"などの参謀を経験してきた橋上氏。改めてその役割をどう考えているのだろうか。

「まずは監督が求めるものに対してストレスのないように準備をすること、監督の仕事がスムーズに進むような準備をすること、ですかね。それに加えて、監督とコーチ、監督と選手、コーチと選手の間を"取り持つ"働きをして、チームという組織を円滑に回すための潤滑油みたいな役割はあります。それが時には一軍と二軍の間、ということもあるし、コミュニケーション能力が高くないとできない仕事ですね。尖っているのもダメで......まあ、やっているうちに尖っている部分はどんどんそぎ落とされていって、真ん丸になりますよ(笑)。

 組織内での立場でいえば、『嫌われ者』ですよね。その嫌われ者の部分を担えるかどうかがヘッドコーチには問われる。2015年に大久保博元監督のもとでヘッドコーチを1年やりましたが、のちに大久保監督から『橋上さんには僕に代わって嫌われ役をやってもらえて、僕が言いづらいことも言ってもらって、助かりました』と言ってもらえました。選手に言いづらいことを言うのもヘッドコーチの仕事ですから」

 今年、橋上氏は10年ぶりに独立リーグ・BCリーグの新潟で監督を務めている。NPB入りを目指す選手たちと汗を流す中で、10年前との選手の"違い"も感じている。

「今の選手は10年前に比べると、情報を手にしやすい環境にあります。例えば、YouTubeでダルビッシュ投手がこう言っているとか......そうしたレベルの高いものに触れやすくなっている反面、頭でっかちになっている選手が非常に多いと感じます。表面的に『わかっています』ということが多く、でもその奥深いところに話を持っていくと理解できていない、間違ったとらえ方をしている選手がいます。

 映像は表面ですから、その奥に基本的な部分があるわけで、そこをもう一回掘り下げて理解する必要がある。ただ間違いなく10年前よりも持っている力、素材として能力が高い選手が多いので、なんとかもう一皮、二皮むければ上(NPB)に手が届くのではという選手がいるのも事実です。そういう意味では非常に楽しみです」

 6月19、20日には地元・新潟市のハードオフ・エコスタジアムで古巣である巨人の三軍と交流戦を戦った。第1戦は2対7で敗れたものの、橋上氏が期待を寄せる新潟の中軸2選手が本塁打を放った。第2戦は6人の投手リレーで4対3と競り合いを制した。5月から6月中旬にかけて負けが続いたチーム状態は、ここにきて徐々に上向いている。「だいぶ野球らしくなってきました」と試合後に笑った橋上氏。10年前も夏場以降にチームの成長が加速し、球団初の地区優勝を成し遂げた。新潟のファンはその再現を期待している。「巨人との2連戦で得た自信を胸に、選手はさらに成長してほしい」。名将のもと、参謀として重ねてきた経験と引き出しを、橋上氏はいま若い選手たちに惜しみなく注いでいる。

Profile
橋上秀樹(はしがみ・ひでき)
1965年11月4日生まれ、千葉県出身。安田学園高を卒業後、1983年にドラフト3位でヤクルトに入団。日本ハム、阪神を経て、2000年に現役引退。2005年に新設された楽天イーグルスの二軍外野守備・走塁コーチに就任し、シーズン途中に一軍外野守備・走塁コーチに昇格。以降、独立リーグの新潟アルビレックスBCの監督、巨人の一軍戦略コーチ、第3回WBC(2013年)の戦略コーチ、楽天一軍ヘッドコーチ、西武の一軍野手総合コーチなどを歴任。現在は再び新潟アルビレックスBCの監督を務める。