石井慧インタビュー 後編

(前編:K-1でも無差別級にこだわるわけ>>)

 インタビューを行なう場所に、練習終わりの石井慧は黒のスウェット姿で現れた。その上着には、クロアチアの国旗と、チーム・クロコップの刺繍があしらわれていた。



 2017年から練習拠点をクロアチアに移し、クロアチア国籍も取得。チーム・クロコップ所属の選手となり、今は生まれ育った日本で「K-1」のリングに立っている。柔道の金メダリストからプロの総合格闘家となって10年余り。石井がその型破りな格闘技人生を振り返るとともに、最終目標について語った。

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北京五輪で金メダルを獲得したあと、プロの格闘家になった石井

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ミルコ「(石井は)ダイヤモンドの原石」

――2009年に日本でプロ格闘家としてデビュー。その後、アメリカ、オランダを経て、最終的にはクロアチア国籍を取得しました。そこにはどんな理由があったんですか?

「クロアチアに落ち着いた、という感じです。

クロアチア人はすごく優しくて、住みやすい。雰囲気は昔の日本みたいですね。日本は今、ちょっと敏感になりすぎてるところがあると思うんですよ。自分の両親は体育教師なんですけど、今はケンカもヘタに止められないらしいですね、『触れちゃダメ』とも聞いています。教師が生徒に、過剰に気を遣う世の中。よく先生に叩かれた昔がいいってわけではないですけど(笑)。
少し窮屈に感じます」

――クロアチア国籍を取得された時、クロアチアの方たちの反応はどうだったんですか?

「みんな喜んでくれましたよ。クロアチアは経済的に、日本ほど発展していないので、若い人はドイツなどに働きに出て行っちゃう。だから経済が発展している日本から僕が来たということが、すごく嬉しかったみたいです」

――金メダリストとしての見られ方も、日本とは違いますか?

「違いますね。クロアチアも、ロシアでもすごく敬意を持って接してくれます」

――反対に、日本の周りの方の反応は?

「日本では、あまり何も言われなかったですね。ニュースでちらっと出たくらいでした(笑)」

――過去に戦ったことがあるミルコさん(2014年に2度対戦して連敗)に辿り着いた経緯は?

「僕に勝ったあと、彼はUFCでも勝ってRIZINでも連勝して。それを見ていて、『一度練習に行かせてください』と自分からお願いしました」

――練習環境は?

「ミルコの自宅の地下にジムがあって、そこで練習しています。

チーム・クロコップにはトレーナーが何人かいて、ミルコからも直接指導してもらいますよ」

――ミルコから言われて印象的な言葉はありますか?

「『ダイヤモンドの原石だから、磨けばまた輝く』みたいなことを言ってくれました。クロアチア人はすごくポジティブ。ミルコも現役時代、周りがネガティブなことを言うことをかなり嫌うほどだったそうです。

 僕がクロアチアに行ったのが2017年で、その前に3連敗していました。精神的にけっこうしんどかった時です。周りから何度も『もっとこうしないとダメだ』とか、ネガティブな言葉ばかりかけられて......。
観葉植物でも、ずっとネガティブな言葉を浴びせ続けると枯れると聞いたことがありますですけど、まさにあれですね」

――石井選手は、周りの意見をあまり気にしないイメージが勝手にあるんですが、そんなことはない?

「SNSなどで不特定多数の人に悪口を言われてもまったく気にしないんですけど、近い人に言われると嫌ですね」

「ミルコのジムは練習時間が長い」

――ミルコさんといえば、一撃必殺の左ハイキック。それを教わることもあるんですか?

「そうですね。ミルコ曰く、カギは左ミドルらしいです。左ミドルをレバーに入れて、それがあるから左ハイも当たると」

――クロアチアの食事はどうですか?

「今までアメリカ、オランダ、クロアチアと行ったんですけど、クロアチアが一番好きです。なんでもあるんですが、養殖マグロが有名なんですよ。日本も、クロアチアから養殖マグロを輸入することが多いんです。向こうでは、マグロを安く買えますよ」

――石井選手は、柔道の強豪、国士舘大学出身。

上下関係は相当厳しかったんじゃないですか?

「国士館は、強かったら大丈夫なんです(笑)。僕は高校3年生の時にオリンピック予選とかで優勝していたので、大学に入学した時は、ある程度は居場所がありました。先生には厳しく指導いただきましたけど、そこまで厳格な上下関係はない感じでしたね」

――柔道の五輪金メダリストになるまでの練習量と厳しさは想像を絶するほどだったと思います。それと比べて総合の練習はどうでしたか?

「確かに、柔道の組みだけの練習は長くできますが、打撃があるかないかで感じる長さが違いますね。ミルコのジムでの練習は、メチャクチャ長く感じます(笑)」

ヒョードルから「年末は石井とやることにした」

いきなりヒョードルから名指しで対戦。石井慧が向かい続けてきた過度の期待に「異様にハードルが高かった」

インタビューでは冗談も交えながら質問に答えた

――金メダルを獲得した時は21歳。五輪連覇も期待される中でプロ格闘家に転身しますが、当初はUFCとの契約を目指していたんですか?

「そうですね。でも、契約が期限の中でまとまりませんでした」

――2009年大晦日のデビュー戦(「Dynamite!!~勇気のチカラ2009~」)は、同じ柔道出身の吉田秀彦さんでした。
石井選手への期待値は、とてつもなく大きかったです。

「僕だけ、異様にハードルが高いですよね(笑)。K-1に出ることになってからも結果をすぐに求められますし」

――当時、柔道やレスリングなどでキャリアを十分に積んでからプロの格闘家に転身する人が多かったなか、バリバリの金メダリストが総合格闘家になることは珍しかったですね。

「いや~......というより、何かを言われやすい人っているじゃないですか。学校でも先生によく目をつけられる生徒みたいな。僕はそんな感じなのかな(笑)」

――そうじゃないと思いますけどね(笑)。「ヘビー級で世界と戦える若い選手が来た」という期待だったと思いますが、結果が出せずにつらい時もありましたか?

「格闘技以外のことで思うようにいかなくて、きつい時がありましたね。例えば、自分はもっと試合のペースを早くして、相手のレベルは段階を踏んで上げて行きたいという思いがあった。でも、名前が先行した分、それができませんでした」

――エメリヤーエンコ・ヒョードル選手とも早い段階で対戦(総合格闘技に転向後7戦目。「元気ですか!! 大晦日!! 2011」)していますね。

「早かったですね(笑)。あれは、ヒョードルから言われたんですよ。ヒョードルがロシアでジェフ・モンソンと対戦して勝ったあと、会見で『年末は石井とやることにした』って。友達からも『ヒョードルが石井とやるって言ってるぞ!』って連絡が来ましたよ(笑)。これは断っちゃいけないなって思いました」

――戦える時に戦うというスタンスなんですね。

「相手がいつ引退するかもわからないし、お互いにケガをして対戦できなくなる可能性もある。自分が50歳、60歳になった時に、キャリアを振り返って『あぁ、俺ヒョードルともやってるよ』となれるのはいいですよね。今現役の選手たちも、引退して10年、20年経ったら誰も気にしなくなる。辿ってきたキャリアを振り返るのは自己満足ですね」

格闘家・石井慧の最終目標

――石井選手の最終目標は?

「やっぱり、UFCでやっていきたい。それはデビュー当時から変わらないです」

――石井選手が思う、強さとは何ですか?

「僕にとって強さは、自分のわがままを貫く人ですね。自分のやりたいことをできる人。でも、強さっていろいろあると思うんです。単純な力、精神的な部分、お金があること、高い地位にいることとかそういうものも全部含めて、"強いとなんでもできる"という感覚があります」

――最後に、石井選手にとって格闘技とは?

「なんですか、この『プロフェッショナル』みたいな締めの質問は(笑)。いい音楽が流れてきて『格闘技とは人生です!』と言わないといけない流れですね。

 僕にとって格闘技は"仕事"です。趣味だと、体調が悪いと休んじゃいますよね。仕事だったら、多少体調が悪くてもやる。あと、仕事にしないと自分は無職になっちゃうんで。

 こんな感じですが、ちゃんと締まりましたかね(笑)」

 最重量級で最強を求め、世界を渡り歩いてきた石井慧。あくまで目標は、デビュー当時と変わらぬ「UFC」。求道者は世界最高峰の舞台を目指し、今も歩み続けている。

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【プロフィール】
■石井慧(いしい・さとし)
1986年12月19日生まれ(35歳)、大阪府茨木市出身。柔道では2008年北京五輪の100kg超級で金メダルを獲得。五輪後にプロ格闘家に転向し、翌2009年の大晦日に吉田秀彦戦でプロデビュー。国内外のさまざまな大会でキャリアを積み、2017年からは練習拠点をクロアチアに移し、ミルコ・クロコップ率いるチーム・クロコップの一員として試合を続ける。2019年にクロアチア国籍を取得。2021年9月のK-1デビュー戦で判定勝ちを収めると、12月のK-1大阪大会でも勝利して2連勝中。