1992年の猛虎伝~阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:亀山努(後編)

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岡田彰布の代打で出場

 1992年の開幕カードで抜擢されて即結果を出し、2番・ライトに定着しつつあった亀山努。一塁にヘッドスライディングするなど、従来の阪神にいないタイプとして低迷していたチームを勢いづけた。そんななか、4月25日の中日戦では足の軽症でベンチスタートとなったが、不振の岡田彰布に代わって、亀山が代打で起用されることになる。

「いやもう、えらいことしてくれたな、監督......と思いましたよ。最後の優勝メンバーの主力ですから。平田(勝男)さん、木戸(克彦)さんもいらっしゃいましたけど、その方たち以上に真弓さん、岡田さんは憧れの先輩で。とくに岡田さんの前では緊張してピリッとしますから。『カメ、行くぞ』とだけ言われて出て行ったら、パッと背番号16が見えたんで、『え? まさか...』となって」

 開幕から「5番・ファースト」で出続けていた岡田だったが、ケガもあり打撃の調子を崩し、前日までの打率は.185。前日も再三のチャンスで凡退すると、この日は7番に降格し、5回一死満塁のチャンスでベンチに下げられた。

岡田にとって、シーズン前半にチャンスで代打を告げられたのはプロ13年目にして初めてのことだった。

 当然、亀山にとっては重圧でしかなかった。

「うーわ、えらいことになったと思って、テーピングぐるぐる巻きでいきましたけど、打ったらピッチャーゴロです。もう痛みも何も感じずに全力で一塁まで走りました。で、真っすぐベンチ裏のロッカー、岡田さんのところへ直行です」

 亀山は岡田の前で「すいませんでした」と謝った。「しゃあない。

ええよ。おまえのせいちゃうからな」と岡田は返した。自分に対して怒っているわけではないのだろうと亀山は感じたが、終始ピリピリしている岡田が怖かった。監督の起用法に不満があることは明らかだった。

「あの時は名古屋遠征で、その夜、岡田さん、宿舎で大荒れでした。飲んでたからだと思いますけど、廊下で大暴れしてましたから。

『人生初の代打を送られた』と言ってましたね。実際、岡田さんに代打なんてありえないという時代でしたから」

 同じベテランで85年の優勝メンバー、真弓に代わってライトでスタメン起用。さらに岡田の代打で起用する。両選手とも結果が出ていなかったとはいえ、中村監督は世代交代を踏まえ、あえて若い亀山に代えたのではないか。

「のちのち、僕が引退したあと、ある酒の席で監督と一緒になった時に言ってました。『日本一になった優勝メンバーに取って代わるっていう、時代の象徴にしなきゃいけないと思ったんだよ』と。

『そんな無責任な! 何も言わずに』って酒の勢いで返しましたけど、監督も酔っぱらってて、『おまえしかおらんやろう~! ガハハ』って笑ってました」

「亀新フィーバー」に沸く陰で、人生初の代打交代で大暴れするベ...の画像はこちら >>

1992年の阪神は新庄剛志(写真左)と亀山努の

「亀新コンビ」誕生にファン熱狂

 チームは4月に12勝9敗と勝ち越し、5月も同じ12勝9敗。開幕から仲田幸司、中込伸、湯舟敏郎を中心とする先発陣が安定し、抑えの田村勤が5月末時点で3勝0敗11セーブと盤石なのが大きかった。打線は5月20日、4番・オマリーが右手骨折で離脱となったが、代わりに昇格したプロ3年目の新庄剛志が同26日の大洋戦、7番・サードで出場していきなり結果を残す。

「新庄、一軍に上がってきた最初の試合ですよ。1打席目の初球、ホームラン打っちゃったんです(笑)。ファームで一緒にやってた僕がいるから、それならオレもできる、というのはあったと思います。ほかにもキャッチャーの山田(勝彦)、ピッチャーの中込(伸)もそうだし、二軍組がまあまあいて、新人の久慈(照嘉)もいたので、『これはいけるんじゃない?』って感じたと思います」

 赤い手袋と赤いリストバンドが目立ち、マスコミが「第2の亀山」と称した新庄。

豪快なスイングで即結果を出し、7月からセンターを守った。亀山と新庄、若い外野手コンビの活躍がファンを熱狂させ、のちに"亀新フィーバー"とも呼ばれるのだが、そうして迎えた6月9日、阪神は甲子園での中日戦に勝って7年ぶりに単独首位に立つ。ただ、亀山の打力は下降気味だった。

「そのあたりからずっと疲れてましたね、たぶん。もちろん、それでもやり続けるしかないですけど、人にも疲れ、取材にも疲れる。それと、体だけじゃない、頭も疲れる。

打ち取られた配球の反省があり、3連戦の頭にやる配球の勉強があって、盗塁するためにピッチャーのモーションを見て、守ってる時のために相手バッターの打球方向の傾向も見なきゃいけない」

 ただ見て、来た球を打つような野球から、ここへ投げさせるためにどう振り、どう見送るか......というような野球に変わった。ファームではそこまで細かくなかったから、亀山自身、これまで以上に考えて野球をするようになり、自ずと夜遊びする時間もなくなっていた。

 一方、チームは6月末から7月の頭にかけて7連敗。また低迷に逆戻りかと思われたが、復調した先発の野田浩司が連敗を止め、快投を続けていく。前半戦は貯金4、首位巨人に1ゲーム差の2位で折り返した。

 亀山は和田豊、久慈らとともにファン投票でオールスターに選出され出場。亀山の得票数は王貞治(元・巨人)に次ぐ史上2位と、まさに絶大な人気のスターだった。

「うれしかったですよ。オールスターはテレビで見ていた世界ですから。ただ、出ることで、体は休めない。本当に大事なのはペナントレースなので、体力的にはうれしくなかったですね」

選手の人生を狂わせた大誤審

 後半戦、阪神は大きな連敗もなく、ヤクルト、巨人、広島との首位戦線に踏みとどまる。9月に入り、8日には4チームが3ゲーム差にひしめくも、阪神は翌9日の広島戦から19日の横浜戦まで1つの引き分けを含む7連勝。2位巨人に3ゲーム差、3位ヤクルトに3.5ゲーム差をつけて首位に立った。

 だが、問題は「引き分け1」だ。11日、甲子園でのヤクルト戦。3対3の同点で迎えた9回裏、二死一塁から八木裕が放ったライナーは左翼席に飛んだ。平光清塁審が右腕を回して「本塁打」。サヨナラ2ランにナインは歓喜し、スタンドは大歓声となった。ところが、ヤクルト側から「打球はラバーフェンス内側にあたり、スタンドインした。エンタイトル二塁打では」と抗議があった。

 審判団協議の結果、判定を訂正。怒った阪神側は「この承諾はできない」と、ベンチ内で審判団と折衝。最終的には37分間の中断の末、エンタイトル二塁打となり、試合再開。延長15回でも決着がつかず、史上最長となる6時間26分の死闘は当時の規定で引き分け再試合となった。

「百歩譲って、試合の途中ならまだしも、ゲームセットじゃないですか。こっちはスイッチを切るわけですから、誤審はありえないです。だいたい、相手は最後の最後まで邪魔だったヤクルトですから、ウチが勝っていたら大きなアドバンテージです。それが逆にもう1試合やることになっちゃった。あの誤審が、我々タイガースの選手全員の人生を狂わせたんです」

中村監督が放ったまさかのひと言

 30年経っても、亀山の疑問と悔恨は解消されていない。それでも当時、不本意すぎる試合を戦ったにもかかわらず、阪神は翌日からまた勝ち続けている。優勝に向かってチームが結束していたからこそではないだろうか。

「結束して、一丸でしたよ。ただ、監督がいらないことを言ったんですよね。7連勝を決めたあと、『今度、甲子園に戻る時には、みなさんに大きなお土産を持ち帰りたい』って。それを聞いて、一気にみんなカチカチになっちゃったんです。そこから緊張して、動かなくなって。しかも、急にバントのサインが増えて、失敗して怒られる選手もいて、練習するぞ、と」

 20日間、13試合の長期遠征中の東京。予定外で施設も手配していなかったためか、昔の巨人の多摩川グラウンドでバント練習となった。亀山自身、前半戦は「バントをしない2番打者」で、足があるからゲッツー崩れで残り、盗塁したら同じというスタイルだった。それが最後の最後、監督が力んでスタイルを崩し、堅実な野球をしようとしたことが残念だった。

「それで9月の終わり頃のことです。ベンチに座っているベテランの方たちが、『優勝旅行どこ行く?』みたいな話をするのが聞こえてきました。ゲームに出ている側はそんな余裕なかったですけど、じつはカチカチになってる僕らの気持ちをほぐすために言ってくれたと思うんです。そういう意味では、ベテラン、中堅、若手がよく噛み合っていたんですけど、勝ちきれなかったです」

 長期遠征の13試合を3勝10敗。「大きなお土産」は持ち帰れず、甲子園でのヤクルト2連戦に連勝すれば、プレーオフに持ち込めた。だが、10月10日の1戦目に2対5で敗れ、野村克也監督が胴上げされた。翌日の2戦目、シーズン最終132試合目は勝利し、巨人と同率で2位。亀山自身はリーグ14位となる打率.287を残し、これはチームの日本人ではトップの成績だった。

「自分に攻め続ける姿勢があって、阪神ファンが『おお亀山~!』って盛り上がったから、92年はずっと試合に出られたと思います。当然、負けて悔しいですけど、己の数字がどうこうよりは、見ている人たちが、いい戦いだったね、と感じるプレーをすることが前提でしたから。僕はそれができたはずですし、面白いシーズンではあった、と思います」

(=敬称略)