帝京高校・前田三夫名誉監督インタビュー後編


石橋貴明が「鬼監督」をもネタにしたヤンチャな帝京高野球部時代...の画像はこちら >>

40年以上前、若かりし日の帝京高野球部の前田三夫・現名誉監督

 50年もの長きに渡り指導をし、帝京高野球部を強豪チームに育てた前田三夫・名誉監督(以下、前田監督)。前田監督の教え子で、のちに芸能界入りして帝京の名を広めたのが、とんねるずの石橋貴明だ。


 石橋は、前田監督が20代の若き頃に指導を受けた。このほど出版された前田監督の著書『鬼軍曹の歩いた道』(ごま書房新社)では、監督になって1年目から順を追って当時の様子が紹介されているが、石橋の記述ももちろんある。

 今回、当時から監督も脱帽するほどの芸達者ぶりを発揮していた石橋にまつわるエピソードについて、あらためて話を聞いた。

石橋貴明は小学生時代から"帝京ファン"

 前田監督の手元に1枚の写真が残っている。モノクロ写真に写るのは、神宮第二球場で応援席に向かって試合後の挨拶をする前田監督と選手たち。1974年、監督3年目の秋季都大会決勝で敗れた直後のシーンだ。勝てば翌春のセンバツに初出場となるはずだったが、それは幻に。

前田監督、25歳の時である。

「懐かしい写真です。学校の先生方から練習が厳しすぎると白い目で見られ、それでもノックバットを振り続けてついに甲子園が目の前にきた。でも、堀越の前に2−4。それまでどんな練習でも音を上げなかった選手たちが泣いていました。私も全身の力が抜け、しばらく呆然としていましたね」

 監督や選手の後方から撮影されたものなので、顔の表情は一切わからない。
ただ、悔しさがどれほどだったかは容易に想像がつく。

 そして、この1枚が前田監督にとって思い出深い理由がもうひとつある。注目したいのは、スタンドの応援席にいるある人物。最前列に立ち、学ランを着て手には白い手袋をはめている。大柄な少年だが彼は帝京の生徒ではない。その人物こそ、当時中学1年生でのちにお笑い芸人として名を馳せる、とんねるずの石橋貴明である。


「出会いのきっかけは、私が監督になった初年度の3年生に貴明の兄の春仁がいたことです。貴明はその時まだ小学生で、試合になると兄の大きな学ランを着て応援に来てくれました。兄が卒業してもそれは続き、写真に残るように、監督3年目となる秋の決勝戦もスタンドで声を枯らしてくれたんです。ここで優勝していたら甲子園に連れて行ってあげることができたんですけどね」

 貴明の話をする前に兄のエピソードを先に紹介すると、春仁は野球部に在籍していたが当初は幽霊部員だった。でも体は大きく、いいものは持っている。前田監督が一緒に頑張ろうと声をかけ続けたらやがて練習に出てくるようになり、夏の都大会では一塁手で4番、記念すべき夏の監督初勝利もプレゼントしてくれた。


「投手が大会ワースト記録をつくるほどの四死球を献上し、采配もへったくれもない試合。それでよく勝ったなというのが正直な印象ですが、それでも夏2勝できました。猛練習で大半の選手が退部するなか、残ってくれた選手たちには感謝しかないですね。

 今から1年以上前のことですが、その兄が久しぶりに学校に来たんです。監督初代の部員で石橋貴明の兄ちゃんだよと目の前にいる選手たちに教えたら、似てる~とか何とか言いながら春仁の話を聞いていましたよ(笑)」

石橋貴明が「鬼監督」をもネタにしたヤンチャな帝京高野球部時代。前田三夫は「面白いから文句は言えなかった」

石橋が前田監督に激怒

 その後、兄の影響で貴明も帝京野球部の門をたたく。兄同様体が大きく、野球をやるうえで大きな武器だった。ところが......。

当時のエピソードはすでにお笑いのネタとして多くの人の知るところだが、ちょっと目を離すと練習をサボるヤンチャぶりは、どうやら兄以上だったようである。

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石橋貴明との思い出を笑顔で語る前田名誉監督

「当時はバットをチャンバラ道具にして遊ぶような選手ばかりで、指導は野球道具の扱い方から教えました。バット工場へ連れて行って、1本の木から職人の手によって作られる工程を見させ、大切にするよう教えたこともあります。

 ただ石橋の頃になると帝京が少しずつ強くなり、部員数が急激に増えていったんです。それを私ひとりで見なければならず、指導しきれない時はよく下級生をグラウンドの外に出して、近くを流れる石神井川沿いをずっと走らせていました。

 ある日、石橋が練習中遊んでいるから、川沿いを走れと外に出したんです。
ところがそのことを私がうっかり忘れ、グラウンド練習を終えて帰ってしまった。石橋は置いてきぼりですよ。さすがに私には言えなかったみたいですが、翌日学校に来て仲間にえらく怒っていたそうです。それは確かに申し訳ないことをしたなと(笑)。とにかくヤンチャな男でしたから、そんな思い出は尽きませんね」

王、長嶋、稲尾......さらに前田監督のモノマネ

 前田監督の手元には、夏の合宿でトレーニングに励む石橋の写真も複数残されている。そして、合宿最後の夜は宴会部長となって大活躍。旅館の人をも笑わすほどの芸達者ぶりを発揮していたという。

 ただ、レギュラーへの道は遠かった。ポジションは投手で、2歳年下で1980年春のセンバツ準優勝投手となる伊東昭光が入学してくる前まではAチームの一員だったが、3年になるとベンチ入りは叶わず。最後の夏は応援団長として神宮球場のスタンドにいた。

「石橋はね、BチームにいていつもAとは別の学校へ練習試合に行っていたんです。それで、引率のコーチの先生が帰ってきて言うわけです。あいつがバッターボックスに入ると、右打席なら長嶋(茂雄)さん、左打席なら1本足打法の王(貞治)さんのマネでバットを振るって。マウンドに立てば、今度は鉄腕と言われた稲尾(和久)さんのマネですよ。見ている人をその度に笑わせて、私はその報告をいつも呆れながら聞いていました(笑)」

 石橋が芸能界デビューを果たしてからは、前田監督のモノマネも人気芸のひとつになっている。つまり前田監督は、凄腕指導者であると同時に、芸に取り入れやすいユニークなキャラクターの持ち主と言っていいようだ。

「あいつの前では何もできない、何かしたらすぐに拾われるって当時から思っていましたよ。冬の合宿は千葉の君ヶ浜海岸が恒例だったのですが、ある時、上空をアメリカ海軍のジェット戦闘機・ファントムが飛んでいたんです。私が指差して、ファントムだ!ファントムだ!って叫んだら、ネタにされました(笑)。でもそれが面白いから文句は言えなかった。天性のものですね」

石橋貴明が「鬼監督」をもネタにしたヤンチャな帝京高野球部時代。前田三夫は「面白いから文句は言えなかった」
 とんねるずの相方・木梨憲武と、時折サッカー部の部室で芸を披露していたらしい。前田監督はそれを見たことはないが、石橋兄弟ら指導者になって間もない頃の教え子たちには、「一人ひとりに個性があり、勢いがあった」と感じている。

「目が離せないという大変さもあったけれど、今思うと笑える話がたくさんあって面白いです。今の時代は社会全体が変わり、子どもが窮屈ななかで生きているような気がします。可能性の芽を摘むようなことなく、のびのび好きなことに挑戦できる教育環境であってほしいと願っています」

 ちなみに冒頭で紹介した、石橋が小学生の時に学ラン姿で応援した1枚は、前田監督の著書『鬼軍曹の歩いた道』の巻頭口絵に掲載されている。

終わり

前編<帝京名誉監督・前田三夫が指導者人生を振り返る。名将の礎となったのは「選手時代の万年補欠」>

【プロフィール】
前田三夫 まえだ・みつお 
1949年、千葉県生まれ。木更津中央高(現・木更津総合高)卒業後、帝京大に進学。卒業を前にした1972年、帝京高野球部監督に就任。1978年、第50回センバツで甲子園初出場を果たし、以降、甲子園に春14回、夏12回出場。うち優勝は夏2回、春1回。準優勝は春2回。帝京高を全国レベルの強豪校に育て、プロに送り出した教え子も多数。2021年夏を最後に勇退。現在は同校名誉監督。