プロ野球のキャンプがスタートし、WBC日本代表の話題にも楽しみが詰まる。球春到来を感じる一方で、門田博光の訃報から1週間あまりが過ぎた。

私のなかで、球史に偉大な功績を残したスター選手がこの世を去った寂しさとはまた違う、いつも身近にいた人を突然失ったつらさが日毎に増している。

 おこがましくも"球界のレジェンド"を、いつからか歳の離れた友人のように感じるようになっていた。あらためて数えてみると、この15年の間に門田と100回以上も顔を合わせ、「ナンバーワン(王貞治氏)を超える選手を育てたい」という夢の話から、打撃の極意、日常のぼやき、病、家族、酒、死生観......さらにはダイヤモンドを掘り当てたいという、門田曰く"アホな話"まで、本当に多くの話を聞かせてもらった。

 そんな門田の死は、胸の奥に重たい何かが流れ込んだまま、まだ気持ちの整理をつけられずにいる。

門田博光が語っていた死生観。晩年15年間100回以上顔を合わ...の画像はこちら >>

1月24日、自宅で倒れているところを発見された門田博光氏

【警察からの突然の電話】

 1月24日、朝の10時半を過ぎた頃だった。すでに締め切りが過ぎている原稿と格闘していると、携帯電話の着信音が鳴った。表示欄に名前はなかったが、市外局番の「0791」に、すぐ相生(兵庫県相生市)からだとわかった。

一瞬にして嫌な予感が走った。

 門田博光に何かが起きた──病院からの電話か、それとも車の運転中に事故でも起こしたのか。激しい胸騒ぎのなか電話に出ると、1秒、2秒と間(ま)があいた。ひと呼吸して名前を告げると、落ち着いた男性の声が返ってきた。

「こちら相生警察です」

 警察......。

「門田さんに何かありましたか?」

「突然のことで驚かれると思いますが、門田博光さんがお亡くなりになりました」

 門田の携帯電話に残っていた最後の通話者が私だったため、連絡がきたということだった。

あとになって、門田が一足先に知らせてくれたのかという気にもなったが、あまりにも突然のことで、言葉が出てこなかった。

 すでに報道されているとおり、前日の透析に姿を見せなかったため、病院から連絡を受けた警察が家で亡くなっている門田を発見したということだった。呆然としたまま、いくつかの質問と状況説明を受けた。しばらくして電話を切ると、今度は猛烈な悔いが込み上げ、気持ちが収まらなくなった。間に合わなかった......。

 一介のライターと、球界のレジェンドとの緩やかな関わりが始まったのは2008年。

レッドソックスの松坂大輔が、日本で行なわれたMLB開幕戦の開幕投手を務めた春のことだった。

 出版社からの依頼を受け、プロ野球通算284勝の山田久志氏の読み物を執筆することになった。そこで現役時代に山田の好敵手だった門田の話を聞きたいと編集部にリクエストし、取材が決まった。

 門田が評論家の仕事を離れ、相生に居を移した頃だった。当初、門田となかなか連絡がつかず苦戦したが、ようやく本人とつながり、相生駅前の喫茶店で落ち合うことになった。

 取材の途中、何度か流れに沿わない質問や、こちらの物足りない反応に門田の表情が険しくなり、場の空気が硬くなることはあった。

しかし、有り体の言葉でなく、自身の言葉で語る話は圧倒的に面白く、気がつけば3時間を超えていた。

 門田はしゃべりたがっていた。関西で人気だった解説者時代の語りを聞いても、本来はしゃべり好き。取材を終え「門田の話をもっと聞きたい」と思うと同時に、「聞かなければならない」という使命感に駆られた。

 以来、仕事をつくっては相生へ通い、気がつけば15年の歳月が経っていた。

【繊細すぎる神経の持ち主】

 2013年の夏には、王貞治氏、野村克也氏と揃って登場したヤフオクドーム(現・PayPayドーム)の試合イベントにもマネージャーのような立ち位置で同行した。

 2015年の春は、当初渋っていた野村氏との対談が実現。

ほかにも炎天下での高校野球観戦、臨時コーチとして指導していた日本新薬の都市対抗予選の結果に一喜一憂したことも懐かしい。かつて大阪球場があった思い出の地・ミナミのイベントハウスで私が聞き手となってのトークショーを開催したこともあった。コロナ禍のなか、緑豊かな自然公園でトンカツ弁当を食べながら話を聞いたことも一度や二度ではなかった。さらには手術に付き添ったことも......。

 現役時代に比べれば、性格が丸くなったのは間違いないだろう。それでも門田は取材対象者として、気の抜けない人だった。

「『おはようさん』と『お疲れさん』と2つしか口にせんと帰っとったわ」

 現役時代を振り返り、門田がよく口にするセリフだが、ひたすら己の技術を磨くことに没頭した生粋の職人。同時に豪快なバッティングのイメージとは裏腹な、至極繊細な神経の持ち主でもある。44歳でユニフォームを脱いだ瞬間から、その繊細さや頑なさが社会での生き難さとなってついて回ったことは想像に難くない。

 喫茶店での店員の対応に「なんでや」と首を傾げながら気分を害し、市役所の窓口での説明に「もうええわ!」と手元の用紙を丸めたこともあった。医師が示した治療方針の説明が腑に落ちず、「もっとチャレンジする治療法はないんか」とぼやくことも。

 門田の言い分に筋が通っていると感じることは少なくなかったが、ほどほどの合わせる、「こんなものだ」と流すことができない人だった。それだけいろんなものに引っかかっていると「疲れるだろう」と何度も思ったが、だからこそプロの世界で567本ものホームランを打てたのだろうと妙に納得したものだ。

 門田は取材者にも、常に本気を求めた。前回聞いたことを忘れ、同じ質問をすることを最も嫌った。また取材中は絶対に時計を見ないようにしていた。知り合い始めの頃、時間を確認するため壁にかかっていた時計に目をやったところ「忙しいんか? 撤収しよ」と、さっと顔色を変え、椅子から腰を浮かしたことがあったからだ。

 相手の目や心の動きを見逃さず察する。まさに勝負師の本能を感じるものだった。

 ほかにも、かかってきた電話にはどれだけ長くなってもこちらから切る空気は絶対に出さない。並んで歩く時は門田の左側、ビールはサッポロ......時には無理難題もあったが、基本的に門田の提案、要望はイエスで応えた。

【門田が語っていた理想の最期】

 いつかの年の瀬。冷たい風が吹くなか、取材場所のホテルから近くの駅まで並んで歩いていると、ふと門田が言ったことがあった。

「なんでやろな、あなたとしゃべっとったら不思議と腹が立たんのや」

「僕がたいしたことを言わないからですよ」とその時は軽く返したが、自称「どうしようもない照れ屋」からもらったこれ以上ないひと言。以来、門田への思いはより強くなった。

 近年は、よく生死についての話になった。「俺ももうすぐや」が口癖であったが、2日に一度の透析が日課になって8年あまり。体調は安定傾向にあった。透析以前は歩いていると、突然「ぶっ倒れそうや」と言ってうずくまることもあったが、ここ数年はそうした姿を見かけることはなかった。ただ、時折体調を崩すと一気に不安が増し、 "最期"の話題になることがあった。「どんな最期がいいですか?」。そんな問いに、門田は決まってこう返してきた。

「誰にも知られんとスッと逝きたい。それだけや。寝とってそのまま逝けたら最高やないか」

 昨年11月、村田兆治氏が亡くなった直後に訪ねた時も、「兆治は苦しまんと逝けたんかいな」と、最期を気にかけていた。「おそらく一酸化炭素中毒で意識を失い......」と伝えると、「そうか、なら苦しまんと逝けたんかな」とやさしい口調で語った。

 2020年に野村克也氏が亡くなった時もそうだった。一報が流れた翌日に訪ね、あらためて思い出話を聞いた帰り道、並んで歩いていると「ところでおっさんはどこで逝ったんや?」と呟くように聞いてきた。報道に出ていたとおり「風呂場で湯船に浸かっている時に......」と伝えると、「そうか、気持ちよう逝けたんか」と安堵の表情を浮かべていた。

 最後の取材は今年の1月12日。ある出版社からの依頼で、村田兆治氏との思い出話を聞くことだった。本題の話を終えると、門田は注文したカキフライ定食を私よりも早く食べ終えた。顔色はよく、言葉も強い。取材は3時間半を超えた。

 途中から話は大きく脱線し、なにかの拍子で「この先、何かしたいことはありますか?」と尋ねた。すると、少し考えた門田が「またアホみたいなことを言うてもええか」と断りを入れ、「朝から100万円握って競馬したいんや」と言って、楽しそうに笑った。

 その後「久しぶりにようしゃべったわ」と言って、別れ際にいつものひと声をかけた。

【望みどおりの人生の幕引き】

「何かあったら連絡してください」

 いつからか、取材が終わったあとや電話を切る際のお決まりのひと言になっていた。基礎疾患を持つ高齢者のひとり暮らし。いつ何があってもおかしくない状況は続いていた。この声かけをするようになって以降、時折、夜に電話がかかってくることがあった。

 少々気が立っている時もあった。"アホな話"が広がり、ついていくのが大変な時もあった。ある時の退院直後には、「なんやうまく立たれへんのや」と困った感じで連絡がくることもあった。

 こちらは大阪にいるため、すぐに駆けつけることはできないが、ひとまず気分が鎮まり、門田の話したいことがなくなるまでつき合った。

 最後の取材から1週間あまりの間にも二度電話があった。どちらも昼の時間帯で、二度目は発見される3日前。先の出版社から取材謝礼を受け取ったという報告だった。

「ありがとさん、それだけの電話や」

 短いやりとりの最後にも、いつものひと言で電話を切った。その後、門田からの連絡はなく、穏やかな日常を過ごしているのだと思っていたのだが......。

 門田の携帯電話での最後の通話者が私で、ほかにかけた形跡はないという。おそらく、最期は苦しむことなく、静かに息を引きとったのではないか。もしそうだとすれば、常々の宣言どおり、見事な人生の幕引きだったと。

 膨大な取材記録を一冊にまとめるという話が出たのは、もう7、8年も前だ。しかし門田への興味が尽きず、まだ書き足りない、もっと知りたいと相生へ通い続けた結果、今も完成には至っていない。書き手としては失格だろうが、この贅沢な時間を手放したくない、ふたりだけの話にとどめておきたい......そんな気持ちになったこともあった。

「ほんまに(本は)出るんか? もう俺に需要はないということやないんか」

 門田からそう言われたことも何度かあった。それでもようやくゴールが見え始めた昨年、まだまだ粗い段階だったが、前半部分の原稿を持参し、軽く目を通してもらった。すると「あなたに任せる。見たこと、聞いたこと、思うように書いたらええ」と言われたあと、「ひととおりは最後までできてるんかいな」と聞かれた。「後半、とくに締めのところをまだ考えているところです」と答えると、「なんでも最初と最後が肝心なんや。バッティングでも構えがスッと決まって、最後に腰がグッと回りきった時は......」と極意につながった。

 しかし、山田氏との出会いから始まった物語の最後を、村田氏の話題で締めようと考えが固まってきたところ、思いがけぬ形でラストが決まってしまった。

 完成した原稿を読んでもらいたかった。いつもの場所でランチでも食べながら、何事にも独自視点を持った批評家でもある門田の忌憚のない感想を聞きたかった。だが、もうそれは叶わない。とにかく、あとは書いてまとめるのみだ。

 ただ、ICレコーダーに入った3週間前の門田の声を、まだ聴き返す気持ちにはなれない。気づけば、私にとって何よりの話し相手になっていた門田を失い、これからの時間をどう過ごしていけばいいのか......。日が経つにつれ増してくる寂しさをまだ拭えずにいる。