連載「斎藤佑樹野球の旅~ハンカチ王子の告白」第26回

 夏の甲子園を制覇した高校生の斎藤佑樹は、大学生となって次のステップへ進むことを求められた。誰に、というのではなく、10代から20代へ、子どもから大人になるプロセスのなかで否応なく身体が変わり、同じピッチャーではいられなくなるからだ。

そして斎藤は結果を残した大学1年の春から秋にかけてさらなる進化を目指し、意図を持ったフォーム改造に取り組んでいた。

「早稲田の1番をピッチャーにつけさせるなんて」斎藤佑樹は巻き...の画像はこちら >>

大学2年から背番号1を背負った斎藤佑樹

【新フォームでつかんだ手応え】

 大学へ入学した頃の僕は、テイクバックの時に力みすぎていました。そのせいで右腕が引っ張られて、一塁側へ入りすぎてしまう癖があったんです。そうなると右腕が遠回りして、どうしても遅れて出てきてしまいます。それを矯正するためにフォームをガラッと変えました。

 初めは違和感があって、それでもなんとなくうまくまとめてしまうのは苦手なほうじゃなかったので、春は誤魔化しながらでもそれなりのボールを投げられていたんです。だから春の東大戦は手応えに自信がなくて、何となくフワフワしていました。

 ところが秋の東大戦では、そのフォームが完全に自分のものになった感じがありました。高校時代の感覚とはまったく違っていましたが、それはそれで「この感覚、いいな」と思ってハマっている感じがしたんです。右腕を身体の前に通す感じで、ラジオ体操の腕回しをイメージしながらネットスローを繰り返しました。夏の間はそのフォームで徹底的に投げ込みをして、秋のリーグ戦を迎えていました。

 そして、1年秋の最後、早慶戦の時には流れるようなフォームで投げていたイメージがあります。腕もきれいに回って、若さゆえの柔らかさもあった。

あんなに肩甲骨がうまく回るなんて、あの頃ならではのことでした。

 その後、プロに入って、しかもケガをしてからは肩甲骨が回る感覚なんて、まったく持てていません。それはそもそもの僕が持つ身体の特徴のせいもあったんですが、当時は肩甲骨を回そうという発想がなかったし、右腕は身体の前を通す、横を通すという感覚だけで投げていたらいつしか肩甲骨が回っていた、という表現が近かったと思います。

 プロに入ってからの僕は、この時の映像を参考にしていました。よく「高校時代の映像は見るんですか」と聞かれましたが、僕が見ていたのは大学1年の秋の映像です。見るたびに自然に動く肩甲骨と同時に、長髪だった自分が気になって、「なぜあの頃のオレはこんなに髪が長かったんだ」と、いつも思っていました。

その理由は謎のままなんですが(笑)。

【應武監督の見極める力】

 大学野球では春のリーグ戦で優勝すると全日本大学野球選手権に、秋のリーグ戦で優勝すると明治神宮大会に出場できます。神宮大会といえば早実2年の秋に一度、高校の部に出場しました。準決勝で駒大苫小牧に負けた、あの時です。

 今回は大学の部へ出場することになったのですが、決勝で東洋大に負けてしまいました。相手の先発は、その年のドラフトの目玉と言われた大場翔太さん(のちにホークス)で、僕らは完璧に抑えられました(早稲田が打ったヒットは2本、奪われた三振は10個、完封を喫した)。

 僕と大場さんは、どちらも決勝戦で3連投になっていました。

僕も6回までを被安打1、無失点で抑えていたんです。それが6回裏、代打を送られて交代となりました。0−0の試合はその後、均衡が破られ、最後は0−2で東洋大に優勝を持っていかれました。

 当時、相手の大場さんにも、ほかのいろんな人にも「なぜあそこで代わったの」と聞かれました。たしかに数字だけを見れば6回までの僕のピッチングはスライダーとツーシームを交えながら、ストレートもまあまあのスピードが出ていて(最速は143キロ)、大場さんに勝るとも劣らない、いい内容だったと思います。

 でも自分のなかではあの時、6回でいっぱいいっぱいだったんです。

東洋大の打線もよかったので、気を遣いながらコーナーを丁寧に突いていかなければなりませんでした。

 そんな感じで気を張って投げていたので、6回で代えてもらってよかったなと、正直、ちょっとホッとした感覚があったんです。大場さんのように、3連投で完封なんて馬力はありませんでした。だから僕としては「なぜ代えたんだ」ではなく、「よく見抜いたよね、すごいな」という思いが先に立っていました。

 その後、何度も思うことになるんですが、あの交代は應武(篤良)監督のそういうところを見極める能力はすごい、と最初に思った瞬間でもありました。

【目標を高く設定した代償】

 その頃、高校からプロに進んでいたマー君(田中将大)はイーグルスで1年目から2ケタ勝利を挙げて(11勝7敗)、新人王を獲得していました。大学では大場さんや慶應の加藤(幹典、のちにスワローズ)さんという身近な存在が僕にとっては大きくて、「2人を目標に」と思っていましたが、マー君への意識はそんなになかったような気がします。

プロでの2ケタ勝利と大学野球の結果とでは比較のしようがない。僕がプロに挑戦できるのは3年後でしたから、そんな先のことは現実味がなかったのかもしれません。

 もちろん、プロに入った時にはマー君に負けたくないという気持ちはありましたが、その時までに自分の実力を上げていかないといけない。だからこそ、こんなもんでいいかという感覚だけは捨てなければならない、と思っていました。いずれはプロで2ケタ勝てるピッチャーになるために、大学時代の自分のなかでの天井を少しでも高く設定しなければと思っていたんです。そのために大学での4年間で、できることはすべてやろうと考えていました。

 目標を高く設定するというのはいい面もありますが、その反面、何をどれだけやっても、現状に満足できなくなってしまう、というよくないこともありました。できていることを自分でうまく認めてあげられないと、焦りが出てしまう。スタミナとキレが増している現状を消化できず、もっともっとスピードを上げなくちゃいけないと思ってしまったんです。

 だからウエイトをガンガンやったりして、一段一段上がっていけばよかったのに、二段飛ばしをしようとしてしまいました。あの時の焦りは、いくつかあった野球人生のボタンの掛け違いのうちのひとつだったような気がします。

【なぜ背番号1だったのか...】

 2年の春は、大学に入って初めてリーグ戦の優勝を逃したシーズンでもありました。明治に勝ち点5の完全優勝を許し、僕は9試合に投げて3勝2敗、防御率は1.75。このシーズンから、僕の背番号が16から1に変わりました。どういう経緯で1番をつけることになったのか、そこの記憶は残っていません。

 そもそも早稲田大学の野球部では背番号1から8までは野手、9は欠番(1972年の日米大学選手権で送球を頭部に当てて退場、5日後に19歳で他界した東門明への弔意から)、10は主将(東京六大学では監督が30、主将が10に決められている)、11からがピッチャー、20番台はおもに外野手がつけるという伝統があります。早稲田のエースナンバーは11、正捕手は6......つまり、背番号1をピッチャーがつけるのは異例だったそうです。僕は2年、3年の2年間、背番号1をつけていました。

 そのことで、野球部のOBから應武監督への批判があったことはあとから聞きました。僕は僕で、1年で結果を残したことで「2年目のジンクス」という言葉をあちこちで聞かされていて、「調子に乗るなよ」「まだまだだぞ」「そんなにうまくいくわけないぞ」と言われまくっていました。

 たぶん、背番号も「斎藤だからって早稲田の1番をピッチャーにつけさせるなんて」という不満が一部の先輩方のなかにあったんでしょうね。でも、應武監督には應武監督の考え方があったんだと思います。監督は昨秋、お亡くなりになってしまいましたから、その理由を聞くことはもうできませんが......。

 大学2年の春を終えて感じたのは、ここまではうまくできすぎたかな、ということでした。1年のリーグ戦では一度も負けなかったんですが、そういう時に、そんな簡単なものじゃないぞって、どこかで思ってしまう自分がいるんです。

 僕はそもそも昔から、現状に満足せず、次はどうしようと考えるタイプでした。よくないことを忘れると同時に、成し遂げたこともけっこう忘れてしまいます。だからさらにレベルが上の大場さんとか加藤さんを目標にしようと思っていました。プロでドラフトにかかるためには、このぐらいのピッチャーにならなければダメなんだと思ったからです。

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 2年春、大学に入って初めてリーグ優勝を逃した斎藤。それでも身体が大人に変わる時期、彼はピッチャーとしての劇的な進化を形にして示した。2年秋のシーズン、9試合に投げて7勝1敗、防御率は0.83。投げるスタミナも、ボールの力もついて、ついに充実期を迎える......はずだった。しかしそんな斎藤を、思わぬ落とし穴が待ち受けていた。

(次回へ続く)