名物実況アナ・若林健治が振り返る

「あの頃の全日本プロレス」(6)

(連載5:「タイガーマスク、マスクを脱いだぁ!」素顔に戻った三沢光晴は、天龍退団後の全日本プロレスに新しい時代をもたらした>>)

 1972年7月にジャイアント馬場が設立した全日本プロレス。旗揚げから2000年6月までは、日本テレビがゴールデンタイム、深夜帯など放送時間を移しながらお茶の間にファイトを届けた。

そのテレビ中継で、プロレスファンに絶大な支持を受けた実況アナウンサーが若林健治アナだ。

 現在はフリーアナウンサーとして活動する若林アナが、全日本の実況時代の秘話を語る短期連載。最後の第6回は、1990年代にトップレスラーに駆け上がった小橋健太(現・建太)との交流、後輩アナウンサーの実況にも感動した復活の一戦などを振り返った。

小橋健太のひたむきさに馬場も「まいったよ」 がん克服の感動の...の画像はこちら >>

1993年12月3日、三沢(右)とのタッグで世界最強タッグ決定リーグ戦を制し、馬場(中央)から 祝福を受ける小橋(左)

【故郷の母に送り続けた「お弁当箱」】

 三沢光晴、川田利明、田上明、秋山凖らと激闘を繰り広げ、1990年代の全日本プロレスに隆盛をもたらした小橋が入門したのは、1987年6月のこと。京都・福知山高校を卒業し、一度は一般企業に就職するも、幼い頃から抱いていたプロレスラーの夢を捨てきれず。20歳でプロレス界に足を踏み入れ、1988年2月にデビューした。

 1984年5月から「全日本プロレス中継」の実況を担当した若林は、デビュー直後から小橋と交流があった。

今、若林が思い出すのは「小橋の"お弁当箱"」だという。

「全日本プロレス中継で放送される試合は、1大会が全9、10試合であれば最後の3試合くらい。私が実況を担当することになった当初は、メインイベントとセミファイナルを先輩の倉持隆夫アナウンサーが担当され、私はその前の1試合ぐらいしかしゃべらせてもらえませんでした。

 ですから、『早く実況が上手くなって倉持さんのようにメインイベントでしゃべりたい』と毎日のように思っていたんですが、そんな時に小橋選手が入門してきたんです」

 デビューしたばかりの前座レスラーの試合が、テレビで中継されるわけがない。それでも小橋はデビューから間もなく、若林のところにあることを頼みにきたという。

「小橋選手は私に『自分の試合は100パーセント、オンエアされません。
そんなことはわかっています。でも、自分がプロレスを頑張っていることを、ふるさとの母親に見せたいんです』とお願いしてきたんです」

 この希望に「小橋、わかった」と応じた若林アナは、自らの練習も兼ねて、放送されない小橋の前座試合を実況した。

「番組プロデューサーに、私が"練習"でしゃべった小橋選手の試合のVTRを、『(小橋の母親に見せるために)VHSテープに落としてくれませんか』とお願いしました。そうしたら、プロデューサーも快く応じてくださって。それから、テレビマッチの時は小橋選手の前座試合を実況するようになったんです」

 今ではほとんど見かけなくなったが、「VHSビデオテープ」の長方形の形状から、ビデオテープは"お弁当箱"と呼ばれるようになったという。

「試合会場に行くと、小橋選手が『お弁当箱、ください』と私のところに来ました。

2本渡す時は、『今日はドカ弁だ』なんて笑って渡していましたね。小橋選手は、そのビデオテープを、福知山にいる実家のお母さんに送っていました」

【馬場が「まいった」と笑ったひたむきさと真面目さ】

 ひたむきで真面目な小橋の情熱に、若林は「将来、メインイベンターになる」という予感があったという。そのとおりに、小橋がオレンジ色のトランクスを履き、前座から中堅、そして毎週のようにテレビマッチに出場するまで出世した時、こう実況したという。

「オレンジは、ふるさとの夕焼け色のトランクスです。小橋健太、頑張っています」

 一方、1990年5月から「全日本プロレス中継」の実況を担当した福澤朗アナは、そのオレンジに柑橘系の甘酸っぱさを重ね、「青春」をイメージ。そして必殺技「ムーンサルトプレス」を繰り出す際に拳を握りしめることを、「青春の握り拳」と表現した。

「福澤アナにとってのオレンジは『青春』でしたが、私は"お弁当箱"の思い出があったので、『ふるさとの夕焼け』が思い浮かびました。

私は『放送は励まし』というのが信念なのですが、小橋選手のオレンジのトランクスから、お母さんへの"励まし"を連想したんです。私と福澤くん、アナウンサーによって感じ方が違ったのは、とてもよかったと思います」

 さらに思い出すのは、練習熱心な姿勢だ。

「小橋選手が馬場さんの自宅に行った時に、部屋にトレーニング器具があったそうなんです。そこで小橋選手は『私にください』と頼んで、いただいたそうなんですよ。そこまで熱心な姿勢には、あの馬場さんも『あいつには、まいったよ』と笑っていました」

 小橋の試合で印象深いのは、若林が実況しなかった一戦だという。1995年1月19日に大阪府立体育館で、小橋が川田利明に挑戦した三冠ヘビー級選手権だ。



 この試合の2日前、1月17日に阪神淡路大震災が発生。関西地方は甚大な被害に見舞われ、興行の開催が危ぶまれた。結局は開催されることになったが、日本テレビは予定していた中継をとりやめに。過酷な状況でメインイベントのリングに立った小橋と川田の試合は、60分フルタイムの引き分けとなった。

「私は実況をしていないんですが、あの60分フルタイムでの引き分けは忘れられません。震災直後の大変な状況のなか、小橋選手と川田選手はすごい試合をした。
おそらく精神的にも厳しかったと思いますが、60分を戦い抜いた一戦を忘れることができません」

【小橋のがんからの復活に、後輩アナが感動実況】

 若林はもう1試合、全日本を退団し、プロレスング・ノアに移籍したあとの試合を挙げた。小橋は2006年6月に腎臓がんを公表して長期欠場。過酷な闘病生活を終えた2007年12月2日、日本武道館で復帰戦を行なった。

 高山善廣と組み、三沢光晴、秋山凖と対戦。結果は、三沢の雪崩式エメラルドフロウジョンに敗れたが、がんからの復活に、超満員の武道館には小橋コールが響き渡った。

 この一戦は、日本テレビの矢島学アナウンサーが実況。矢島アナは小橋が3カウントを奪われた瞬間にこう叫んだ。

「小橋が勝ちました! 腎臓がんに勝ちました!」

 若林は、この矢島アナの実況が忘れられないという。

「あの矢島アナウンサーの実況こそ、"励ましの詩"です。すばらしかった。私はこの試合を実況していませんが、このすばらしい言葉は鮮明に記憶に残っているんです。

 放送が終わったあと、すぐに私は矢島アナに電話して『お前、すごいよ。胸を打たれたよ』と伝えました。おそらく矢島アナは、あの言葉を事前には用意していなかったと思います。試合には負けたかもしれない。でも、小橋選手はがんに勝った。その自分の思いを、そのまま表現したんじゃないかと。そういった言葉は、言霊の圧が違うんですよ」

 そう笑顔で振り帰る若林は、プロレス実況から離れて久しい。しかし、励ましに徹した名台詞の数々、実況アナという立場も越えてプロレスを愛する姿は、今でも多くのプロレスファンの記憶に残っている。

(敬称略)