緒方耕一インタビュー(前編)

 巨人が押しも押されもせぬ「球界の盟主」だった80年代から90年代にかけて、快足を武器にチームにとって欠かせない存在となった緒方耕一氏。プレーだけなく、甘いマスクで女性ファンの心を鷲掴みにし、球界きっての"モテ男"として名を馳せた。

そんな緒方氏がまさかのプロ入りから二度の盗塁王獲得、そして30歳の若さで引退など、波乱の野球人生を振り返った。

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現役時代、女性ファンから絶大な人気を誇った緒方耕一氏

【自動車教習所で知ったドラフト指名】

── 1986年ドラフト6位でジャイアンツ入りしていますが、もともとは「まったくプロは考えていなかった」と伺いました。

緒方 (熊本工)高校の監督さんや部長さんには、ジャイアンツからの話はあったのかもしれないですけど、僕の耳にはそんな話はいっさい入っていなかったです。だから、自分が指名されたと知ったのは自動車教習所に通っている時のことでした。本当は、学校から禁止されているんですけど、「就職したら教習所に通う時間もないから」という理由で、内緒で通っていました。おかげで、学校にバレてしまいましたけど(笑)。

── プロで通用する自信や手応えはあったのですか?

緒方 自信なんて全然なかったですね。

そもそも裕福な家庭ではなかったので、「一か八か」というプロの世界よりも、安定していて堅実なサラリーマンの世界に憧れていましたから。その時点ですでに新日鉄広畑さんに就職することが決まっていました。だから「自信もないし、プロに行くつもりはまったくないです」って言っていたんですけど、親からも先生からも、「こんなチャンスはないんだから」と説得されて、3日くらいで陥落しました。ほぼ諦めの境地でした(笑)。

── 当時のジャイアンツは原辰徳さん、中畑清さん、篠塚利夫(現・和典)さんら、スター選手がたくさんいました。どんな心境でしたか?

緒方 もう完全にテレビの世界、夢の世界ですよ。

入団1年目の宮崎キャンプで一軍選手たちの姿を見たとき、「おぉ、原だ、あっ、中畑だ!」って、呼び捨てで言いながら見ていたのは鮮明に覚えています。同じユニフォームを着ているのに、別のチームにいるような感覚でした。最初は「3年ぐらいで結果を出したいな」と考えていたけど、「とんでもない世界に入っちゃったな」という感じでした。

── 入団2年目まではファームで研鑽を積みましたが、実際に当初の思惑どおりにプロ3年目から一軍出場を果たしています。

緒方 プロ2年目も結果的に一軍出場はなかったですけど、「一軍から呼ばれるかもしれないぞ」とは言われていました。転機になったのは1年目の秋季キャンプでスイッチヒッターに取り組み始めたことが大きかったと思います。

【プロ1年目の秋にスイッチヒッターに転向】

── ご自分でも、「自分の足を生かすべく、左打ちもマスターしよう」という思いがあったのですか?

緒方 いえいえ、18歳でプロに入ったばかりで、見たこともない変化球ばかりでまったく打てる気がしなかったので、「右でも打てないのに、左で打てるはずがない」という思いで、最初はスイッチヒッターになる話も断わっていたんです。でも、ペナントレースが終わって、また「スイッチにチャレンジしろ」と言われました。当時の二軍監督は須藤豊さんだったんですけど、「さすがに二度も断わったら、もう使われなくなるかもしれないよなぁ」と考え直してトライすることにしました。

── 順調に左打ちは習得できましたか?

緒方 全然ダメでしたね。最初の頃は「変なクセがつかないように」ということでスイングはさせてもらえず、とにかくバント練習ばかりでした。毎日500本以上がノルマで、まずは両手で、次は片手で、さらに一塁側に、三塁側に、あるいはセーフティーでなどなど、ひたすらバントばかりでした。

とにかく「視覚から慣れろ」ということで、ティーバッティングもマシンバッティングもやらせてもらえませんでした。

── その後はどうなったのですか?

緒方 その年の秋にアリゾナの教育リーグに出ることになって、アメリカで初めて鳥かご(打撃ケージ)に入ってティーバッティング、マシンバッティングをやらせてもらって、3日後ぐらいにいきなり試合に出ました。だから、僕の左打席デビューはアメリカでした。黒人のパワーピッチャー相手に、ピッチャーの足元を抜けるヒット性の当たりを打ったけど、ショートのファインプレーでアウトでした。でも、右打席に関しては「しっかり振れるな」と感じていたけど、左打席については最後まで当て逃げみたいな感覚でした。

── そして、プロ3年目の1989年に王貞治監督から藤田元司新監督が誕生。

いきなり76試合に出場します。藤田監督の誕生がいいきっかけとなりました。

緒方 藤田さんは投手出身なので「出番をもらえるのかな?」と思っていたんですけど、監督就任後すぐに一軍に呼んでもらいました。あとで聞いたら、「オレはピッチャーだったけど、おまえのようにチョロチョロするヤツが本当にイヤだった」と聞きました。「だから、おまえもチョロチョロしろよ」と言われ、出場機会も増えていきました。

【手応えは"オロナミンC"のCM出演】

── この年はセ・リーグを制し、近鉄バファローズとの日本シリーズでは3連敗からの4連勝で日本一になります。

緒方さんは初戦から3試合連続でスタメン出場したものの、4戦目からは出番がありませんでした。この時はどんな心境だったのですか?

緒方 自分が出ている時に3連敗で、メンバーから外れてから4連勝でしたけど、自分自身の調子はすごくよかったんです。むしろ、体が動きすぎて空回りした感じでした。プロの世界は結果がすべてですから、結果を残せなかったのは残念ですけど、「緊張して何もできなかった」という思いはないし、結果的にチームも日本一になったので「よかったな」という思いしかないですね。

── この時点ではプロの世界でも、「やっていけるぞ」という手応えや自信は生まれていたのですか?

緒方 そうですね、『オロナミンC』のCMに呼ばれたり、『月刊ジャイアンツ』の表紙になって特集が組まれたり、球団カレンダーに載ったりして、ようやく手応えのようなものは感じ始めましたね。この頃になると、さすがに「原だ、中畑だ!」とは思わず、ちゃんと「原さん、中畑さん」という感覚になっていました(笑)。

── この頃から、熊本工高の先輩である井上真二さんとともに女性人気が沸騰して、一大ブームを巻き起こしました。大フィーバーの渦中はどんな心境なんですか? 鬱陶しくなったりしないんですか(笑)?

緒方 さすがに「鬱陶しい」とは思わないし、本当にありがたいことですけど、「そっとしておいてほしいな」という思いはありましたね。当時、選手グッズは球場でしか買えなくて、「グッズを買いたいです」ということで、ファンレターのなかにお金が入っていることがよくあったんです。それはちょっと困りましたね(笑)。

── キャンプ中には、「宿舎にバレンタインチョコが500個以上届いた」という伝説も残っていますね。

緒方 あの当時は500個というのは最多記録だったそうです。しばらくの間、僕がずっと1位だったそうですけど、(松坂)大輔の1年目にアッサリと抜かれました(笑)。それも若い頃のいい思い出ですね。

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元巨人・緒方耕一が振り返る「モテ期」バレンタインのチョコ数、最多記録を樹立

 

緒方耕一(おがた・こういち)/1968年9月2日、熊本県生まれ。熊本工業高から87年にドラフト6位で巨人に入団。プロ入り後にスイッチヒッターに転向し、3年目に一軍初昇格。快足一番打者として頭角を現し、90年に盗塁王獲得。その後、足の故障を克服して93年に2度目の盗塁王に輝いたが、相次ぐ故障により98年に30歳の若さで現役引退。通算成績(実働9年)は685試合出場、打率.263、486安打、17本塁打、130打点、96盗塁。引退後はコーチ、スポーツコメンテーターとして活躍。09年のWBCでは日本代表のコーチを務め、世界一に貢献した