緒方耕一インタビュー(後編)

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俊足を生かし、プロ1年目の秋からスイッチヒッターに転向した緒方耕一氏

【引退後に気づいた苦手・山本昌の攻略法】

── 1993年からは、満を持して長嶋茂雄監督が再登板します。この頃には緒方さんもレギュラーとして定着。チームの雰囲気はいかがでしたか?

緒方 松井(秀喜)や落合(博満)さんも入ってきて、「強いチームになるんだろうな」という思いはありましたね。

長嶋さんも最初に監督になった時は鉄拳制裁も辞さない「熱さと怖さ」があったそうですけど、二度目の監督の時には勝負に対する「熱さ」はあったけど、かつてあったという「怖さ」は感じませんでしたね。

── この頃、得意だったピッチャー、苦手だったピッチャーは誰ですか?

緒方 とくに得意だったピッチャーはいなかったですけど、苦手だったのはドラゴンズの山本昌さんですね。ストレートでガンガン押してくるピッチャーはむしろ好きだったんですけどのらりくらりくるピッチャーは苦手でした。昌さんはシンカーが得意球だったので、「引っかけないようにしよう。反対方向に打とう」という意識が強すぎて、ボールを追いかけすぎていたような気がします。後に、昌さんにもこの話はしましたけど。

── 山本昌さんは何と言っていましたか?

緒方 引退後に昌さんにお会いして、「僕は逆方向に打つ意識でいました」って言うと、昌さんに、「あぁ、オレの一番好きなタイプ」と笑われました。「反対方向に打とう」という意識が強すぎると、ボールゾーンに逃げていく球まで追いかけて、余計に難しくなってしまう。「引っ張れるボールを待たれたほうが、逆にイヤだった」と聞いて、「現役時代に知りたかったな」って思いましたね(笑)。

── 実際、1番を打つことが多かった緒方さんにとって、「逆方向に打つ」ということは常に意識していたことでしょうからね。

緒方 まさにそうです。若い頃からずっと「おまえは引っ張ろうとするな」「長打を狙うな」と言われ続けていましたから。

いかに転がして、野手の間を抜ける打球を打つか。そればかりを考えていましたね。僕は1番を打つことが多かったですけど、プレイボール直後のボールを打ったことは、たぶん1回か2回しかなかったと思います。一度、ミーティングですごく怒られたこともありましたね。

── どんなシチュエーションだったのですか?

緒方 試合後の全体ミーティングであるコーチから、「1球で終わってどうすんだ!」ってめちゃくちゃ怒られました。当時は「相手投手の出来を見るために粘れ」とか、「1番打者は、とにかく相手投手に球数を投げさせろ」という時代でしたから。

叱られたコーチの名前も覚えていますけど、別のコーチがかばってくれましたね。

── そのコーチは激怒していたんですか?

緒方 かばってくれたコーチの名前だけ言いますね(笑)。短期間しか在籍していなかったけど、先日亡くなった中西太さんでした。中西さんが、そのコーチに対して「そんなことを言うのなら、最初から"打つな"のサインを出せばいいだろ!」って、逆に怒って僕をかばってくれました。

【伝説の「10・8」前日に入籍】

── 「現役時代の一番の思い出は1994年の日本一だ」と聞きました。その理由を教えてください。

緒方 この年は、最終戦を長嶋監督が「国民的行事」とおっしゃったドラゴンズと同率で迎えた「10・8」の年ですけど、僕、その前日の10月7日に入籍しているんです。

── あえてその日を狙って入籍したんですか?

緒方 彼女がずっと「25歳の年までに入籍できたら」って言っていたんです。彼女の誕生日は10月15日なんですけど、シーズン中はずっと忘れていまして。数日前にそれに気づいて、スケジュールを見ると7日しか空いていない。それで慌てて婚姻届を提出して、そのまま名古屋に移動したんで、すごくよく覚えているんですよ。シーズンオフの結婚式で、長嶋監督から「どうなんですか、ふたりでこの世の春はもう迎えたんですか?」と言われたことまでよく覚えています(笑)。

── 10・8でリーグ優勝を決め、日本シリーズでは西武ライオンズ相手に4勝2敗で日本一に輝きました。

緒方 僕が入団した87年は西武相手に敗れました。この年はクロマティさんの守備の隙をついた走塁で、辻発彦さんがホームインするという悔しい負け方でした。自分も試合に出るようになっていた90年はやはり西武相手に0勝4敗で完敗でした。僕は3戦目でケガをして、試合に出られないままチームは4連敗。だから、「絶対に西武に勝つんだ」という思いが強かったので、94年の日本一は本当に嬉しかったですね。自分たちが先に優勝を決めた後も、西武を応援していました。

「絶対に西武を倒したい」と思っていたので。

【完全燃焼ではないけど、悔いはない】

── その後は相次ぐ故障もあって、試合出場も減っていきます。どんな心境で、この間は試合に臨んでいたんですか?

緒方 この頃は足首を手術したり、腰痛が再発したりして、思うようなプレーはできませんでした。自分自身の問題なので、相手チームやチームメイトとの戦いではなく、自分との戦いが続いていました。97年のオフに、球団代表に「辞めさせてください」と言ったんですけど、「長嶋監督がダメだと言っている」という理由で、98年も現役を続けることにしました。それでも、やっぱりダメでしたね。

── そして、98年オフに30歳という若さで現役を引退します。

緒方 前年に球団代表に先に伝えたので、この年はまず長嶋監督に伝えました。それでOKをもらってから球団に伝えて引退を決めました。長く続けるに越したことはないけど、自分で決めたことなので悔いはないですね。

── 「完全燃焼した」と言えますか?

緒方 いや、さすがに「完全燃焼だ」とは言えないですね。せめて、35~36歳までは続けたかったですから。でも、腰が痛くて満足に動けないのに、それでもダラダラ現役を続けるのはやっぱり無責任ですし、やっぱり、このタイミングで辞めたのは正解だったと思います。

── ドラフト当日に「指名はないだろう」という思いで自動車教習所に行っていた若者が、盗塁王も2回獲得し、ジャイアンツのレギュラーとして活躍しました。12年間のプロ生活を、ご自分ではどのように振り返りますか?

緒方 自分自身で「よくよったな」という思いはないです。でも常に、「今できることを全力でやろう」という思いでやってきたことが、のちにコーチとしてユニフォームを着ることができた理由だと思います。30歳で辞めたのに、ジャイアンツ、日本ハム、そしてヤクルトと3球団でコーチをやらせてもらった。WBCでもコーチを任された。だから、短かったけれど、一生懸命やったことが今につながっているんだなと思います。あとは運です。

── 2009年のWBCでは、原監督とともに世界一にも輝いています。

緒方 09年はリーグ優勝して、日本シリーズでは日本ハムに勝って、そしてWBCに出場しました。最初に原監督から「一緒に頼むぞ」と言われた時には、「僕なんかよりもすごい先輩方がいるので、僕は結構です」って断ったんです。で、その場はそれで終わったんですけど、原さんは僕が断ったことを忘れていて、そのまま話が進んでいたんです。原さんもちょっと長嶋さん的な部分があるんです(笑)。

── 結果的に出場してよかったですね。

緒方 ちゃんとお断りしたんですけど、WBCに出られて本当によかったです。プロに入れたのも、スイッチヒッターになったことも、盗塁王になったことも、WBCに出られたことも、やっぱり運がよかったんだと思います。やっぱり、運です、僕の場合(笑)。

おわり


盗塁王二度の緒方耕一が30歳の若さで引退も「そこで辞めたのは正解だった」と思うワケ

 

緒方耕一(おがた・こういち)/1968年9月2日、熊本県生まれ。熊本工業高から87年にドラフト6位で巨人に入団。プロ入り後にスイッチヒッターに転向し、3年目に一軍初昇格。快足一番打者として頭角を現し、90年に盗塁王獲得。その後、足の故障を克服して93年に2度目の盗塁王に輝いたが、相次ぐ故障により98年に30歳の若さで現役引退。通算成績(実働9年)は685試合出場、打率.263、486安打、17本塁打、130打点、96盗塁。引退後はコーチ、スポーツコメンテーターとして活躍。09年のWBCでは日本代表のコーチを務め、世界一に貢献した