消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
証言者~中尾孝義(前編)

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「浪人しなければ、僕はプリンスに入っていないんです。一浪したおかげで、同じ学年のいいヤツらと野球できたんですよ」

 1974年の初頭、兵庫・滝川高3年の中尾孝義は、慶應義塾大への進学を目指していた。

しかし入学試験の結果は不合格となり、1年後の再受験を決意する。そのことが後年のプリンスホテル入社につながったというのだが、いったい、どんな背景があったのか。

プロからも誘いがあった中尾孝義は、なぜ未知の社会人チーム・プ...の画像はこちら >>

【慶應大への強い憧れ】

 プロでは中日、巨人、西武で13年間プレーし、捕手として強肩、強打に加えて俊足も光った中尾。「キャッチャーの概念を覆した男」の原点は71年、高校1年の秋、3年生が抜けて新チームになった時だった。2年生に捕手がいなかったため、レフトで肩の強さを見せていた中尾が抜擢された。自分ではやりたくなかったが、監督の命令は絶対だった。

「でも、やってみたらけっこうよくて、そのまま根づいたような感じです。

あの頃、高校生でも『キャッチャーはどっしりしたヤツ』っていう感覚でしたし、そんなに足の速いキャッチャーもいなかったなか、どういうわけか、僕になったんですよね」

 捕手転向から1年後。夏の大会が終わり、3年生の主将が慶大のセレクションに行くことになると、監督の指示でなぜか中尾も同行。強打と強肩を慶大監督の大戸洋儀(おおと・よしなり)に認められ、「来年も絶対来い。慶應に入れ」と言われてその気になった。

 さらに翌73年、3年生になって夏の大会前。東京六大学の選手による高校野球部訪問があり、慶大の選手が滝川高にやって来た。

その年は同校の先輩ふたりが部に在籍していた縁もあり、「慶應のプリンス」と呼ばれた内野手の山下大輔(元大洋)、捕手の木原弘人が来校して練習に参加。中尾の心はますます慶大に傾いた。

「キャッチャーの僕には、木原さんがすごくかっこよく見えて。"慶應ボーイ"になりたい、っていう気持ちが余計に強くなりました。それで最後の夏は兵庫大会の決勝で負けて、甲子園も終わって、8月の終わり頃。慶應のマネージャーから電話がかかってきたんです。

野球部への入部を希望する高校生に向けた、教授による勉強会の案内でした」

 東京・渋谷区の会場は宿泊施設も完備。金曜日の夜に上京して2日間、勉強して日曜日の夜に地元へ帰る、という生活が9月から11月まで続いた。中尾以外の参加者は「怪物」と呼ばれた作新学院高の江川卓(元巨人)、静岡高の植松精一(元阪神)、水野彰夫、永島滋之、大府高の森川誠、のちにプリンスで同僚となる丸子実高(現・丸子修学館高)の堀場秀孝(元広島ほか)だった。

「慶應の人から『絶対、入れる』って言われてたんですよ。もちろん、それでも勉強はしていました。それが受験の2~3日前、教授のなかに反対する人が出てきてダメになったらしいです。

結局、合格したのは永島だけで、江川と水野、植松は法政に行って、僕はやっぱり慶應に入りたいから、親父に『一浪させてくれ』と頼み込んだ。『どうしても入りたいんだ』って」

 学業優秀だった中尾は、「野球学校」ではない滝川高を選択していた。同校は300勝投手の別所毅彦(元南海ほか)、本塁打王5度の青田昇(元巨人ほか)を輩出した名門ながら、進学もできるのが魅力だった。身長173センチと小柄で、もしも故障で野球を断念した場合、学力での大学進学を考えていた。「浪人してでも慶大に」という思いも、スポーツ推薦で入学する感覚とは大きく違う。

【専修大では4度のベストナイン】

 しかし1年後、75年の再受験も不合格となった中尾は、以前から滝川高とつながりのある専修大に入学。こうして一浪した結果、プリンス野球部が結成される78年、中尾が大学4年生になる巡り合わせになったわけだ。

そして専修大では、1年春から東都大学のリーグ戦で頭角を表す。

「1年生が参加する新人練習で、足の速い選手の盗塁練習にキャッチャーとして入ったんです。そしたら全部アウトにしたもんだから、3、4年生の全体練習に入れて。オープン戦でもけっこう打ったからか、ベンチ入りさせてもらいました」

 リーグ戦最初のカード、国士舘大との第2戦、1対3で負けていた9回。一死一塁の場面で中尾は代打で起用され、これが初出場だった。次打者の主将に「ちょっと、同点ホームラン打ってきますよ」と予告したというから、メンタル面も新人離れしていたようだ。

「打席入って、1ボールからカーブがきて振ったら、本当にホームラン。そこからレギュラーです。1年生の時に3割8分ぐらい打ちましたよ、ホームラン2本で。運がよかったのか、そのあと、アジア大会の全日本メンバーに選ばれて。リーグ戦では4年の春に優勝してMVPになって、日米大学野球にも出られて。こういうのをエリートコースっていうんですかね(笑)」

 まさに「エリート」の通算成績は4年間で97試合に出場して353打数106安打(歴代7位)、打率.300、13本塁打、59打点。ベストナインに4度輝いている。当然、早くからプロへの意識も芽生えていたことだろう。

「いや、最初はプロに入れるとは思ってなくて、3年生の頃には親父から『プロなんか行かずに、地元の兵庫とか大阪の企業に入れ』って言われて、僕もそのつもりでした。ただ、先輩方がプロに入っていくなかで、この人が何位で指名されるんだ......とか思い始めて、じゃあオレも行けるのかなって。で、その頃、3年生の秋ぐらいに、プリンスから話があったんです」

【大学球界のスーパースターが集結】

 その日、専修大校友会のOB会長から「会わせたい人がいる」と声をかけられた。このOB会長には中尾が2年生の頃からよく食事に誘われていたが、OBといっても野球部ではなくバスケット部。北海道・旭川で仕事をしている人、ということしか知らなかった。

「OB会長に紹介されたのは、新宿プリンスホテル総支配人の幅敏宏さんという方と、部下の支配人の方でした。今でもはっきり覚えていますが、幅さんがまず『じつはプリンスホテルで社会人野球のチームを立ち上げて、再来年から加盟する。ぜひ中尾くんに入ってほしい』とおっしゃって、こう続けられました。

『プロよりも設備のいい専用グラウンドをつくる予定だし、今の大学野球のスーパースターを集めたいんだ』と。僕は聞いてすぐに『それはすごいですねえ。本当に夢があっていいと思います。もしできるのであれば、行かせてもらいます』と答えていました」

 中尾自身、あとで知ったのだが、OB会長は西武グループの創業者=堤康次郎と親しい間柄だった。なおかつ、幅は札幌プリンスホテルの開業時に中心となって動き、北海道の地縁でOB会長と懇意にしていた。すなわちプリンスホテルは会社を挙げて人脈を生かし、のちに監督になる石山建一がつくったリストに基づいて、大学球界の選手のスカウティングに関わっていたのだ。

 それにしても、その時点でプリンスホテル野球部はまだ何も形を成していない。プロも意識し始めた中尾が、なぜ、未知の社会人チームからの誘いにすぐ乗り気になったのか。

「同じ学年のいいヤツらが集まって、一緒に野球をやるというのがすごく魅力的だったんです。幅さんがその場で、法政の居郷(肇)だとか、慶應の堀場だとか、有名な選手の名前をどんどん挙げていかれたし、専修大の仲間も入っていました。それに、1期生になれるのもいいなと思った。だから、ほかのチームだったら入ってないです。たぶん、プロに行っていたと思います」

後編につづく