【アメリカで成功するために必要なこと】

 現在の日本プロレス界でトップに君臨するオカダ・カズチカが、今年1月いっぱいで新日本プロレスを退団した。

 2月24日に札幌で行なわれた、新日本の北海きたえーる大会にはフリーとして参戦。第2試合の10人タッグマッチで「ラストマッチ」を飾ると、試合後のマイクで「お別れじゃないですから、また会いましょう! 17年間、本当にありがとうございました」とメッセージを送った。



オカダ・カズチカは「プロレス界の大谷翔平になれる」WWE殿堂...の画像はこちら >>
 オカダの新日本、日本プロレス界への貢献は計り知れない。

 中学を卒業した2003年、15歳でメキシコの日本人プロレスラー養成学校「闘龍門」に入門。翌年8月にメキシコでデビューすると、2007年8月に新日本に移籍した。

 入団後は、身長191cm・100kg超の恵まれた体格、抜群の運動神経やプロレスセンスから将来を嘱望された。そして、海外武者修行を経て凱旋帰国した直後の2012年2月12日。大阪府立体育会館で棚橋弘至を破り、初挑戦でIWGPヘビー級王座を奪取する快挙を達成した。

 そこから、「金の雨を降らす男」を意味する"レインメーカー"の異名とともに一気にトップ戦線へと進出し、同年8月の最強決定戦「G1クライマックス」でも初出場・初優勝。低迷していた新日本の人気をV字回復させ、日本プロレス界を背負うレスラーとして2010年代のマット界を支え続けた。

 しかし、「世界進出」というさらなる挑戦のために、16年ほど戦い続けた新日本から退団。アメリカのプロレス団体「AEW」に移籍することが濃厚とされているが、成功へのカギはどこにあるのか。新日本の大先輩であり、1970年代から80年代前半には「WWF」(現・WWE)に定期参戦した"レジェンド"藤波辰爾に話を聞いた。

 オカダは現在36歳。

デビュー17年目での世界進出に、藤波はまず理解を示した。

「私自身のキャリアを振り返っても、36歳の頃は肉体的、精神的にもピークを迎える時期。もちろん個人差はあるでしょうが、40歳を超えると、自分が頭の中でイメージしている動きと実際の動きに若干のズレが出てくるんです。これは想像でしかないけど、40歳の大台が見えてきたからこそ『勝負に出るなら今しかない』と決意したんだと思います。

 ほかのスポーツに目を向けると、野球の大谷翔平やバスケットボールの八村塁といった各競技のトップ選手がアメリカで勝負し、成功している。そういうアスリートたちの活躍に『俺もやってやる』と刺激を受けた部分もあったんでしょう。

さまざまな状況、時代性がいい意味でプラスに働き、『日本を飛び出して世界でトップに立つ』という野望を抱いたんだと思います」

 藤波はWWF参戦後、ジュニアヘビー級王座を獲得するなど活躍し、ニューヨークを中心とした米東海岸で絶大な人気を獲得した。2015年には、猪木に続く日本人ふたり目のWWE殿堂入りを果たしている。そんな自らの経験から、藤波はオカダにアドバイスを送る。

「オカダの強みは、アメリカのレスラーにも引けを取らない体の大きさ。そこは、私とは違う彼の武器です。試合も、新日本でやってきたハイレベルなパフォーマンスを続ければ、十分に向こうのファンにも受け入れられると思います。

 ただ、これは国民性の違いなんですが、向こうのリングでは日本以上にハッキリと自己主張をしないといけない。試合中も展開に応じて、怒っているのか、耐えているのか、といったメリハリをつける必要があります。私もそうでしたが、そこはアメリカのリングに立ってファンの歓声を受けていくうちに理解していくでしょう。鋭い感性を持っているオカダなら、意識せずとも自然に適応していくはずです」

 技だけでなく、感情表現の抑揚が重要。これはレジェンドからの金言だが、そのほかにも成功のために欠かせないものがあるという。

「早い段階で英語をマスターすることが大切です。

自己表現が重要という話をしましたが、それには言葉の力が絶対不可欠ですから。

 加えて、日本では今でも十分に体が大きいですが、アメリカではさらに大きな選手がいます。だからこそ肉体を鍛え直して、さらに体をデカくすることも考えたほうがいいですね。全米のファンが驚くほどの体になれば、リングに上がっただけでファンを引きつけることができる。そうすれば、オカダ・カズチカは"プロレス界の大谷翔平"になれるはずです」

【レスラー兼社長になる棚橋に望むこと】

一方で藤波は、大黒柱を失った新日本にもエールを送った。

自身は1999年から2004年まで同団体の社長を務めた。

昨年12月23日には棚橋弘至が、藤波以来となるレスラー兼社長に就任。その棚橋にこう呼びかけた。

「オカダが抜けた穴を誰が埋めるのか。今の選手を育成することも大切ですが、棚橋にはほかの分野から新しい選手を発掘することにも乗り出してほしい」

かつて新日本は、大相撲の元横綱・双羽黒の北尾光司、柔道世界王者の小川直也ら、他分野のトップアスリートをデビューさせてきた。こうしたスカウトには賛否両論あったが、プロレスファン以外にも大きな話題を提供したことは事実だ。だからこそ藤波は、「オカダが抜けてファンは寂しい思いをしているはず。お客さんの度肝を抜く選手を発掘することで、またプロレスに多くの目を向けてほしい」と願った。

1972年3月にアントニオ猪木が旗揚げした新日本は、今年で創設52年目を迎える。半世紀を超える歴史は栄枯盛衰の繰り返しで、チャンスはピンチの始まりであり、危機はさらなる成長へのきっかけでもあった。団体の旗揚げメンバーのひとりである藤波は、2006年の退団まで激動の歴史を目にしてきた。

「新日本の最大の武器は"歴史"です。棚橋には『これまでの新日本の歴史を振り返ってみろ。そこにたくさんの答えが隠れている』と伝えたいですね。選手としては団体の苦しい時期を経験したでしょうが、今度は"社長"としても会社を支えないといけない。

会社が傾いた時にどうやって起死回生して復活したのか。興行的にきつい時期はあっても、新日本は必ず這い上がってきました。棚橋にはオカダが抜けた後も、ファンのために団体を成長させていってほしいです」

藤波は棚橋に激励の言葉を送ったあと、最後にオカダへこんな希望を託した。

「海外でトップに立った後、いつか日本に凱旋帰国してもらいたい。アメリカで羽ばたき、世界的なプロレスラーになった経験を日本のマットに還元してほしいですね。それが何年後になるかはわかりませんが、それによって日本のプロレスはさらに繁栄するでしょうから」

 オカダには、IWGP世界ヘビー級王者の内藤哲也をはじめ、多くのレスラーがエールを送る。さまざまな思いを背負いながら、"レインメーカー"はアメリカのリングに立つ。

【プロフィール】
藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 

1953年12月28日生まれ、大分県出身。1970年6月に日本プロレスに入門。1971年5月にデビューを果たす。1999年6月、新日本プロレスの代表取締役社長に就任。2006年6月に新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げする(2008年1月、同団体名を『ドラディション』へと変更)。2015年3月、WWE名誉殿堂『ホール・オブ・フェーム』入りを果たす。