北條史也インタビュー(前編)
慣れ親しんだ甲子園球場から、社会人野球の舞台へ──。2024年に企業チームの強豪・三菱重工Westに加入する北條史也。
阪神タイガースでも11年間にわたりプレーし、通算455試合出場、308安打を記録している。かつては「坂本勇人(巨人)二世」ともてはやされた逸材にとって、プロ野球人生はどんなものだったのだろうか。新天地での展望を含め、北條に激闘の日々を振り返ってもらった。
【プロに入ってホームランをあきらめた】
── まずは社会人の三菱重工Westに合流して、率直な感想を教えてください。
北條 タイガースで11年間ずっといさせてもらったので、新鮮な部分が大きいですね。
── 社会人野球にはどんなイメージがありましたか?
北條 まずレベルが高いということ。あとは一発勝負のトーナメント戦のイメージが強くて、「高校時代の感覚に戻るんかな?」という気がしています。
── 阪神の同僚には、社会人出身の中心選手が多かったですよね。糸原健斗選手(JX-ENEOS出身)、木浪聖也選手(Honda出身)、近本光司選手(大阪ガス出身)、中野拓夢選手(三菱自動車岡崎出身)など。みんなしぶといイメージです。
北條 言われてみればそうですね。社会人出身の選手は淡白な感じがないし、しつこく粘り強く、1打席にかける思いが強い気がします。
── そんな同僚から影響を受けたところもあったのでしょうか?
北條 見習う部分は多々ありましたが、自分もそういう気持ちでやっていたほうだと思います。もちろん、結果が出なかった時には引きずらないようにしていましたが。プロ野球は年間通して試合があって、切り替えが大事なので。
── あらためて11年間を振り返ってみて、入団時に思い描いていたプロ野球選手生活は送れたのでしょうか?
北條 思い描いていたどおりには全然いってないです。
── あきらめた?
北條 木のバットに変わったことと、体がプロの先輩と全然違いました。打球が飛ばなくなって、毎日練習や試合があるなかで体力的に劣ることも痛感しました。疲れると余計に飛ばなくなるし、「(ホームランを)狙っても打たれへんな」という気持ちに変わっていきました。そこで打率を残せる、嫌らしいバッターになっていこうと考えるようになりました。
【「坂本二世」と呼ばれることはうれしかった】
── 高校の大先輩である坂本勇人選手と同じショートだったことから、「坂本二世」と呼ばれることもありました。この評価は重荷だったのでしょうか?
北條 いえ、うれしかったですよ。坂本さんには憧れもありますし、自分のなかで思い描く理想に一番近い存在でしたから。ああいうふうになりたかったですよね。
── 同じプロの世界に立ってみて、坂本選手の偉大さをより実感したのでは?
北條 しました。まず、ケガをなかなかしない。僕はいろんなケガをしましたけど、坂本さんはショートで歴代最多の試合数に出続けていたじゃないですか。
── オフには坂本選手の自主トレに参加していましたね。
北條 一緒にやらせてもらって、これだけの人が僕より向上心を持っているのか......と思い知らされました。結果を残していても満足せず、人の意見をめっちゃ聞いているんです。あらためてすごさを感じました。
── 北條選手はもともと努力型というか、高校時代もひとつの技術を覚えるのに猛烈な練習量を通して習得していたそうですね。
北條 はい。調子の波が結構激しかったです。
── 一方、同期の田村龍弘選手は天才型でしょうか。
北條 田村は練習を全然しないんですよ(笑)。人前ではやらないだけかもしれませんが、テキトウなところがあります。でも、試合になれば必ず打つし、相手の裏をかくリードができる。センスがずば抜けていました。田村と出会ったのは小学生の時なんですけど、すごすぎてずっと負けていると思っていました。僕は「努力しよう」と思って練習してきたんじゃなくて、「田村に負けているならやるしかない」と思って練習してきました。田村がいなかったら、プロにも入れてなかったと思います。
【野球人生を変えた左肩脱臼】
── プロでは試行錯誤を重ね、4年目(2016年)に122試合に出場して、打率.273、5本塁打とブレイクしました。
北條 金本知憲監督にすごく指導いただいて、ガムシャラについていった感じです。正直言って、あまり当時の記憶がないんですよ。ただ必死にやっていただけなので。
── 阪神という球団は在阪メディアやファンの熱が高く、注目されるなかでのプレーはやりがいがある反面、難しさもあったと思います。阪神では発言に気をつける選手も多いようですね?
北條 それは多々ありました。記者の方から「明日は◯◯したいですか?」と聞かれて、「そうですね」と返したら、そのまま一面に「北條、◯◯宣言」と載ってしまう。まるで僕が大口を叩いたみたいに(笑)。記者の人もそれが仕事やし、仕方がないんですけどね。質問をよく聞くようにして、時には「そう書くつもりでしょ?」と訂正しながらやりとりするようにしました。
── 4年目に定位置をつかんだと思いきや、その後は一進一退のシーズンが続くことになります。
北條 4年目が終わったあと、オフにウエイトトレーニングのノルマをいただいて、体が大きくなったんです。体に力がついて、練習では打球が結構飛ぶようになりました。そこで再び「長打を打ちたい」という思いがちょっと出てしまって。力任せのスイングになって、フォームがぐちゃぐちゃになりました。
── 木のバットに変わってから、ずっと修正してきたスイングだったんですよね。
北條 僕はもともと右手の力が強くて、右手をあおるように使ってスイング軌道が遠回りするクセがあったんです。そこへ強い打球を打とうと力が入ると、体の開きが早くなったり、右手であおったりするクセが出てしまう。でも、今にして思えば、いい時の僕は体の力が抜けていて、ラクにヘッドを走らせる打ち方だったんですよね。
── 5年目は83試合の出場で打率.210とつまずきましたが、翌6年目は打率.322と好成績を収めています。何が変わったのでしょうか?
北條 また「ホームランはあきらめよう」と割り切って、力を抜くことを考えました。いい打率を残せたので、「この考え方で変われるんじゃないか?」という手応えがあったんですけど......。
── この年の9月に左肩の脱臼という大きな故障を負っています。このケガは大きかったですか?
北條 僕は脱臼する前を「第一次プロ生活」、脱臼したあとを「第二次プロ生活」ととらえています。それくらい大きなポイントでしたし、いろいろと変わってしまいました。
後編につづく>>
北條史也(ほうじょう・ふみや)/1994年7月29日、大阪府生まれ。光星学院高(現・八戸学院光星)では1年秋から主軸を担い、2年夏から3年夏まで3季連続甲子園準優勝を果たした。12年のドラフト会議で阪神から2巡目で指名され入団。プロ4年目の16年には自己最多の122試合に出場し、打率.273、5本塁打をマーク。18年にも打率.322を記録したが、同年9月に左肩を脱臼。20年以降は出場機会を減らし、23年は一軍に昇格することなく、戦力外を受けた。その後、社会人野球の三菱重工Westに加入することが決まった。