微笑みの鬼軍曹~関根潤三伝
証言者:川崎憲次郎(前編)

関根潤三が川崎憲次郎に施した「英才教育」 試合を捨てる覚悟で...の画像はこちら >>

【17歳の川崎憲次郎と、61歳の関根潤三】

 初めて「その人」に会ったのは17歳の秋のことだった。1988(昭和63)年ドラフト1位指名を受け、東京・銀座のホテルでの入団会見に臨んだ。目の前に現れた小柄な初老の男は、とても現役プロ野球監督には見えなかった。

当時、関根潤三は61歳、川崎憲次郎は17歳。44歳もの年の差があった。

「もちろん、テレビで見ていましたから、目の前にいるのが関根さんで、自分たちの監督だということはわかっていました。テレビで見ていたとおりの優しそうで、穏やかな感じ。それが、僕にとっての関根さんの第一印象ですね」

 大分で生まれ育ち、テレビ中継を通じてジャイアンツファンとなった。しかし、「当時、明るい雰囲気で若い選手が多かった」ヤクルトスワローズを志望していた。

そこには、「投手王国のジャイアンツでは出番がない」というしたたかな計算もあった。そして、ドラフト会議ではジャイアンツとの競合の末にスワローズに入団。契約金6000万円、年俸480万円、さらに大エース・松岡弘が背負っていた背番号《17》を提示された。球団としても最大限の誠意を見せた。

「契約金、年俸については当時の高卒ルーキーの最高額でしたから、何も異存はありません。ただ、背番号に関しては、『こんな大切な番号は重すぎます』って断ったんだけど、入団会見に行ったら、《17》がすでに置いてあったので、もう着るしかなかったんです」

 この時、チームを率いていたのが、就任3年目を迎える関根だった。

87年にスワローズ監督に就任し、2年目のシーズンを終えていた。池山隆寛、広沢克己(現・広澤克実)の「イケトラコンビ」が台頭し、「ギャオス」こと内藤尚行、前年ドラフト1位の長嶋一茂ら、若い選手が台頭しつつある頃だった。

「入団会見ではあいさつ程度でしたけど、関根さんと本格的に接するようになったのは翌年のマウイキャンプでした。この時、投手陣はマウイでキャンプをしてから、野手陣の待つユマに合流するという流れでした。のちに関根さんに聞いたら、『個人的にオレが行きたかったから、マウイに決めたんだよ』と笑っていました(笑)」

 高校の卒業式の関係で、一軍合流は遅れてしまった。しかし、関根は川崎のマウイキャンプ入りに強硬にこだわったという。

大分から上京して、右も左もわからぬままの川崎にとってのプロ野球人生は、こうして始まった。

【ついにプロ初登板のチャンス】

 プロ1年目、忘れられないことがある。春季キャンプ、オープン戦と続くなか、川崎は常に一軍とともに多くの時間を過ごすことになった。

「結局、開幕一軍メンバー入りも果たしました。でも、実際はオープン戦でも、そこまで結果を残せたわけではないんです。開幕してからもベンチ入りさせてもらったけど、1カ月間ずっと投げさせてもらえませんでした。もちろん、ファームでは投げているんですけど、《下で投げて、上で投げない》という生活がずっと続きました」

 この時、川崎の同期であり、高知商業高校からドラフト2位で入団した岡幸俊も、川崎同様、一軍帯同の日々を過ごしていた。

しかし、川崎から見れば、それは決して「同様の日々」ではなかった。

「岡も、基本的には《下で投げて、上で投げない》んですけど、彼の場合はすでに開幕戦でプロ初登板を果たしているんです。ハッキリ言えば、岡のほうが期待されていたし、僕よりも扱いはよかった気がします。内心では、『何で岡が先なんだよ』とか、『何で岡ばかりかわいがっているんだよ』という思いは正直ありましたね......」

 岡のプロ初登板は、89(平成元)年4月8日、東京ドームでの対読売ジャイアンツ戦。8回裏二死から5番手として登板して、中尾孝義から三振を奪っている。同期の岡に先を越され、川崎の胸の内にはジリジリとした焦燥感が芽生えていた。

「開幕してからも、何度かプロ初登板のチャンスはあったんです。『おい川崎、ちょっと準備しておけ』と言われて、ブルペンで肩をつくるんですけど、試合展開もあって出番はなかった。そのたびに、『早く投げたいな』という思いは募っていきましたね」

 そして、ついに5月9日──。本拠地・神宮球場での阪神タイガース3回戦、5回表一死から3番手として救援登板のチャンスが訪れ、2回2/3を無失点で切り抜けた。さらに、5月23日、東京ドームで行なわれたジャイアンツ戦では待望のプロ初先発の機会が訪れた。

「先発は当日、伝えられました。

ただ、その前日に『明日は若手でいく』と言われていたので、内心では『オレだろうな』って思っていましたけどね。ものすごくうれしかったです」

 結果的に5回を投げて7失点を喫した。ほろ苦いデビューとなったが、それでも「ようやくプロのマウンドに立てた」という充実感の方がはるかに勝っていた。

 監督退任後の90年に出版された『若いヤツの育て方』(日本実業出版社)において、川崎のプロ初先発について、関根は次のように述べている。

 川崎がプロ初先発のマウンドにのぼるとき、私はこういって彼を送り出した。
「川崎、このゲームお前にやろう! 捨てるから思い切ってやれや」

 まだまだシーズン序盤であるにもかかわらず、指揮官は「捨てる」覚悟で、期待のルーキーに託したのである。

【関根が大切にした「川崎英才教育」】

 前掲書で関根は、入団直後の川崎について次のように述べている。

 入団してきた川崎のピッチングをはじめてみたとき、
「ファームだったらすぐに勝つな」
 と、直感した。成長レベルでいえば、体力的にも技術的にもすでに三・五(※)くらいの水準にきていた。こんな選手はめったにいない。しかも高卒ルーキーである。
「こいつは、えらいのが入ってきた」
 そう思った。
(※)五段階中の三・五という意

 関根はすでに、「こんな選手はめったにいない」と、川崎のポテンシャルを見抜き、その上で「川崎育成方法」を早くから策定していた。さらに引用を続ける。

 私はどうやって彼を育てようかといろいろ考えた。高卒ルーキーの場合、一般的には、まず一、二年は二軍で体をつくり、基本を学ばせるのが常識である。
 しかし、すでにファームのレベルをクリアしている以上、二軍でやらせたところでたいした意味はない。二軍の試合で投げれば、勝つに決まっているからだ。

 べた褒めである。その結果、関根は腹心である小谷正勝ピッチングコーチと相談のうえ、「二軍ではなく、常に一軍に置こう」と決意したのである。だからこそ、海外キャンプにも帯同させ、「開幕一軍」の切符を期待の新人に託した。川崎は言う。

「やっぱり、関根さんなりの英才教育だったんだと思います。投げなくてもいいから、一軍の雰囲気を感じること。先輩たちの会話を聞くこと。『ちゃんと見ておけよ、聞いておけよ』という意味だったと思います。岡のほうを最初に一軍デビューさせたのも、もしかしたら僕の闘志を掻き立てるための戦略だったのかもしれないですね」

 そして、川崎は言った。

「何としてでも川崎を育てる。そんな覚悟が関根さんにはあったのかもしれません。本当にありがたいことです......」

 ルーキーイヤーとなった89年、川崎は23試合に登板している。そのうち先発で13試合を投げて4勝4敗1セーブ、防御率3.94を記録。9月24日のジャイアンツ戦では、プロ初完投、初完封勝利も飾った。チームは4位に沈んだが、川崎にとっては貴重な経験を積むこととなった。関根も手応えを感じていた。前掲書にはこんな記述がある。

 この年、いきなり四勝四敗一セーブを記録した。これは、ありきたりな言い方をすれば、「川崎英才教育」の成果であった。

 そして、この年を最後に関根はスワローズを去る。後任は野村克也である。こうして、川崎と関根の関係はわずか1年で終焉のときを迎えることになったのである──。

後編につづく>>


関根潤三(せきね・じゅんぞう)/1927年3月15日、東京都生まれ。旧制日大三中から法政大へ進み、1年からエースとして79試合に登板。東京六大学リーグ歴代5位の通算41勝を挙げた。50年に近鉄に入り、投手として通算65勝をマーク。その後は打者に転向して通算1137安打を放った。65年に巨人へ移籍し、この年限りで引退。広島、巨人のコーチを経て、82~84年に大洋(現DeNA)、87~89年にヤクルトの監督を務めた。監督通算は780試合で331勝408敗41分。退任後は野球解説者として活躍し、穏やかな語り口が親しまれた。03年度に野球殿堂入りした。20年4月、93歳でこの世を去った。


川崎憲次郎(かわさき・けんじろう)/1971年1月8日、大分県生まれ。津久見高から88年ドラフト1位でヤクルトに入団。1年目から4勝を挙げ、2年目には12勝をマーク。プロ5年目の93年には14勝を挙げリーグ優勝に貢献。日本シリーズでもMVPに輝くなど、15年ぶり日本一の立役者となった。98年には最多勝、沢村賞のタイトルを受賞。01年にFAで中日に移籍するも、右肩痛のため3年間登板なし。移籍4年目は開幕投手に抜擢されるも成績を残せず、04年限りで現役を引退した。12、13年はロッテの投手コーチを務めた。現在は解説をはじめ、さまざまなジャンルで活躍している。