1月1日に発生した能登半島地震から、3カ月半が過ぎた。今なお被災地の人々は避難所暮らしを強いられ、インフラの復興も思うように進んでいない。

学生スポーツが受けた震災の影響も甚大で、日常を取り戻すまでには至っていない。石川県七尾市の鵬学園高校サッカー部の様子を取材した。

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【ひび割れ、液状化......学校が被災】

「七尾市までの道中が大変なことになっていたので想像はついていたのですが、実際に学校を見るとショックというか、これからどうなるんだろうという感じでした」

 地震発生直後について振り返るのは、鵬学園高校でサッカー部監督を務める赤地信彦だ。同校は能登半島の中央に位置する石川県七尾市の私立高校。サッカー部は2012年に赤地監督が就任して以降、急激に力をつけ、これまで全国高校サッカー選手権に2度出場。昨年は大学経由で初のJリーガーが誕生(永田貫太/中京大→藤枝MYFC)しただけでなく、初めての世代別代表(鈴木樟/U-17代表)も生まれた注目校だ。

 震災が発生した元日は正月休みとあって、赤地監督は金沢市の実家に帰っていた。

選手も大半が寮生であり、自宅に帰省していたことは不幸中の幸いだった。赤地監督は1月3日に、通常なら1時間ほどで着く金沢から能登半島までの道のりを3時間かけて戻ったが、飛び込んできたのは目を覆うような惨状だった。

 校舎の一部がひび割れし、体育館やグラウンドが液状化現象によって陥没。校内は授業で使う教材などが散乱していた。「それぞれの先生方にも家があるし、家族もいる。水も出ないし、生活をするだけで精一杯」(赤地監督)な状態ではあったが、復旧に向けて校内の安全確認と清掃を進めた結果、当初の予定よりも7日遅れの1月16日にオンラインでの始業式を行なうことができた。

「先生はみんな"教育を止めてはいけない"との想いでいっぱいでした」(赤地監督)

「能登に笑顔を 支えに感謝」石川県で被災した鵬学園高校サッカー部が奮闘中
被災した学校の様子(写真提供・鵬学園)
 以降はオンラインで授業を進めてきたが、サッカー部への影響は大きかった。学校の敷地内にあった男子寮は建物の地面が液状化しており、もう一度大きな余震が来れば崩壊の恐れがあるため、とても住める状況ではない。地震発生直後から、自宅待機を余儀なくされ、サッカー部は活動再開の見込みすら立たなかった。

【富山県に移って集団生活】

 救いの手を差し伸べたのは、"サッカーファミリー"だった。帝京長岡高校(新潟県)の古沢徹監督や石川県内の高校から地震発生直後に連絡をもらい、近隣出身の生徒の練習参加を受け入れてくれた。他地域の生徒も赤地監督が連絡を取ったところ、全チームが練習生としての受け入れを快く引き受けてくれたという。

 並行して赤地監督はサッカー部が集団生活を送れる旅館を探したが、50人近い生徒を受け入れてくれる場所は、そう簡単には見つからない。

学校近くの宿泊施設から順番に連絡を取り、最終的には隣の県である富山県射水市の民宿『青山 有磯亭』が受け入れてくれることになった。

「能登に笑顔を 支えに感謝」石川県で被災した鵬学園高校サッカー部が奮闘中
3月までは富山県の民宿で集団生活を送った(写真提供・鵬学園)
 生徒の出費を抑えるため、富山第一高校サッカー部の元監督でモンゴル代表監督を務める大塚一朗さんの呼びかけで、『JA全農とやま』と『富山県生活協同組合連合会』が40人分以上もの昼食や米、野菜、肉などの食材提供を支援してくれたことも大きかったという。

 練習場所も北陸電力の協力によって、J3カターレ富山が利用するグラウンドが利用可能となった。

「旅館の方が受け入れてくださっただけでなく、グラウンドも使わせていただき、いろんな方に感謝する日々でした。サッカーができることが当たり前ではないと強く感じたので、みなさんに感謝してプレーしたい」と主将の竹内孝誠は口にする。

 2月3日から富山県での生活を送る一方で、並行してサッカー部の生徒が暮らす仮住まいの建設も急ピッチで始まった。

学校の敷地内にあった勉強合宿用の棟を新2、3年生たちが生活できるように水回りなどをリフォーム。3月31日には慣れ親しんだ七尾の地にようやく戻ることができた。

 春から入学予定だった、新1年生への対応も大変だったという。推薦入試は1月13日で、願書の締め切りが9日であったため、地震発生直後に赤地監督はすぐ入学予定選手が所属するチームの指導者に連絡を取った。

「寮とグラウンドがダメになりました。見通しも立たないので、申し訳ないのですが、進路変更をするならすぐしないと間に合わない。

選手と親御さんとすぐ話し合いをしてくだい」

 学校の現状を隠すことなく伝えた。多くの辞退者が出ると覚悟していたが、ほぼすべての生徒が「鵬学園でサッカーがしたい」と言ってくれたという。彼らを受け入れるための宿泊施設も無事に見つかった。

 新入生のひとり、小田創也は青森県からやって来た。

「震災が起きても入学の意思は変わらなかった。鵬学園高校でプレーすることによって、能登の人たちを勇気づけることができるかもしれない。

それが自分にできるなら、全力を尽くして能登に勇気を与えたいと思った」

 そう口にするとおり、能登の地から全国大会出場を目指す考えは揺らがなかったという。

【復興までの道のりは遠い】

 4月から新年度がスタートしたが、復興までの道のりは遠い。地震の影響で体育館が使えなくなったため、体育の授業も教室でのラジオ体操や、廊下で腹筋をするなどしている。

 室内で活動するバドミントン部、男子バスケ部、バレー部、なぎなた部は周辺の高校の協力を得て、転々としながら活動中。グラウンドもひび割れが著しく、テニス部や野球部も校内での活動は難しい。

 サッカー部も学校のグラウンドが使えないほか、日常的に使用していた七尾市和倉温泉運動公園多目的グラウンドの被害が大きく、練習場所の見通しが立っていない。

「これからがより大変になっていく。私たちには地震の影響が残っていても、世の中はこれまでどおり進んでいく」

 赤地監督は、そう話す。地震発生から3月までは、高校サッカー界にとっては閑散期といえる時期で公式戦はなかったが、4月からは例年どおりリーグ戦が始まった。プリンスリーグ北信越1部を戦う鵬学園にとって、簡単ではない状況が続く。

 これまでは年間18試合のうち半分近くがホームゲームだったが、地震の影響で近隣の会場が使えず、今年はすべてアウェーゲームを強いられる。南北に長い北信越地方は、移動の関係で前泊が必要なケースが多く、これまでとは比べ物にならない費用がかかる。

 移動費も同様だ。鵬学園はこれまで遠方まで出向く部活動が少なく、サッカー部が学校所有のバスを使えていたが、前述のとおり今はほかの部活動も日々の練習や試合のために出かけなくてはならなくなったため、バスの空きがない。

 サッカー部も、これまではAチームが遠征に行っている間、他のカテゴリーは学校に残って活動していたが、これからはBチーム以下も出掛ける回数が増える。新年度は3学年で80人以上の生徒が在籍するため、今までどおりに活動するためには常時3台のバスが必要だ。そのため、サッカー部としてバスの購入費用を集める、クラウドファンディングを行なっているという。

 バスを用意できたとしても、運転手が必要になる。復興本部長として学校業務に奔走する赤地監督を含め、コーチングスタッフも部活動にまで手が回らない状態が続いているため、指導者や寮監の確保も急務だ。

【能登に笑顔を 支えに感謝】

 能登での生活に戻った現在も、日常が戻ったとはいえない日々が続くが、選手はサッカーができる喜びを感じている。リーグ戦では「能登に笑顔を 支えに感謝」「能登にエールを皆と共に」との文字を書いたTシャツを着て、集合写真を撮り、SNSで発信した。

「能登に笑顔を 支えに感謝」石川県で被災した鵬学園高校サッカー部が奮闘中
選手たちはサッカーができる喜びを感じ、頑張る姿を伝えようとしている(写真提供・鵬学園)
 その理由について、主将の竹内はこう話す。

「さまざまな支援だけでなく、歩いている時にも『頑張って』と声を掛けてくださる方がたくさんいました。そうした人たちに自分たちの試合を見てもらって、頑張っている姿が伝われば、支援してくださった方を笑顔にできるかもしれない」

 被災から6日で学校を再開させた時と同じく、"部活を止めてはいけない"との想いを胸に、鵬学園高校サッカー部は活動を続けている。