セーブ制度導入50年~プロ野球ブルペン史
日米通算257セーブの平野佳寿の流儀(後編)

 特に抑えにこだわりはない──。今もそのスタンスを貫くオリックスの平野佳寿だが、積み上げたセーブ数は、昨シーズン終了時点で日米通算257に達している。

その十分な実績の始まりは、2013年。翌14年にはリーグ新記録(当時)の40セーブを挙げ、自身初の最多セーブ投手賞を獲得する。だがその年、チームは首位ソフトバンクに勝率2厘差で優勝を逃す悔しさを味わった。

 平野自身、タイトル獲得の陰で悔し過ぎる結果もあった。同年は6敗を喫したのだが、そのうち、優勝争いの最中の9月に11試合に登板して4敗。まして、6つの負けはすべてサヨナラ打を浴びたものだった。それだけの失敗から、いかにして切り替え、立ち直ってきたのか。今季、日本通算250セーブまであと1の平野に聞く。

【プロ野球】平野佳寿が吉井理人から学んだ虚勢を張る大事さ 「...の画像はこちら >>

【打たれた次の日の葛藤と不安】

「打たれて次の日は落ち込みますし、悔しいし、今日大丈夫かなって思います。マイナスの感情のほうが絶対に多いので、切り替えはできないです。結局、次の試合で結果出すしかない。だから、打たれた次の試合を大事にしていますね。そこで抑えたら、切り替えられるというか、打たれた試合のことは忘れられるので。

 別に1試合抑えただけで、全部忘れるわけではないですけどね。でも打たれて、次の日に大丈夫かなと思って抑えたら、『あっ、いけるな』と思って。ちょっと自信になって、『じゃあ次も頑張ろう』っていうふうになっていくんですね」

 これまで話を聞いてきた抑え投手たちのなかで、「忘れる」と表現したのは平野が初めてである。その「忘れる」と相反するかもしれないが、映像を見直すなどして失敗の原因を探ることはしているのだろうか。

「それはやっています。『この球をここで投げたからやな』とか、『クセ出てるかな』とか、いろいろ見たり、聞いたりしています。そこはもう、次の試合に向けてベストの状態に持っていきますけど、メンタルに関しては、別にベストも何もないわけですよ。気持ち的にグダグダのなかで投げていることのほうが多いですね、打たれたあとは」

 失敗の原因がわかったところで、おもに技術的な原因が判明し、その対策が見えるに過ぎない。次の機会に抑えて結果を出すまでは、メンタル面のマイナスをプラスに転換することはできないのだ。

【弱さを見せないことの大切さ】

 では、抑え失敗でチームの勝ちを消し、先発投手の勝ち星を消してしまうことに関してはどう受け止めてきたのか。

「受け止めるというか、一番にそれがあるから落ち込むわけで......。ほんまに申し訳なかったなあと思いますし、『ごめんね』って言って。でも、それはあくまでチーム内であって、絶対に外では発信しないようにはしています。

『誰が悪いねん、打たれる時もあるやろ』くらいの感じではいようと思っています」

 実際、見た目の印象では、平野といえば"強心臓"だ。自ら絶体絶命のピンチを招いても平然と締める様は『平野劇場』とも言われ、打たれて負けたところで、マウンド上で悔しがり、ベンチに帰る時に落ち込む姿はまず見られない。

「そうでもないんですよ。強心臓=メンタル強いっていうのは、メンタル強いから抑えられるんじゃなくて、僕からしたら抑えている人がメンタル強く見えるだけなんです。決して、自分でメンタル強いと思ってないです。ただラッキーなところは、僕がたぶんそういうふうに見られなかったっていうのがあるのかなと。僕の顔の特徴とかもあると思うんですよ(笑)」

 そう言って平野は相好を崩した。つられてこちらも吹き出してしまったが、すぐに真顔に戻って続けた。

「でも、弱さを見せないようにはします。淡々と投げて、悔しがっているとか、落ち込んでいるとかはわからないように。内心は『申し訳なかったな』っていう気持ちもありますけど、それぐらいの虚勢張らないとやっていけへんっていうのもあります。そういうことはすべて、ロッテの吉井監督が現役の時に教えてもらいました。

僕が1年目の時に」

 吉井理人は2002年オフにモントリオールエクスポズ(現・ワシントンナショナルズ)を退団し、03年にオリックスに加入して日本球界復帰。先発陣の一角を担っていた06年に平野が入団し、同僚となる。新人の平野にとって、19歳上の先輩投手から学ぶことは多かった。

「先発していた時ですけど、これはリリーフにも言えることで、一番はピッチャー交代のとき。時間かけて、上向いて、言い方悪いですけど、観客にらみつけるぐらいの感じで帰って来い。逃げるようにしてベンチに戻るのではなく、堂々と『なにが悪いんや』くらいの気持ちで帰って来いと言われました。

 全員が見ているから、帰る時は。チームメイトも見ている。しょげて帰ってきたら、『こんなんやったらあかんなぁ』って思われるぞと。一緒に戦えたのは2年弱ぐらいですけど、吉井さんに出会えたこと、教えてもらったことが僕のなかで一番大きいですね。今でもその時の教えをずっと守っています」

【優勝できた事実がうれしい】

 当時、吉井はプロ23年目の41歳。今年その年齢に達する平野も、2017年の時点で156セーブ、139ホールドの実績を引っ提げ、翌18年、海外FA権を行使してダイヤモンドバックスに移籍。

メジャー1年目で75試合に登板し、4勝3セーブ、32ホールドと結果を残した。

 日本とは違う楽しさと厳しさを感じる日々が続くなか、2019年も62試合に投げた一方で成績は下降。20年はコロナ禍の影響もあり、マリナーズでのプレーを経て、日本球界に戻ることも視野に入る。そうして21年2月にオリックスに復帰すると、再び抑えを務め、同年からのリーグ3連覇、22年の日本一に貢献した。

「アメリカで長くやろうと思っていましたけど、オリックスが声かけてくれて。そこから優勝、3回できたんで、戻ってよかったと思います。これで優勝せんかったら、『何しに帰って来た?』って思われたやろうし。プロ野球人生が終わる時も『あいつ何してたんや?』って言われると思うんで。チームに優勝をもたらすことに加われた、その事実が何よりもうれしかったですね」

 2年連続日本一はならなかったが、阪神との日本シリーズ第3戦の9回裏。1点差で甲子園のマウンドに上がった平野は、まさに『平野劇場』といった投球を見せる。先頭の代打・原口文仁に四球を与えるも、続く1番・近本光司は二塁ゴロ、2番・中野拓夢は三振。3番・森下翔太は四球で一打逆転のピンチを背負ったが、4番・大山悠輔はフォークで空振り三振に仕留めた。

「あの時は『最悪、満塁でもいいや』と思いながら、大山くんの状態とかを考えての配球が最後ハマりましたね。で、その前に若い子が打たれて、甲子園の雰囲気に『呑まれた』とか(新聞に)書いてあって、僕が抑えて『ベテランの味』って言ってもらったけど、『いや、たまたまやけどな』って(笑)。僕も甲子園にちょっと呑まれていたし、あれも表に出さないようにしていただけです」

 2024年、平野は3、4月に7セーブを挙げるも、右ヒジの張りで5月に戦線離脱。12試合の登板に終わった。それでも現役を続行し、今季は新監督の岸田護が率いるチームを支える。同期入団の指揮官の下、「岸田監督が求めるところで投げるだけ。6回からでも。言われたら抑えもしますし」と平野は言う。あらためて、なぜここまで投げてきて、これからも投げられるのか。

「打たれて、次の試合に投げるのが嫌になるところをちょっと頑張って、『行こう』って言うて、足出せたから、ここまで続けてこられたのかなって思いますね。どこかで、『あっ、もうアカンわ』『もうどうしよう』と思っていたら、そこで終わっていたかもしれない。でも、『まだもうちょっと頑張ろう』『もうちょっと行ける』って思いながらマウンドに上がっていたのかなと。

だからもうちょっと、行きます」

(文中敬称略)


平野佳寿(ひらの・よしひさ)/1984年3月8日、京都府生まれ。鳥羽高校から京都産業大を経て、2005年にドラフト希望枠でオリックスに入団。1年目から開幕ローテーション入りを果たし7勝をマーク。5年目に中継ぎに転向すると、11年に最優秀中継ぎ投手、14年に最多セーブのタイトルを獲得するなど、球界を代表するクローザーに君臨。17年には日本代表として第4回WBCに出場。同年オフ、海外FA権を行使しアリゾナ・ダイヤモンドバックスへ移籍。1年目は75試合に登板し、4勝3敗3セーブ、防御率2.44の成績をマーク。20年はシアトル・マリナーズ、21年から再びオリックスに戻りプレーし、チームのリーグ3連覇に貢献した

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