荒木貴裕インタビュー 後編
(前編:故郷で醤油も作る元ヤクルト荒木貴裕が振り返る、新人時代の宮本慎也の言葉「若いうちは、みんなが休んでいる時に練習しろ」>>)
ヤクルトのユーティリティプレーヤーとして活躍し、2023年に現役を退いた荒木貴裕氏。現在は野球ファン向けのイベントMCや、故郷・富山県の醤油店とのコラボレーションアイテムの制作など、さまざまなジャンルで活動している。
そんな荒木氏が、現役時代に活躍の場を広げるきっかけになった三木肇や真中満との出会いについて語った。
【出場機会が限られた苦境を支えた2人の指導者】
近畿大学を経て、2009年のドラフト3位で東京ヤクルトに入団した荒木は、ルーキーイヤーの2010年に開幕スタメンの座をつかんだ。その後は二軍で過ごす日々が多くなるが、2011年に真中満が二軍監督に就任すると、荒木は同年にフレッシュオールスターのMVPを獲得。2013年にはイースタン・リーグの首位打者を獲得した。
それでも、一軍出場の機会は限られていた。在籍4年目のシーズンを終えるも、期待通りの成績が残せない自身の境遇にイラ立ちが募り、不安も感じるようになっていった。心が折れそうになりながらも、誰よりも早くグラウンドに足を運び、全体練習の前に特守に励むことを怠らなかった。
そんな状況を支えたのは、2人の指導者だったという。
「三木(肇/現・東北楽天監督)さんの『ヤクルトで活躍できるのがベストだけど、ほかの球団でも野球はできる。どこかで絶対に見てくれている人はいると思って、腐らずにやりなさい』という言葉が大きかったですね」
2013年のオフ、ヤクルトの二軍内野守備走塁コーチに就任した三木は、ひたむきに練習を続ける荒木にそう声をかけ続けたという。自らも現役時代、代走や守備固めでの出場も多かった三木の前向きな言葉は、荒木の野球人生において心のよりどころになったという。
大学時代に走・攻・守の三拍子が揃ったショートとして注目を集めた荒木は、プロ入り後もショートでプレーを続けたものの、守備面での不安を指摘されていた。2013年はサードとファーストを任されることとなり、同年の6月に一軍に昇格したが、サードとして出場した交流戦では1試合で3失策をする試合も。
もがき苦しむ荒木氏にユーティリティプレーヤーとしての可能性を示したのは、当時の二軍監督の真中満だった。
「外野にも挑戦してみないか?」
その提案をふたつ返事で受け入れた荒木は、2014年の春季キャンプを外野手として迎えた。
「これまではチームが求めているポジションに僕はいらなかった。でも、僕がプレーの幅を広げれば、自ずとチャンスは増えてくる。真中さんの言葉は本当にありがたかったですし、野球を長く続けられたきっかけになったと思っています」
荒木は真中からの「ワクワクするような新しい挑戦」を受け入れたが、プロの野球選手といえど、人生で初めて守るポジションへのコンバートは簡単ではない。
「内野を守っていた頃には簡単そうに見えていた外野への打球も、実際にはボールが無回転だったり、風の影響を受けていたりして球の質が毎回違うなど、実際に守ってみなければわからないことがたくさんありました。"本職"の選手に及びませんが、ほかのポジションを任されている選手の気持ちが理解できるようになった気がしました」
外野手に転向した2014年は、ショートに故障者が続出したこともあり、ショートとしても起用されるなど55試合に出場した。
出場に備え、準備も怠らなかった。ひもが切れた時に備えて、ファーストミットと外野手用と内野手用のグローブをそれぞれ2個ずつ、合計6個を持参して試合に臨んだ。そして、レフトとして先発起用されることも多かった2015年には、73試合に出場。この年、一軍の監督に昇格した真中に率いられたチームは、リーグ優勝を成し遂げた。
【勝負強さの秘訣は「最悪の状況を考えること」】
現役時代の荒木は、多くのポジションを守れるユーティリティー性に加えて、勝負強い打撃でもチームを支えた。なかでも91試合に出場した2017年シーズンは、打率. 207まがら6本塁打、25打点を記録。得点圏打率は.455に及んだ。
荒木に勝負強さの秘訣を問うと、「それがわかっていたらいつでも結果が残せたでしょうし、もし伝授できるのなら、きっといい商売ができると思います(笑)。だから個人的な感覚ですが......」と前置きした上で、自分なりの集中力の高め方について言及した。
「チャンスで打席が回ってきたとしても、すぐに気持ちを切り替えて集中力を高められるわけではありません。僕の場合は、まずは目の前の状況を確認して、起こりうる最悪の状況と、それを避けるためにはどうすれば良いのかを考えながら打席に向かうようにしていました。頭の中を整理して『してはいけないこと』を考える習慣があったことが、結果として勝負強さにつながったのではないかと思います」
勝負強さが光った2017年のハイライトは、中日の大野雄大から放ったサヨナラ満塁本塁打(5月14日)だろう。かつて宮本慎也らと共に自主トレで汗を流した松山・坊っちゃんスタジアムで、人生初の快挙を成し遂げた。
「実は、この満塁本塁打以外は、そんなに大野投手から打てていないんですけどね(苦笑)。大野投手のツーシームは、打席に立つとフォークのように落ちるように見えるんです。なので『低めは絶対に振らない』と決め、高めに来たボールを振るように心がけていました」
大野が投じた速球を振り抜くと、打球は大きな放物線を描いて左翼スタンドに。ホームベースを踏んだ荒木の周囲には、歓喜の輪が生まれた。
この年、守備では内・外野3つのポジションを兼任。先発メンバーに名を連ねることもあれば、重要な局面で代打や代走として起用されることもあった。ベンチにいる時は「先の展開を読みながら、自分の出番に向けて準備していた」という。
難しい状況に対応するために役立ったのは、二軍でプレーしている時に「宮出隆自コーチ(現・二軍打撃コーチ)に教えられた」というノートをつける習慣だ。
「思うように結果が出なかった試合でも、相手投手の特徴やその時の配球などを書いていくとデータが蓄積されて、次の対戦に役立つことがあるかもしれない。ペンを走らせることで気持ちも落ち着きますし、ネガティブな感情をリセットして気持ちを切り替えることができていたのかなと思います」
2021年には、就任2年目の高津臣吾に率いられたチームが6年ぶりのリーグ優勝を達成。25年ぶりのパ・リーグ優勝に沸くオリックス・バファローズを4勝2敗で下し、チームは20年ぶりの日本一も成し遂げた。
荒木は守備固めを中心に、自己最多の100試合に出場。チームが延長戦の末に日本シリーズの制覇を決めたのも、荒木が守るファーストへのゴロだった。
「子供の頃から野球を続けてきて、ボールを取るという当たり前のことに緊張したのは、あの時が初めてでした。シーズンを通して守備固めを任される場面も多かったですが、どんなにうまい選手もミスのあるスポーツなのに、絶対にミスが許されない場面で守りにつく大変さや、背負う重圧の重さを感じずにはいられませんでした」
連覇を果たした翌年は出場機会が半減し、日本シリーズでは40名の出場選手には登録されたものの、26名のベンチメンバーに入ることはできなかった。チームも日本一を逃し、悔しさの残る1年を過ごした。
「自分がベンチに入れない複雑な思いを感じつつも、出場の準備は続けなければならない難しさを感じました」
そして荒木は2023年、腰痛が悪化した影響もあって引退を決断。14年の選手生活に幕を下ろした。
「さまざまな状況下でプレーしたことで、幅広い視野で野球を見ることができるようになりましたし、各ポジションを守る選手の気持ちも理解できた。残念ながらレギュラーは取れませんでしたが、自分にとって有意義な野球人生だったのではないかと思っています」
【引退後も多彩な活躍】
引退後の荒木氏は、かつてのチームメイトの支えもあり、野球教室やトークショーのMC、醤油やアパレルなどさまざまなアイテムのプロデュースなど、多彩な活躍を見せている。
その中でも、もともとあまり口数が多くなかった荒木氏が、「社会を生き抜くために伝える力の必要性を感じ、伝え方を学ぶきっかけになれば」と思って始めたイベントMCの仕事は、かつてのチームメイトで、実業家としても活躍する米野智人らの誘いが挑戦のきっかけ。米野がオーナーを務めるWacca Coffee Club(東京都豊島区)では、期間限定のコラボレーションメニューの「みたらしキャラメルラテ」も発売している。荒木が地元・富山県の老舗醤油店に出向いて手作りした醤油と、米野の実家で焙煎されたコーヒー豆を使った商品だ。
ユーティリティプレーヤーとして活躍した荒木は、選手時代さながらのマルチぶりを発揮し、充実したセカンドキャリアを歩んでいる。
「最近は『人生100年時代』と言われるようになっていますし、引退した後の過ごし方は本当に大切だと痛感しています。『学生のうちに、自分が豊かな人生を歩むにはどうすればいいのかを考えておけばよかったな』と後悔しているんです。
プロ野球の選手の皆さんも、現役の頃は試合での活躍に意識が向きがちですが、長い人生をどのように過ごしていくのか、じっくり考えてもらえたらなと思います」
今後も「故郷の富山県や野球の魅力を伝えていきたい」と話す荒木。さまざまな良縁を大切にしながら歩むセカンドキャリアの活躍をこれからも見守りたい。
【プロフィール】
荒木 貴裕(あらき・たかひろ)
1987年、富山県生まれ。帝京三高、近大を経て200910年にドラフト3位でヤクルト入り。1年目の開幕戦で球団の新人野手では40年ぶりの開幕スタメンを勝ち取った。その後も内外野を守れるユーティリティーさに加え、俊足巧打でチームに貢献。代打では勝負強さを発揮し、2017年5月の中日戦ではセ・リーグ史上初となる、同一チームによる同一シーズン2本目のサヨナラ満塁弾を放った。応援歌が「名曲」と呼ばれ、端正なマスクで多くのファンに愛された。2023年9月、同シーズン限りでの現役引退を発表。 引退後は、野球指導やイベント出演を中心に活動する傍ら、富山ふるさと大使として地元・富山の魅力発信にも積極的に取り組んでいる。