「希少がん」と闘う元大阪桐蔭・福森大翔の告白 全4回(第3回目)

 森友哉(現オリックス)を擁し、2013年に春夏甲子園に出場した大阪桐蔭の主力のひとりであり、現在は希少がんと闘う福森大翔に会い、病気のこと、高校時代のこと、そして現在の心境......包み隠さず語ってくれる姿に感心していると、こう切り出した。

「いつまで生きられるかわからないとなった時に、一回、自分の人生を振り返ったんです。

A4用紙に、これまであったことやその時の気持ちとかを書き記して。そこでけっこう整理されたんだと思います」

元大阪桐蔭・福森大翔は、医師に「そう遠くないうちに命が尽きる...の画像はこちら >>

【昨年12月に入籍】

 29歳の若さで人生を振り返る──想像するだけで胸が痛む。自分なら......と置き換えてみると、ひたすら愚痴をこぼし、不運を嘆き、現実から背を向け、心を閉ざしている姿が浮かぶ。

 しかし目の前の29歳の青年は、目の輝きを失わず、前を向き、今を懸命に生きている。思わず「強いなぁ」と漏らすと、「でも、ひとりになるとダメなんです」と福森のトーンが落ちた。

「急に涙が出て、次から次に溢れて止まらなくなったり......。突然そんなことがあるんです。だからできるだけ散歩に出たり、掃除をしたりして気を紛らわし、体調のいい時は極力、用事をつくるようにしています。

 あと、夜になると寝られなくなるのはしょっちゅうです。特に大きな検査が近くなると、再発や転移が起きているんじゃないかと考え出して、1週間くらい前から寝られなくなる。でもこれは、がん患者の人たちみんながそうだと思います。不安が消えることはないので」

 そんな毎日のなか、支えるとなるのはやはり家族の存在で、新婚まもない妻を語る言葉には、ひときわ力がこもった。

「歳は僕の1つ下ですけど、とにかく前向きで感謝しかありません。

入院している時は、毎日手紙を書いて励ましてくれました。妻がいなかったら、どこかで思いつめて、いま頃ここにいないんじゃないかって......。本当にそう思います」

 困難を乗り越え、一緒に生きていきたいと、2度目のがん手術を終え、定期検査の数値が安定していた昨年7月12日に福森からプロポーズ。この状況で結婚していいのか──もちろん葛藤はあったが、ふたりで気持ちを確認すると、互いの両親にも報告。そしてプロボーズの月日を逆にした12月7日に入籍することも決めた。

 ところが、9月の検査でリンパと肝臓へ複数の転移が発覚したのだ。

「転移が見つかった時は、とにかく申し訳ない気持ちで、妻にむちゃくちゃ謝りました。これ以上、再発も転移もなく進んで、がんを乗り越えようとふたりでやってきたのに、『ほんまゴメンな』って。

 でも、謝る僕に妻は怒ってきたんです。『私は何があってもあなたと一緒におるし、覚悟を決めたんやから、もっと前を向いて! 今回も乗り越えていくんやから、謝るなんておかしい』って。その言葉を聞いて、『なんて素敵な人と出会ったんだ』って、心の底から思いました」

 昨年10月、リンパ転移した腫瘍を取り除く3度目の手術のあと、いったん退院するも12月頭にMRSA感染症にかかって高熱が続き、再び入院した。それでも担当医に「12月7日だけは外へ出してください」と外出許可を取り、妻とふたりで婚姻届を提出しに役所へと向かった。

続けて記念写真を撮ると、すぐさま病院に戻り、クリスマス前まで入院生活が続いた。

【まだ死にたくない】

「こうして振り返ると、自分のことながら次から次に......。なんかドラマみたいじゃないですか?」

 そう言って、自虐的に小さく笑った。

 医療ドラマだったら、スーパードクターが現れて難題を即座に解決してくれるだろうが、現実はそうはいかない。

 それでも家族や仲間たちに力をもらいながら、この頃から自身の気持ちのなかに変化が現れてきたという。その時期に行なったセカンドオピニオンが大きなターニングポイントになったと、福森は語る。

 訪ねた先の医師からは「当院では症例のないケースなので......」と期待が広がることはなかったが、ほかの病院にGIST(消化管間質腫瘍)の研究に取り組んでいる医師がいると紹介を受けた。

 だからといって希望が見えてきたという話ではなく、むしろその逆だった。担当医となっていく医師からは「このままではそう遠くないうちに命が尽きる」と言われ、複数転移が確認された肝臓についてはこれ以上の手術は難しく、今後やれることは抗がん剤治療だけになると告げられた。それも寛解を目指すものではなく、延命のためのものだった。

元大阪桐蔭・福森大翔は、医師に「そう遠くないうちに命が尽きる」と告げられても、「やれることはすべてやる」と覚悟を決めた
3年夏の大阪大会決勝で先制のタイムリーを放った福森大翔さん 写真は本人提供
 淡い期待など入る余地がないほど厳しい言葉が続いたが、極めてシビアな見通しをはっきり告げられたことで、福森のなかに「もっと生きたい」「まだ死にたくない」という思いが、これまで以上に強く湧き上がってきた。

「やっぱりまだ29歳なんで。延命のための治療しかないと説明されても、素直に『はい、わかりました』とは......。

治らないと言われているがんでも、なんとか治して乗り越えたいという気持ちが強くなったんです。

 だからといって、あと何十年生きたいとか、80歳まで生きたいとか、そんな欲はないんです。ただ、まだ死にたくない、もう少し生きたい。だからやれることやろうと。そこだけははっきりしました」

 3度目の手術のあとには、がん細胞に起きている遺伝子の変化を調べ、がんの特徴を把握する「がん遺伝子パネル検査」も受けた。

 がんの特徴が詳しくわかれば、その人により適した治療や効果的な薬が見つかるかもしれない──そんな望みをこめて受けた検査だった。残念ながら、ここでも一筋の光が差すことはなかったが、やれることはすべてやると決断した。

【過酷な抗がん剤治療】

 今年1月からは、当初、エビデンスがないという理由でやってこなかった抗がん剤治療も開始。あくまで状況的には「延命のため」ということではあったが、本人のなかではそれ以上の効果を期待しての挑戦でもあった。

 抗がん剤治療は、基本的に「服用4週間・休薬2週間」の6週間を1セットとし、これを2クール行なったうえで、画像診断などを行ない、治療の効果を確認していくと説明を受けた。ただ、1種類目の抗がん剤は明らかに効果が見えなかったため、1クールで終了。

 2種類目は2クールを終えたところで、腫瘍の一部に進行は見られたものの、一方で効果も確認できたため、予定を伸ばし3クール目の投与で様子を見ることになった。

「今やっている抗がん剤は髪の毛が抜けるタイプじゃないらしく、見た目もあまり変わらないんです。だから普通にしゃべっていると、友だちからも『ほんまにがんか?』って冗談で言われたり。4月の終わりに、トモ(森友哉)たちと軽く食事をした時も、そんな感じでいじられました(笑)」

 努めて明るく振る舞っているが、抗がん剤による副作用は日々実感している。

「抗がん剤治療が始まると、体がだるく、熱っぽくもなってきて、手足がヒリヒリしたり、足の裏の皮が剥けたり、口内炎ができやすくなったり、鼻の下や口の端が切れたり......。ほんといろんなことが起きるんです。前にインスタにも載せたんですけど、朝起きたらいきなり鼻の中が切れて、血が出たこともありました。だから、休薬期間が終わる頃になると、また始まるのかと、憂鬱な気分になるんです」

 次に起こる副作用について話しながら、「ただ一番辛いのは......」と福森の表情が曇った。

「僕の場合、終わりがないというのが一番辛いところなんです。抗がん剤の効果が見込める人なら、効果が出てくれば徐々に量を減らしたり、期間を空けたりして、うまくいけば寛解を目指せます。

 でも僕は、仮に少し効いたとしても、あくまで進行の速度や程度を抑えるためのもので、劇的に何かの状況が変わらない限り、生きているうちは一生飲み続けないといけない。終わりが見えないというのが、副作用の多い抗がん剤治療をするうえで、一番気分が重たくなるところです」

 それでも、やれることをやるしかない──立ち止まることのできない戦いが、日々続いている。

つづく>>

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