Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第8回】ベッチーニョ
(ベルマーレ平塚、川崎フロンターレ)
Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。
第8回は湘南ベルマーレが「ベルマーレ平塚」だった当時、攻撃の絶対的存在として君臨したベッチーニョだ。Jリーグ昇格を後押ししたセレソン経験者は「湘南の暴れん坊」と呼ばれ、日本人選手のロールモデルとなったのである。
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うまかったなあ、という思いが湧き上がる。ベッチーニョことジウベルト・カルロス・ナシメントのプレーを見るたびに、記者席で呟(つぶや)いていた気がする。
当時の僕がいつも思っていたのは、「これぞブラジル人選手。これぞブラジルの10番」というものだ。
ボールコントロールに優れていて、ドリブルで持ち運ぶことができて、パスも出せて、ゴールを決めきることもできる。ベルマーレ平塚に在籍しているブラジル人選手や日本人選手はもちろん、他チームのブラジル人選手も、「ベッチーニョは最高の10番だよ」と話したものだった。
それも当然だったかもしれない。ブラジルではクルゼイロやパルメイラスといったビッグクラブに在籍し、カルロス・アルベルト・シルバとパオロ・ロベルト・ファルカンが指揮するセレソンにピックアップされていた。
彼の経歴を辿るほどに、日本へやってくる理由が見えなかった。
「1993年にフジタでプレーしていたミランジーニャが、ヘッドコーチのニカノールに僕を推薦して、ニカノールから連絡を受けたんです。今は2部だけど、1部に上がるチャンスがあるチームなんだと言われました。僕自身はパルメイラスとかクルゼイロでプレーしてきて、ブラジル代表に選ばれたこともあった。正直に明かせば、最初は前向きでなかったのは事実です」
【なぜセレソンがJFLへ】
日本についての知識も、日本サッカーの情報もない。日本語もまるっきり理解できない。小さな子どももいた。さらに言えば、誕生したばかりのJリーグではなく、Jリーグ入りを目指すクラブからの誘いである。24時間以上かかるフライトに乗る理由は、率直に言って見つからなかった。
ところが、ベッチーニョは日本へ向かうのだ。Jリーグ入りを目指すベルマーレ平塚でプレーするために、1993年に来日するのである。
「妻とも話すことがあるのですが、なぜ日本へ行くことを決めたのか、自分でもうまく説明ができないんです」と笑う。
「最初の契約は1993年のシーズンだけだったのです。
ベットの愛称で呼ばれるようになった彼は、Jリーグ昇格1年目のチームを力強く牽引していく。リーグ戦37試合に出場して24ゴールを叩き出し、チームをセカンドステージ2位へと押し上げる。シーズン後のJリーグアウォーズでは、ラモス瑠偉やビスマルク(いずれもヴェルディ川崎)とともにベストイレブンに選出された。
妻と子どもたちと一緒に来日したが、1994年の開幕当初は単身赴任だった。妻がふたり目の出産を控えてブラジルに帰国していたからで、3月に生まれた息子にもしばらくは会えなかった。
練習や試合後の囲み取材で、ベットは「家族がここにいないのはすごく寂しい。妻とは毎日、国際電話で話しているんだ」と、切ない胸の内を明かした。
もちろん、センチメンタルなのはオフ・ザ・ピッチだけだ。チームの成長につながる地道な積み重ねを、ベットは実行していった。
【サポーターから絶大な支持】
「ベルマーレは若い選手の多いチームで、来日した当初は勝負への執着心とか練習に取り組む姿勢に改善の余地があると感じていた。Jリーグ入りを目指していたけれど、まだプロではなかったから、それは仕方がなかったのかもしれない。
僕にできることは、プロフェッショナルとしての姿勢を見せること。チームの練習が終わったあとに(個人で)シュート練習をやったり、試合に負けたあとのロッカールームやバスでは、悔しさを隠さずに表現していきました」
チームが、変わっていく。「プロフェッショナルとは何か」が、日本人選手の間に浸透していった。
「そうやっていくうちに、練習後に一緒にシュート練習をする選手が出てきて、試合後のロッカーで悔し泣きをする選手も出てきました。1994年のJリーグが終わったあと、天皇杯で優勝したのは、チームが変わってきたことの表われだったと思いますね」
1995年はリーグ戦52試合のうち50試合に出場し、25ゴールを叩き出した。日本人ストライカーの野口幸司も23得点を記録している。自ら取って、チームメイトに取らせて、ベルマーレの攻撃を支えた。
ベットがプレーしたベルマーレは、日本代表選手を多く輩出した。
GK小島伸幸、CB名塚善寛、右SB名良橋晃、左SBと左MFを兼務した岩本輝雄、ボランチの田坂和昭、トップ下の中田英寿、FWの野口......。
1994年と1995年は2トップの一角で、1996年は主にトップ下で攻撃を支えたベットがいたことで、ベルマーレの日本人選手は伸び伸びと、それでいてプロフェッショナルとしてのメンタリティを磨いていくことができた。ヘッドコーチのニカノールが「湘南の暴れん坊」の気質を叩き込み、ベットがピッチ上でどう振る舞うべきかを落とし込んでいったのだろう。
ふだんの彼は心優しいブラジル人で、ピッチ上では妥協を許さないフットボーラーだった。チームメイトからも、サポーターからも熱い支持を集めた。
【10番を背負う選手の責任】
ベットは1996年シーズンを最後にベルマーレに別れを告げ、1997年はJリーグ入りを目指す川崎フロンターレで背番号10を背負った。チームは勝ち点1差でJ1昇格を逃したものの、彼自身は得点ランキング3位タイの19ゴールを記録して貫禄を示した。
10番へのこだわりを話したことがある。タイトルのかかった大一番ではなく、シーズン中のある試合後に明かしただけに、その思いが彼の心に深く根づいていることがうかがえた。
「ブラジルで10番を背負う選手は、そのチームのなかで一番技術に優れていて、インテリジェンスがあると思っている。そのぶんだけ、勝敗に対する責任は大きい。チームが負ければ批判されるのは自分だ、といつも思っている。10番を着けている自分を見た人が、『ああ、そうだよな』と納得してくれるようなプレーを見せたいんです」
ベットがプレーしていた1990年代と現在では、サッカーは大きく変わっている。選手に求められるタスクも、チーム戦術も、ルールも。
それでも、2025年のJリーグで、彼を見ることができたらな、と思う。