語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第30回】森重隆
(福岡高→明治大→新日鐵釜石)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。

だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載30回目は、小さい体格ながら、高校、大学、社会人、そして日本代表でもトップレベルのプレーでファンを惹きつけ、引退後は母校の指導者、そして日本ラグビー協会の会長も務めた「ひげ森」こと森重隆を紹介したい。キレのあるラン、低いタックルを武器に一時代を築いたCTBだった。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

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ラグビー協会の元会長は168cmの名CTB 森重隆「打倒ワセ...の画像はこちら >>
 端正な顔に、屈託のない笑顔。そしてトレードマークの口ひげ。

「ひげ森」の愛称でファンから親しまれたラガーマンを覚えている人も多いだろう。

 森重隆は1970年代から1980年代にかけて、日本のラグビーシーンを引っ張った選手のひとりだ。身長168cm・体重66kgの小さな体躯ながら、日本代表キャップは27個を積み重ね、桜のジャージーを着て8試合もキャプテンを務めた。

 ポジションはCTB。新日鐵釜石の「13番」のジャージーを背負ってグラウンドを駆け抜ける姿が印象強く、地を這うようなタックルで相手を止め続けた。

「ラグビーは基本的に『痛い』スポーツ。痛い顔をせず、我慢して、大きな相手にタックルする。

自分がいかないと、ほかのメンバーに迷惑をかける。自己犠牲がラグビーの魅力のひとつで、それをできる選手が評価されて、見ている人の心も打つ」

 森はラガーマンとしてあるべき姿を、まさに体現した選手だった。

【北島監督「まっすぐ走れ!」】

 1951年、森は福岡県福岡市に生まれた。1964年の東京五輪で「東洋の魔女」が金メダルを獲得した影響で、中学時代はバレーボールをしていたという。

 福岡高校に進学すると、「中学時代のバレーボール部の先輩の多くがラグビー部に入っていた」ため、自身も楕円球の門を叩いた。背が小さかったこともあり、最初のポジションはSHだったが、2年時からCTBに転向。高校2年・3年は「花園」全国高校ラグビー大会に出場した。

 高校卒業後は「プレースタイルが合っていると思っていた」早稲田大への進学を考えていた。しかし、父親が明治大出身だったこと、そして北島忠治監督が自宅を直接訪ねて勧誘されたこともあり、紫紺のジャージーを着ることにした。

 森は大学1年時から試合に出場し、2年時には「早明戦」の舞台にも立った。スピードとステップを武器に活躍したが、北島監督からは「糸の切れた凧」と評され、「まっすぐ走れ!」とよく怒られていたという。

 大学3年時は腰痛で試合から離れ、大学4年時は主軸となって「早明戦」に臨むも、対抗戦、大学選手権ともに敗れて卒業することになった。「打倒ワセダ」を叶えることはできなかったが、
「もっとラグビーをやりたい!」と思いはさらに強まり、新日鐵釜石への就職を決めた。

 そして入社してから3年目、ついに夢が叶う。新日鐵釜石は日本選手権の決勝まで駒を進め、対する相手は早稲田大。司令塔のSO松尾雄治とともに攻撃陣を引っ張り、27-12で早稲田大を倒して初の日本一となった。

 日本代表で初キャップを獲得したのは1974年。ニュージーランド遠征でスピードを生かしたラン、大きな相手にも負けない低いタックルを見せ、小柄ながら存在感をアピールした。

 その活躍が認められ、その後8年間で積み重ねたキャップ数は27。1975年のケンブリッジ大戦では40メートルの独走トライを決め、1979年のイングランド戦ではキャプテンを務めるなど、桜のジャージーに欠かせぬBK(バックス)のひとりとなった。

【監督として福岡堅樹を育てた】

 所属する新日鐵釜石では、1978年度からの金字塔「V7」に貢献。監督兼選手として4連覇を果たしたのち、30歳の若さでブーツを脱いだ。身長168cmの小柄な体格で戦い続けてきた限界もあったが、創業100年以上続く実家の森硝子店を継ぐためでもあった。

 ただ、ラグビーから完全に離れたわけではない。家業を支えながら、母校・福岡高のコーチを引き受けた。

40歳から監督に就任し、22年もの長きにわたって務めた。

 森監督がチーム強化で大事にしたのはディフェンス面。練習の7~8割をディフェンス強化にあて、特にタックルには時間を割いたという。県内に東福岡という絶対王者がいたため、監督として唯一の花園出場は記念大会で2校出場できた2010年度の90回大会のみだ。その時のチームを率いたエースは、のちに日本代表として活躍するWTB福岡堅樹だった。

 2015年からは九州協会会長、そして日本協会副会長に就任。そして2019年のラグビーワールドカップ前には日本協会の会長職に就き、アジア初のワールドカップを成功に導いた。

「日本代表が国民の共感を呼んだのは、ひとりがタックルに行くと、もうひとりがタックルで相手を倒す──そういった連係を見て、ラグビーを知らない人にも気迫が伝わったから」

 ラグビーを愛する愚直な姿勢は、会長になってもまったく変わらなかった。

 グラウンドに出れば、闘志を前面に出して誰よりも体を張る熱血漢。グラウンド外では、明るい性格で周囲を和ますムードメーカー。森は誰からも愛されたラガーマンだった。

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