今年6月に逝去した長嶋茂雄氏。お別れの会が開催された先月11月21日に、『週プレNEWS』にて昨年8月より配信した連載「長嶋茂雄は何がすごかったのか?」をまとめた書籍『長嶋茂雄が見たかった。

』が刊行された。

生で長嶋氏のプレーを見ることがかなわなかった、立教大学野球部出身の著者・元永知宏氏が、長嶋氏とプレーした15人の往年の名選手たちに「長嶋茂雄は何がすごかったのか」を取材してまとめたのがこちらの一冊。本著より長嶋氏の印象的なエピソードを時代に沿って抜粋し、5日間にわたって掲載する第3回。

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【やっぱり巨人の野球は違うな】

 高校や大学、社会人選手を対象にしたドラフト会議プロ野球で導入されたのは12球団の戦力均衡を図るためだった。自由競争であれば、資金力があり国民的にも人気のある特定球団=読売ジャイアンツに有望選手が偏ってしまう。

 1965年、ドラフト会議はアメリカ大リーグにならう形で始まり、何度も問題にぶつかりながら日本流の変化を遂げてきた。各球団の思惑に翻弄されるアマチュア選手も出たし、裏金問題で球界が揺れたこともあったが、ドラフト会議が行なわれるようになって戦力均衡という部分で効果があったことは間違いない。

 もし、巨人入団を切望した田淵幸一(法政大学)や星野仙一(明治大学)の思いがかなっていたら、球界の勢力図は変わっていたはずだ。彼らはドラフト会議で他球団から指名を受けたことで、打倒巨人に燃えることになる。

 立教大学時代に長嶋茂雄が塗り替えた東京六大学の通算本塁打記録に挑んだのが、法政大学の大型捕手・田淵幸一だった。田淵が11歳違いの長嶋のことを意識したのは大学入学後だと言う。

「それまでの東京六大学の通算本塁打記録は長嶋さんの8本だった。それを抜くことを目標に大学生活をスタートしたんだよね。

結局、22本を打つことができたんだけど、はじめはとてつもない数字だと思った。昔の神宮球場は広かったから」

 田淵の法政大学の同期には強打者の山本浩二、富田勝がいた。エースは1学年下で、東京六大学で不滅の通算48勝を挙げる山中正竹。

 田淵、山本、富田の3人、"法政三羽ガラス"は1968(昭和43)年ドラフト会議で注目を集めた。同年、明治大学で通算23勝を挙げた星野は1位指名を受けた中日ドラゴンズに入団することになる。

 田淵はこう振り返る。

「俺の希望球団は、もちろん巨人だよ。だけど、当時のドラフトのやり方は今と違っていて、入札制ではなかった。巨人よりも先に阪神から指名されたんだよね。東京育ちの俺にとって関西は遠い場所で、阪神で顔と名前が一致するのはエースの村山実さんと江夏豊くらいだった」

 ドラフト会議前に巨人の川上哲治監督から「背番号2を用意して待っているぞ」と言われたこともあって、田淵は大きなショックを受けた。

「大学4年の時には『田淵は巨人』という噂になっていて、長嶋さん、王さんと一緒に野球ができるんだと勝手に思っていたのに、その夢が壊れたわけだから。東京を離れて関西に行くこと、巨人に入れなかったこと、両方がショックだったね」

 田淵は阪神入団後すぐにレギュラー捕手になり、長嶋と王貞治が並ぶ巨人と戦うことになった。

「俺が阪神に入ったのは、V9の真っただ中、巨人の5連覇目の時だね。対戦してみて、やっぱり巨人の野球は違うなと思った。一、二番に足の速い選手を置いてチャンスをつくって、ノーヒットでも1点を取る野球をしていた。長嶋さんも王さんも脂が乗りきっていたし、いい先発投手を揃えていたね」

 優勝を争うライバルではあるが、田淵は長嶋への憧れを払しょくすることができなかった。

「打席に入る長嶋さんを『これが長嶋さんか......』とマスク越しに思いながら見ていた。長嶋さんは空振りしても凡打しても、いつも全力だった。失敗することをなんとも思っていないように見えた。打撃も守備もそう。だから、大差で巨人が負けている試合でもお客さんは帰らなかったよね」

マスク越しに長嶋茂雄を見て学んだ呼吸法】

【長嶋茂雄が見たかった。】田淵幸一と藤田平の証言 巨人vs阪神、"伝統の一戦"での長嶋茂雄
田淵幸一さん。「長嶋さんは動く教科書だったから、いろいろなものを盗んだよ」

 田淵はプロ1年目の1969(昭和44)年に22本塁打を放っている。プロ6年目の1974(昭和49)年は45本塁打。翌年には43本塁打を放って、王の14年連続の本塁打王獲得を阻止した。

 捕手として対峙することで、長嶋から学んだことがあると田淵は言う。

「王さんもそうだけど、長嶋さんは動く教科書だったから、いろいろなものを盗んだよ。

打席に立った長嶋さんは息遣いがものすごく荒い。タイムがかかった時に『長嶋さん、どうしてそんなに息づかいが荒いんですか』と聞いたことがある。そうしたら、『田淵くん、ピッチャーが投げはじめた時に息を吸って、打つ瞬間に吐くんだよ』と言う」

 チャンスになればなるほど、どうしても打者は力む。大事な試合、重要な場面で脱力するは至難の業だ。

「力が入っていたらダメなんだよ。長嶋さんは力を抜くコツを知っていて、ボールがバットに当たる瞬間に100%の力が出せる。そんなバッターは長嶋さんだけかもしれない。

 自分なりに、長嶋さんの呼吸法を真似したよね。俺は全然、腕力がない。左足を挙げた瞬間に力を抜いて、インパクトの瞬間に力を入れる。100%の力を出せるように心がけていたんだよ」

 田淵が入団した後、1970年代前半には巨人と阪神が激しい優勝争いを繰り広げた。いつも張り詰めた空気の中で行なわれる"伝統の一戦"で特別な強さを発揮したのが田淵だった。

「ほかのチームとの試合よりもお客さんが多い。テレビ中継があって、全国の人が見てくれる。打てば(年俸に反映されて)お金もたくさん入ってくる。それに加えて、『長嶋さん、王さんに、俺のホームランを見せてやろう』という自己顕示欲もあった。

 俺がホームランを打ってサードベースを回る時、『田淵くん、よく打ったね』と長嶋さんが言ってくれるしね。『そうやって、敵なのに褒めてくれるんだ!』と思って、それまで以上に長嶋さんのことが好きになった」

 田淵が特大の本塁打を放っても、ホームラン王を争う王は顔色ひとつ変えなかった。

「後楽園球場のジャンボスタンドに打ち込んだ時でも、王さんは無言だったけど、長嶋さんは『ナイスバッティング!』。長嶋さんにとって、どこのチームの選手も敵じゃない。お友達なんだよね、きっと。長嶋さんに褒められたことはその後の励みになった」

あの長嶋さんのいる巨人と戦うのか...】

【長嶋茂雄が見たかった。】田淵幸一と藤田平の証言 巨人vs阪神、"伝統の一戦"での長嶋茂雄
阪神の名ショート、藤田平さん。「長嶋さんは、生きているような打球を放つバッターだった」
 

 1965(昭和40)年に行なわれた第1回ドラフト会議で2位指名を受けて阪神タイガースに入団したのが藤田平だ。プロ2年目の1967(昭和42)年にショートのレギュラーになった彼は、プロの打球の速さに衝撃を受けた。

「右バッターでは、長嶋さんと江藤慎一さん(中日ドラゴンズ)の打球が特に速かった。

土を噛むというのか、すごい勢いで打球が飛んできて、ボールを捕球した瞬間にぐっと押される感じがした。打ち損ねたはずなのに、生きているような打球を放つバッターだったね」

"伝統の一戦"には特別な緊張感があったと藤田も言う。

「巨人はとにかく強かった。いい選手が揃っていたし、日本球界を引っ張る特別なチームだった。僕らからすれば、『あの長嶋さんのいる巨人と戦わんといかんのか......』という感じやったよね。巨人戦は、ほかのカードと観客の数が違う。当時、甲子園球場は阪神ファンと巨人ファンが半分ずつ、完全にふたつに分かれとった」

 巨人戦では、伝説的なシーンもたくさんある。たとえば、1968(昭和43)年9月18日、甲子園球場での試合。阪神のバッキーが王に投げた危険球によって、両軍が大乱闘。その後、リリーフに立った権藤正利から王が頭部に死球を受けて担架に乗せられて退場することになった。

「両チームの選手たちがもみ合っているのに、次のバッターの長嶋さんは黙って打席付近に立っていた。まったく我関せずというか、動じない。

ざわついているなかで打席に立ってホームラン。

 あの時の長嶋さんはきっと、乱闘に加わるよりもバットで決着をつけようと静かに燃えていたんやろうね。チームメイトやファンの期待にホームランで応えたというのが本当にすごかった」

 両チームの騒ぎに決着をつける一発だった。

「最後にはすべてを長嶋さんが持っていったよね。あれがホームランじゃなくてヒットだったら、騒動はしばらく尾を引いたかもしれん。でも、長嶋さんのホームランによって、『騒動はこれで終わり』と言われたような感じがしたね」

第2回を読む>>>V9巨人の同僚が語る長嶋茂雄 そのすごさは「期待に応えること」

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