大阪桐蔭・久米健夫インタビュー(前編)

 12月20日(土)、大阪市住之江区にあるGOSANDO南港中央球場で、野球イベント『夢道場 ドリームフェスタ2025』が開催される(13時~16時、観覧無料)。

 企画段階では「大阪桐蔭ドリームフェスティバル」という名称案も挙がっていたように、藤浪晋太郎(DeNA)、森友哉(オリックス)をはじめ、根尾昂(中日)、藤原恭大(ロッテ)、香月一也(オリックス)といった大阪桐蔭出身のNPB現役選手が参加。

抽選で選ばれた小学5・6年生の野球少年少女150人と、野球を通じて交流する。

 運営には大阪桐蔭野球部OBも多数関わっており、今回のイベントを主催する(株)夢道場代表の久米健夫もそのひとりである。

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【大阪桐蔭には来ないんじゃないか】

 久米は高校時代、森と同級生の捕手で、大阪桐蔭が春夏連覇を達成した2012年と翌13年の2年間を含め、4季連続で甲子園に出場。3年時には副主将として主将の森を支え、"裏キャプテン"とも称される存在感でチームをけん引した。現在は、森の専属トレーナーも務めている。

 これが縁と言うのだろう。ふたりの出会いは、小学生時代にまで遡る。

「少年野球のチームで試合をするようになって、知り合いました。あの頃から森は、打つだけでなく、ピッチャーとしてもキャッチャーとしても、さらには走塁を含めて、すべてのレベルが違っていました」

 中学では、共にボーイズリーグのチームへ進み、ここでも対戦を重ねた。なかでも忘れられないのが、3年時の練習試合である。

「森に1試合3本のホームランを打たれたんです。中学生であれは衝撃でした」

 同じ捕手という立場もあり、高校進学を考えるようになると、ふと森の進学先を思い浮かべることがあった。ただ、当時の久米は天理(奈良)への憧れが強かった。

しかし、そこから声がかかることはなかった。ほかにもいくつかの高校から誘いはあったものの、決断できずにいた。そんな折、大阪桐蔭監督の西谷浩一がチームの練習に視察に訪れた。

「チームの監督が西谷監督と付き合いがあったらしく、見に来てくれたんです」

 そこから話は一気に進み、大阪桐蔭への進学が決まった。久米が覚えている西谷とのやり取りは2つ。「三度の飯より野球が好きか」と問われ、「はい」と答えたこと。そして、森にも声をかけているが、返事はまだ保留だと伝えられたことだった。

「森と聞いて、『一緒になったらやばいな』とは思いました。ただ、小、中学校で何度も試合はしていたものの、話したことはなかったんです。雰囲気的に少しヤンチャな感じもあったので、練習も寮生活も厳しい大阪桐蔭には来ないんじゃないか。もっと言えば、高校野球自体をやらないんじゃないか、そんなふうに思っていました」

【腐ってる暇なんてなかった】

 ところが、その読みは見事に外れた。春になり、大阪桐蔭のグラウンドで対面した森は、まさに「三度の飯より野球好き」の野球小僧だった。そこからの2年半、久米は誰よりも練習を積んだ自負はあったが、森の壁はあまりにも高く、正捕手の座をつかむことはできなかった。

 それでも最後まで、自分が試合に出るつもりで準備と努力を怠らず、試合ではチームのために率先して動いた。気持ちが折れたり、腐ったりすることはなかったのだろうか。

「腐ってる暇なんてなかったですね。『腐ってる暇があるんやったら練習しろ!』って、いつも自分に言い聞かせていました」

 大阪桐蔭野球部の空気を感じる言葉だが、それにしてもなぜそう思えたのか。

「やるなら日本一。西谷監督が明確に目標を掲げ、選手たちが目指す方向を常に示してくれていました。全員が同じ方向を向いて戦う。そこは本当に徹底されていました」

 もし森と同じチームになっていなければ......と考えることはなかったのだろうか。

「それはなかったですけど、大阪桐蔭での3年間は僕の人生のなかで一番苦い思い出が残っている時期。でも、あの悔しさがあったから今がある。高校で思うように試合に出られなかったから、大学では『1年から試合に出る』と必死で準備して行きました。高校でほかのチームに行って早くから試合に出ていたとしたら、あれほどの熱量にはなっていなかったと思います」

大阪桐蔭の「裏キャプテン」として森友哉を支えた久米健夫が再会を果たし、専属トレーナーになるまで
大阪桐蔭のチームメイトと 写真は本人提供
 その言葉どおり、関西大では1年春から正捕手となり、明治神宮野球大会に3回出場。
4年時には主将も務め、卒業後は社会人野球の東京ガスでプレー。ここで、その後の道を決める大きな出会いがあった。そしてその出会いをきっかけに、森との距離も再び縮まっていくことになる。

【一緒に大阪へ来てくれへんか】

 社会人3年目、トレーナーとしてチームに加入してきた中田史弥との出会いだった。現在は鈴木誠也カブス)のパーソナルトレーナーとしても活動する中田は、父・佳和が設立し、姿勢やバランスに着目したコンディショニング指導で知られる株式会社「Bright Body」(京都府宇治市)の教えをベースに持つ人物である。

 その中田が、久米にこう声をかけた。

「効率、悪くない? 違うやり方も試してみたら?」

 当時の久米はバッティングのレベルアップを課題に、誰よりもバットを振っていた。しかし結果は出ず、内容も変わらない。そんな状況にあった。中田はさらに、「自分の体を扱えるようになれば、バットもボールも扱えるようになるよ」とアドバイスした。

 藁(わら)にもすがる思いだった久米は、それ以降、打席で構えた際の立ち姿勢や、片足で立ったときのバランスを強く意識。整えるための動きも取り入れながら調整を重ねていった。

すると、驚くほどバッティングの感覚や中身が変わっていったという。

「まったく自分にはなかった発想で、本当に驚きました。それまでの僕はバランスの悪さに気づかないまま、ただひたすらバットを振っていました。でも、振る以前の問題を解決したことで、それまで取り組んできたことがかみ合い、バッティングが変わったんです。21年で現役は引退しましたが、中田さんと出会って、『このアプローチは面白い!』と一気に興味が湧きました」

 引退後は社業に1年携わりながら、合間を縫って中田からアドバイスを受け、トレーニングについて学んだ。次第に進むべき道がぼんやりと見え始めた頃、再び盟友・森との接点が生まれることになる。

 結果的に西武での最終年となった2022年。春先、森が右手人差し指を骨折し、戦線を離脱した。高校卒業後も交流が続いていたふたりは、この時期も近況や将来について、よく話をしていたという。するとオフ、森がFAでオリックスへの移籍を決断。ここで森から久米に声がかかった。

「来年から一緒に大阪へ来てくれへんか」

 専属トレーナーとしての誘いだった。

とはいえ、久米は大手企業に在職中で、トレーナー業もまだ勉強中の身。プロ野球のトッププレーヤーの体を、責任を持って預かれるのか、不安はあった。それでも、新しい世界への挑戦に心は躍った。挑戦したい。そして、森の力になりたい。すぐに心は決まった。

(文中敬称略)

つづく>>

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