野球の未来を見ていた男~近藤貞雄伝
証言者 屋鋪要(前編)
近藤貞雄がこの世を去ってから20年。2026年1月、その采配を象徴するひとつの言葉が、時を超えてよみがえった。
著者は屋鋪要。横浜大洋ホエールズ(現・DeNA)時代に近藤の指導を受け、「スーパーカートリオ」の一員として名を馳せた俊足の3番打者である。
1番・高木豊、2番・加藤博一、3番・屋鋪要。この俊足3人組が塁に出れば、ベンチから「盗塁禁止」の指示が出ない限り、走るかどうかは選手自身の判断に委ねられた。盗塁は自己判断、自己責任。いかに思いきってスタートを切れるかが問われたのである。屋鋪は著書のなかで、こう綴っている。
<人生においても「ノーサイン」の場面は実に多く、自ら動かなければ何も変わらないし、何も得られないことはたくさんあるだろう。そんな「ノーサインで走る」ことを続けてきた僕の人生について知っていただくことが、同年輩の方々が"第二の人生"を歩むうえで大きな励みになってくれたら幸いだ>
現役晩年は巨人でプレーし、1995年限りで現役を引退してから30年あまり。近藤の教えが屋鋪のなかで息づき、自身の人生を表す言葉に昇華していた。それほどまでに屋鋪に影響を与えた監督の実像とは──。
【苦悩の末につかんだレギュラーの座】
「近藤さんは中日のコーチ時代から、野球を変えた方。ピッチャーの分業制を進めましたよね。分業制は今となっては当たり前だけれども、当時は非常に勇気が必要だったと思うんです。でも、それでも進めたおかげで、何人ものピッチャーの選手寿命が延びただろうし。あの頃、中日の抑えが鈴木孝政さんでしたね」
鈴木が3年連続でリーグの救援タイトルを獲得した1977年。兵庫・三田学園高で4番を打ち、外野手兼投手だった屋鋪は、同年のドラフトで大洋から6位で指名され入団。俊足を買われ、1年目から代走として一軍の舞台を経験すると、2年目の1979年にはスイッチヒッターに転向する。関根潤三が監督に就任した1982年に出場機会を増やし、翌1983年には初めて規定打席に到達。打率.287、16盗塁を記録した。
ただ、スイッチヒッターへの転向は、決して順調なものではなかった。
「スイッチになった時、苦労しましてね。コーチに『上から叩け』って言われて、なかなか当たらない。
俊足を生かすための「上から叩いてゴロを転がせ」という指導は、屋鋪の持ち味を十分に引き出すものではなかった。見かねた巧打者の基が「横にさばかないと」と言ったのは、ボールが来た方向にそのまま打ち返せ、という意味。先輩の助言もあって打力が向上した屋鋪は、センターのレギュラーに定着する。1984年には初めて打率3割を突破。8番を打つことが多かった打順も、8月末には1番に上がった。
ただ、チームは投打とも振るわず、前年3位から最下位に転落。関根に代わって監督に就任したのが近藤だった。チームが低迷するなかでも、遠藤一彦が2年連続で最多勝に輝き、高木豊が自身初の盗塁王になり、屋鋪が初のダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)を獲得するなど、明るい材料はあった。
【近藤貞雄が植えつけた挑戦する勇気】
1984年10月15日の監督就任会見で、近藤はこんな構想を明かしている。
「高木豊、屋鋪の球界トップを誇る1、2番。
当初は高木と屋鋪を1、2番に据え、その機動力を最大限に生かす考えだったようだ。
「1、2番だったんですか。初めて知りました。『ふたりで100個ぐらい』というのは、キャンプで加藤さんが『50個失敗していいから100個走れ』と言われた、という話に通じますね。僕は直に言われてないんですけど、『とにかく盗塁はしなさい。失敗してもいい』と言われました。この近藤さんの言葉で、すごく気持ちが楽になりましたね。僕が巨人のコーチだった時と真逆ですよ」
引退後の屋鋪が巨人で走塁コーチを務めていた時、選手が盗塁に失敗すると、守備担当をはじめとする先輩コーチたちが叱責していた。そんな場面に居合わせるたび、嫌な気持ちになっていたという。「あなただって現役の時に打席で失敗していただろう......」と言いたくなったのは、近藤の言葉が頭に焼き付いていたからだ。当然、屋鋪自身は「失敗してもいい」と選手に伝えていた。
【屋鋪要の3番抜擢に隠された真意】
そして近藤は、もうひとつ大胆な決断を下す。それまで下位打線を打つことが多かった屋鋪を、いきなり3番に据えたのである。
「それで近藤さん、僕をいきなり3番に抜擢したわけです。これもね、近藤さんの勇気ですよ。僕なんか、前の年までだいたい下位を打っていた、絶対クリーンアップは打てないバッターなのに、いきなり。何の説明もなく。オーダーを見たら3番だったんです。でも、僕がもし2番だったら、あのスーパーカートリオは生まれていなかったかもわからない」
屋鋪は自分が特別器用ではないとわかっていた。バントは得意ではなく、1番が走る時に打席で難なく待てるわけでもない。つなぎ役の2番タイプではなかった。近藤もキャンプ中にその特性を見抜いたのだろう。「高木、屋鋪の1、2番」から、いったんは1番・屋鋪、2番・加藤、3番・高木と考え、その後、3番・屋鋪に決めた。近藤自身、自著で決断までの経緯をこう述べている。
<屋鋪のプロ野球界ナンバーワンの俊足は、同じく足のある高木豊、加藤博一と連結されてこそ倍にも3倍にも生きてくると考えたからだ。
つなぎ役に徹するよりも、まずは打つこと。3人の俊足選手を並べ、「相手バッテリーが100%打者に集中できないようにすること」が主眼だったが、3人の特徴を吟味したうえで屋鋪を3番に置き、打つことに集中させたのだ。
「出塁もそうですけど、バッティングの技術も豊さんが上だったから、1番を打ちますよね。僕はその点、追い込まれたあと、何とか変化球に合わせるのも得意ではなかったから。やっぱり3番がよかったんです。初球からどんどん打つほうで、腕っぷしも強かったし。でも、それは今になって言えるわけで、当時の近藤さん、ギャンブルですよ。だからすばらしいですよね」
【ノーサインの裏にあった緻密な研究】
高木には1番と3番、屋鋪には1番、2番、そして3番という選択肢があった。さまざまな構想を経て、最終的に2番を任されたのが加藤だった。屋鋪にとって、加藤はどんな存在だったのだろうか。
「その存在は大きかったですよ。
3人でクセを研究していたのも、「ノーサインで走れ!」だったからこそだ。
「いつでも走っていい。逆に、スタートを切らないと怒られました。『今日走らなかったら承知しねえぞ。3人ともメンバーから外してやるからな』とか、『走れ! 何で走らないんだ。そんなに走れないんだったらトリオは解散だ』とか。なぜ怒られるんだ? と思ったこともあります。
こっちもねえ、モーション盗みやすいピッチャーと、盗みにくいピッチャーがいるし、ゲームの流れでいろいろ考えますよね。ここでアウトになるよりも、次のバッターにつないだほうがいいのかな、っていうのもあるんで......。でも、今思うと、『失敗してもいいから走れ』って言われてたんだから、もっと走るべきでしたね」
じつは、「ノーサイン」で走らせたのはトリオだけではなかった。就任2年目の1986年には、新外国人のカルロス・ポンセにも自由に走ることを認め、18盗塁を記録させており、若手で俊足の村岡耕一、石橋貢も「ノーサイン」だった。のちに近藤は自著でこう振り返っている。
<評論家からは「無駄な盗塁が多い」と批判された。そんなことは承知のうえで、若い選手たちの成長を願って走らせたのだ>
目先の成功率よりも、選手が自ら判断し、失敗を恐れず挑戦することを重んじた近藤。そこには、単に盗塁数を増やすだけではない、明確な指導哲学があった。
(文中敬称略)
つづく>>
高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi










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