野球の未来を見ていた男~近藤貞雄伝
証言者 屋鋪要(後編)

 1985年の横浜大洋(現・DeNA)。ノーサインで走りまくっていた"スーパーカートリオ"だが、ある試合ではそれゆえの珍事もあった。

 まず、1番・高木豊がヒットで出塁するも盗塁死。続く2番・加藤博一もセンター前に安打を放ったが、やはり盗塁死。そして3番・屋鋪要もレフト前にヒットを打ちながら、またしても盗塁死。なんと、3人が連続で安打を放ちながら、結果的に三者凡退したのと同じになってしまったのだ。

【プロ野球】「おまえら耕運機か!」 スーパーカートリオの3連...の画像はこちら >>
 スーパーカーどころか、ちっとも前に進まない......。その光景を見た近藤は、3人を農業機械にたとえて「おまえら耕運機か!」と怒鳴った。普段は盗塁に失敗しても怒らない近藤だったが、この時ばかりは"瞬間湯沸かし器"と化した。

 もっとも、近藤が本当に怒ったのは、選手がスタートを切らなかった時だった。なぜ、それほどまでに走ることを求めたのか。1986年から3年連続で盗塁王に輝いた屋鋪に、その真意を聞いた。

【スーパーカートリオ驚異の148盗塁】

「チームに色をつけたかったんじゃないかな、と思いますね。大洋というチームには特色がない、と思われたのかもわからない。レオン・リー、田代(富雄)さんと長打力のある選手はいたんですけど、横浜スタジアムは外野フェンスが5メートルと高くて、当時としてはホームランが出にくかったんですね。

そこで少しでも先の塁へ、前へ前へという考え方になったんでしょう」

 チーム本塁打が132本でリーグ6位だった1985年。チーム最多はレオン・リーの31本、2位は田代富雄の24本。そして3位に入ったのが、自己最多の15本塁打を放った屋鋪だった。前年までの自己最多が6本だった屋鋪が初めての3番でパンチ力を発揮し、打率も2年連続で3割台。評論家や記者たちに奇策ととらえられた「3番・屋鋪」はものの見事に成功した。近藤の慧眼と言えるだろう。

「決して、僕はホームランバッターではないですけど、強く振りにいって、3番としてのバッティングをした結果だと思います。で、その85年は打点もキャリアハイだったんです(78打点/チーム2位)。1番の豊さんが出て、2番の加藤さんがフォローして走って、僕が還す。

 豊さんは出塁能力もすごく高かったから、僕の前にランナーがいるケースが多かった。3番はそれを還さなきゃいけない。だから、その年は勝利打点も阪神のランディ・バースに次いで2位だったんです。

バースが22で、僕が15だった。それだけチームの勝ちに貢献できたのが何よりでした」

 自己最多の58盗塁を記録しただけでなく、屋鋪は打つほうでも好結果を残した。これは他の2人も同様で、42盗塁の高木は打率.318、出塁率.416。48盗塁の加藤は打率.280、リーグ1位の39犠打。さらに3人とも三塁打を5本ずつ記録するなど、グラウンドを縦横無尽に駆け回った。トリオで合計148盗塁。チームの188盗塁は、機動力野球の広島よりも10個多いリーグ1位だった。

【近藤貞雄が見せた無言の信頼】

 近藤が大洋で実践した、もうひとつの大胆な戦術が"アメリカンフットボール式"の野球だった。攻撃型のオーダーで試合に入り、終盤にリードしていれば、守備力を重視した布陣へと切り替える。ゆえに守備固めの起用が常態化し、内野では村岡耕一、大久保弘司、外野では石橋貢、河野誉彦が、いずれも前年から出場機会を大きく増やした。彼らの同僚として、屋鋪はこの采配をどう見ていたのか。

「V9の時の巨人のように、ほとんどメンバーが変わらないのが理想ですけども、ベンチに25人いたら、ピッチャーが8人、9人として、16人、17人の野手がいるわけです。すべての選手に仕事を与える、というのはいいことですよね。

僕は現役の時、監督代行を入れたら10人の監督に仕えましたけど、そこまで全員を生かそうとする方はほかにいなかったと思います」

 屋鋪にとって、仕えた10人の監督のなかで一番印象に残っているのが近藤。だが、それは対話が多かったり、何らかの指導を受けたりしたからではなかった。就任2年目の1986年、近藤の無言の信頼に発奮させられたことがあったという。

「左手の手首を痛めた時です。そういう時にコーチを介して『二軍に行って調整してくれ』とか『二軍でケガを治してくれ』って言われるのは、当たり前なんですね。監督の権限ですから。でも、その時はコーチから『二軍に行って調整するか?』って聞かれたんです。『調整してくれ』じゃないから、『いや、僕、落とされるのは嫌です』って答えました。

 一軍と二軍の違いは歴然で、二軍は仕事じゃないと思っていたので『嫌だ』と。そうしたら一軍に残してくれたんです。ただ、手首は痛いままで、普段、左ピッチャーには右打席に立つところ、左でも左打席に立って何とか......。そういう点ではチームに迷惑をかけたかもわからないけど、近藤さんは僕の話を聞いてくれた。

当然、感謝しかなかったし、発奮材料になりましたね」

 主力選手としてのプライドを尊重するように、近藤は屋鋪を起用し続けた。2年目のスーパーカートリオは序盤から打順が入れ替わるなど流動的になり、シーズン中盤以降は加藤の離脱で解散状態となったが、それでも屋鋪はリーグ最多タイの48盗塁を記録した。10月17日、シーズン最後の中日戦で、かつて近藤が見出した平野謙が屋鋪に追いつき、盗塁王を分け合った。

【近藤貞雄が日本球界に残した遺産】

 この時、近藤の退任とり、古葉竹識への監督交代はすでに決まっていた。古葉は広島でリーグ優勝4回、日本一3回と輝かしい実績がある名将。最終戦のあと、選手から胴上げされた近藤は記者の前に立ち、「本当は優勝して胴上げしてもらいたかったけど、それは来年、古葉君に......」と言って目に涙を浮かべた。

「胴上げのあと、近藤さん、ベンチでこう言われたんです。『オレは辞めていくけども、次にはいい監督が来るから』って。『いい監督』って、何でしょうかね。古葉さんには失礼だけど、チームの成績は5位、4位、6位でした。僕らも期待はしたけれども、チームは上昇できなかった。近藤さんは最下位から2年連続4位です。僕は近藤さんが『いい監督』だと思います」

 大洋は1960年に球団初のリーグ優勝と日本一を達成して以来、1986年まで26年間、リーグ優勝から遠ざかっていた。

その歴史を踏まえたうえでの「いい監督」は、「少しでもチーム力を上げて強くする監督」だと屋鋪は言う。一方で、選手の前では古葉を引き合いに出した近藤だが、記者に対しては「選手にはずいぶん毒舌を吐いた。闘争心だけは忘れるな」と語っていた。

「すばらしいですよね、その言葉は。毒舌はあまり記憶してないけど、パッと短く叱って選手を発奮させていました。僕は『失敗してもいいから』って言われて発奮して、走って、盗塁の技術も伸びた。技術が伸びた選手が増えると必ずチーム力が上がって、優勝に近づく。僕らはそこまでいかなかったけど、いろいろな面で選手にプラス材料を与えてくれた監督でしたね」

 控え選手にもプラス材料を与えた近藤の野球は、突き詰めれば、合理的で科学的な野球と言える。非合理的、非科学的な指導がなお色濃く残っていた40年前には、理解されにくく、批判もされた。今の野球界においてはどうだろうか。

「まさに、近藤さんの野球が、今につながっているじゃないですか!」

 にわかに語気を強め、屋鋪は言った。確かに、投手分業制が当たり前になった今の時代。

キャンプでの過度な投げ込みは見直され、近年ではリリーフ投手の3連投を極力避けるなど、選手の負担を軽減する考え方が広く浸透している。野手については"アメフト式"の野球とはいかなくとも、ベンチ入り全選手を生かす戦い方が普通になった。こうした現代野球の発展をたどれば、その源流のひとつに近藤の先進的な発想があったことがわかる。

「だから、今の野球は近藤さんの遺産ですよ。セーブ、ホールドはアメリカから輸入された制度ですけど、近藤さんが分業制を進めていなかったら、なかなか日本で受け入れられなかったかもわからないですから」

【記録よりも深く刻まれた近藤野球の功績】

 1999年1月、近藤は野球殿堂入りを果たした。顕彰された功績は「投手分業制を導入」。同時に殿堂入りした古葉は「カープの黄金時代を築いた名監督」、広瀬叔功(元・南海)は「名外野手で盗塁王」、中西太(元・西鉄)は「"怪童"と呼ばれた本塁打王」として顕彰された。華々しい優勝実績や個人記録に比べれば、近藤の功績は一見、地味に映るかもしれない。

 しかし、その功績は単なる過去の実績ではない。投手の役割を明確に分け、それぞれの能力を最大限に引き出すという発想は、時代を超えて受け継がれ、現代野球の礎のひとつとなっている。

「分業制によって、抑えと中継ぎが出てくるピッチャーだけじゃなく、野手もそうですけど、いろんな選手を見られたほうが野球は面白い。近藤さんもそれは頭にあったと思います」

 殿堂入りの翌年、2000年8月に刊行した自著で、近藤はこう述べている。

<長いユニフォーム生活だったが、今は一般の野球ファンと立場は同じ。見たいのは、プロらしい華のあるゲームだ。そんな試合を、今後もひとつでも多く見られたらいいと、心から願っている>

高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

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