この記事をまとめると
■日産と合併する前のプリンス自動車工業が生んだクルマをプレイバック■プリンスから誕生したクルマの一部が日産を支えていた
■今でもプリンス自動車出身のクルマとしてスカイラインが生き残っている
技術者集団の”プリンス”があったからこそ日産の名車が生まれた
日産系列の販売会社を調べると日産プリンス●●販売(●●は地名等が入る)という社名の会社が見つかる。この「プリンス」という言葉が何に由来しているのか、ご存知だろうか。
古くからのファンであれば常識かもしれないが、プリンスというのは「プリンス自動車工業」に由来する。
では、プリンス自動車とはどんなメーカーで、どのようなモデルを作っていたのだろうか。
いまだに名前が残っていること、古くからのファンには伝説的な名前になっていることなどから歴史のある大きな会社だったと思うかもしれないが、結論からいうと「プリンス」という名前の自動車メーカーは10年足らずしか存在していなかった。
その前身は「たま自動車」といい、プリンス自動車工業という名前になったのは1952年秋。この段階ではブリヂストンの創業者・石橋正二郎氏が主要株主となっていた。それから約1年半後の1954年春には、やはり石橋氏がオーナーとなっていた「富士精密工業」との合併に伴い、富士精密工業へと社名が変わる。その後紆余曲折があって、1961年春にふたたびプリンス自動車工業へと社名を変更したが、前述したように1966年夏に日産自動車に吸収され、その名前は失われた。

このように会社として存続していた時期が短たこともあって、プリンスが作っていた乗用車は、実質的には2モデルしかないといえる。それが「グロリア」と「スカイライン」だ。そしてスカイラインがあったからこそ、プリンスの名前は伝説になった。
その伝説的マシンこそが「スカイラインGT-B」だ。

当時、各自動車メーカーがしのぎを削った日本グランプリで勝利するために、1.5リッタークラスだったスカイラインのフロントを伸ばして2リッター6気筒エンジンを詰め込んだのがスカイライン2000GT(1964年4月)で、第二回 日本グランプリでポルシェ904と互角に戦い、結果として2~6位にスカイラインが並んだことで、日本のスポーツセダンとして「スカイライン」の名前は記憶されることになった。

よく知られるスカイラインGT-B(1965年2月)は、その2000GTにオプション設定だった3連ウェーバーキャブを標準装備したバージョン。第二回 日本グランプリで活躍したのはGT-Bと誤解されがちだが、レース用のホモロゲーションモデルがスカイライン2000GTで、レース仕様に近い状態にチューンナップした市販モデルがスカイライン2000GT-Bと捉えておくほうが正しい理解といえる。
スカイラインがあり続ける限りプリンスの意思は受け継がれる
さて、2000GTのベースとなったスカイライン(S50型)とは、どんなクルマだったのか。一言でいえば、日産ブルーバードやトヨタ・コロナをライバルとして想定したコンパクトなファミリーカーだった。ボディサイズは、全長4100mm・全幅1495mm・全高1435mm、スタンダードグレードのエンジンは1484ccの直列4気筒OHVで、最高出力は70馬力というものだった。

ちなみに、2000GT-Bのボディサイズは全長4255mm・全幅1495mm・全高1410mm、1988ccの直列6気筒エンジンは125馬力を発生していた。いまでいうエボリューションモデルとして、どれだけインパクトがあったか理解できるだろう。そして2000GT-Bも全幅はベースと同じで、1.5m以下だったのは時代を感じさせる。
ところで、スカイライン2000GTが積んだ6気筒エンジンを最初に搭載していたのが上級サルーンの「グロリア(S40型)」だ。1932年9月のフルモデルチェンジ時には、1862ccの4気筒OHVエンジンを積んでいたが、翌年に追加された「グロリアスーパー6」には国産2リッターモデルとして初めて直列6気筒SOHCエンジンが搭載された。そして、この「G7型」エンジンがスカイライン2000GTに展開されることになった。なお、グロリアスーパー6のボディサイズは、全長4650mm・全幅1695mm・全高1480mm、最高出力は105馬力となっていた。

そんなグロリアが誕生したのは、スカイラインの変節が背景にある。コンパクトなファミリーセダンとなったS50型はスカイラインとしては2代目で、初代スカイラインはもっと大柄なボディの上級サルーンだった。こちらはトヨタ・クラウンや日産セドリックをライバルとして想定したモデルであった。つまり、初代スカイラインの後継モデルがグロリアで、2代目スカイラインはまったく別のカテゴリーにシフトしたのである。

そんな初代スカイラインにはいくつかのバリエーションが用意されたが、いま見ても新鮮なスタイリングで印象的なのはスカイラインスポーツ(BLRA-3型)だろう。イタリアのカロッツェリア「ミケロッティ」に依頼したというボディデザインは、国産車とは思えないほどエキゾチックでセクシー。つり目に配置した4灯ヘッドライトも印象的だ。

ほぼハンドメイドで作られたというスカイラインスポーツの総生産台数は、クーペとコンバーチブルを合わせても60台足らずといわれている。販売実績としては失敗作だが、スカイラインというブランドの礎となった存在としては忘れるわけにはいかないだろう。

あらためて振り返ると、もともとプリンスのモデルに使われていたスカイラインという車名がいまだに現役で、しかも日産ブランドにおいて欠かせない存在になっているのは意外といえば意外だ。そしてスカイラインの名前が続く限り、プリンス自動車の伝説は折を見て思い返されることになるのだろう。
