
劇場アニメ『ひゃくえむ。』が9月19日(金)から公開になる。
「100mを誰よりも速く走れば、全部解決する」
この言葉は本作の核心であり、また呪いでもある。なぜなら本作は一方でセリフにはしないがこうも語っているからだ。
「100mを誰よりも速く走ったところで、一体、何になる?」
それでも彼らは走る。なぜ? 原作者の魚豊は語る。
「自分のやりたいことがあって、何としてでもやり抜くとなったときに、自分のやりたいことをなんで“正しい”と言えるのか?」
彼の創作の根幹をなす思想、想い、そして次回作に向けた思考……映画公開を機に話を聞いた。
この世界には人生を賭して挑むべきものがある

漫画『ひゃくえむ。』は魚豊の最初の連載作品で、連載中の2019年には単行本が発売されないことが一度は決まるも、魚豊がこのことをネットに投稿したところ読者から大きな反響を集め、一転して単行本の発売が決定した(現在、全2巻の『ひゃくえむ。新装版』 が講談社から発売されている)。あれから約6年、単行本の発売すら危ぶまれた作品が劇場アニメ化された。
「やりたいことを全部できたので、作家として自信のついた一作でしたね。
ここで選択肢は2つ。やる内容を変えるか、やる方法を変えるかです。僕は自分の作品が好きだったし、信じてたので、後者を選択しました。作品の内容は変えずに、発表や流通方法で、やれることをやろうと。とは言え、全然大したことじゃなく、具体的には、別の編集部に持っていったり、自費出版の手配をしたりです。結局、そのどちらも実行する前に、出版社さんに決定を覆していただけたので、現在のような形になってます。やはり大手出版さんに出していただくと商品としてのクオリティも違うし、今回のようなメディアミックスも起こり得るので、こういう形に落ち着いてありがたかったです。
でも、デビュー作であるこの作品を通じて、最終的には自分でやらなきゃいけない、誰かが必ず出版してくれるということはなくて、自立して、ISBNを取得したりして、自分で本屋に流通させないといけないときもある。そういうことを考えられたのは、今思うとすごくありがたかったです。

“最終的には自分でやらなきゃいけない”。この姿勢は、彼の作品に登場する者たちと重なる。この姿勢は、彼の作品に登場する者たちと重なる。本作では100m走という競技に魅了された者たちがすべてをかけてスタートからゴールまでの勝負に挑む。『チ。―地球の運動について―』では“地球が太陽の周囲をまわっている”という考えに命をかける者のドラマが描かれた。この世界には人生を賭して挑むべきものがあるのだ。
「まさにそれです。人間は死ぬことが決まっているわけですから、どうやって人生を充実させよう、理想を実現させよう、ということはずっと考えているテーマです」
“価値観”と“価値観”が出会って初めて完成する作品を描きたい

一方で彼の作品は、登場人物が人生をかける対象を“絶対視”しない。強くなること、大会での優勝、恋愛の成就など通常の漫画作品では“絶対的に正しい”とされるものが、魚豊作品では時に異端や価値のないものとして描かれる。
『チ。
「そう言われると確かにそうですね。そういうテーマを無意識に選択しているのだと思います。次に描こうとしている作品も、同じテーマを別の角度から見たものになると思います。“正しさ”であったり、一般的な常識というものはどこから来るのか? それはどんどん変わっていくんですよね。
自分のやりたいことがあって、何としてでもやり抜くとなったときに、自分のやりたいことをなんで“正しい”と言えるのか? その根拠は何か? 最終的な根拠なんてないと、それをうっちゃるのは簡単ですが、でもここで踏ん張った人たちが僕は好きなんです。
それはいつも考えていることです。登場人物の想いを強く打ち出したいからこそ、そこにある根拠をどうやって構築していくのか? そこは毎回、すごく考えます。そもそも漫画家という職業も、見方によっては別に意味はないわけですよね。
でも、なのに、いやだからこそ“やりたい”ことがある。その虚無感みたいものと相剋は、どの作品であってもテーマにしているつもりです」

短距離走に人生をかける男たち。映画のテーマとして美しい。しかし、本作はそれをさらに突き詰め、思考する。速く走ることに人生をかける者がいる。その数秒に魅了される者がいる。その一方で、速く走ることに対する社会の目や周囲の評価の変化は確かに存在する。駆けっこが1位の子どもはクラスの人気者だ。でも、走ることが速い大人に、あのときと同じだけの価値があると言えるのか? それでも自分は走るのか?
「『ひゃくえむ。』の連載中はそのテーマにはそこまで自覚的ではなくて、単純に漫画として面白い展開は何だろう?と考えて描いていました。
多くの漫画では価値判断や倫理が作品の中で閉じていて、それこそが日本の漫画のすごさであり、独自の達成だと思うのですが。僕は、作品の中で描かれる価値観や倫理と、それを読んでくださったり、現代を生きている僕たちの価値観や倫理が出会って初めて作品が完成するものを描きたいんです。
だから、読む人の判断がないと作品が完成しない、面白さが引き出されない。愉快でも不愉快でも、面白くてもつまらなくても、何にせよ、そういう協力関係で立ち現れる読書体験を作りたいと思ってます」
漫画と映画、“時間”をめぐる関係

男たちはスタートからゴールまでの数秒のために、練習し、挫折を味わい、それでもトラックに戻ってくる。漫画ではその数秒が自在なコマ運びで描かれた。漫画ではたった1秒を数ページかけて描くことができる。魚豊は「漫画の面白さはそこにあると思います」と笑みを見せる。
「漫画ではひとつの試合を何年もかけて連載したり、ボールひとつ投げるまでを30ページかけて描くことができる。時間が勝手に流れないメディアだからこそ、時間に対して微分的な操作が可能な表現で、ある部分や瞬間を拡大して拡大して、永遠にその点には届かないんだけど、時間の近似値、極限値を削り出していくことができる、そういう操作ができるのが漫画だと思います。
音楽家のルドウィグ・ゴランソンが『オッペンハイマー』でバイオリンを使って劇伴をつくった際に、“バイオリンという楽器は喜怒哀楽を最も短いスパンでつなぐことができる楽器なんだ”ということを言ってたんですけど、それってすごく漫画っぽいと思ったんですよ。

一方、映画では微分的な操作は使えない。映画は現実の時間と不可分のメディアだからだ。
「映画では10秒は10秒です。それは漫画では絶対に達成できないことで、漫画で描いた10秒を読者がどれだけの時間で読むのか、作者は絶対にコントロールできない。でも映画では時間の支配権を映画がもっているので、登場人物の体験する10秒と同じ時間を観客も体験できる。それは映像化でしかできないことで、この作品が映像化されると聞いたときに、まず観たかったのはそこなんです。
僕は『チ。』のときも思ったんですけど、アニメ化される、映像化される際に“原作を完全に再現すること”には興味もないですし、できないし、するべきでもないと思っています。だから作り手の方には本当に自由にやってくださいと伝えるようにしています」
紙の上で魚豊がコマを積み重ねて描いた数秒が、映画ではアニメーションとロトスコープ(実際に俳優を撮影したものをベースに動画を作成する手法)などを組み合わせた数秒として描かれる。このふたつに主従関係はない。もしかしたら両者は、ある短い時間をめぐる“ライバル”かもしれない。
漫画作品として傑作になった『ひゃくえむ。』は映画化され、どのような物語と表現でスクリーンに出現するのか? 観れば観るほどに熱くなる、観るほどに思考の深まる一作だ。
取材・文:中谷祐介(ぴあ編集部)
<作品情報>
『ひゃくえむ。』
9月19日(金)公開
(C)魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会