
2023年3月28日、71歳でこの世を去った坂本龍一。彼の代表的な作品でもある『戦場のメリークリスマス』になぜ出演をしたのか、あの有名なサウンドトラックの誕生秘話を一周忌にお届けする。サムネイル/2013年11月27日発売の『戦場のメリークリスマス - 30TH ANNIVERSARY EDITION -』(UNIVERSAL MUSIC))
坂本龍一の大島渚との出会い
2013年1月に映画監督の大島渚が亡くなったとき、当時のニュースは、告別式の最後に弔辞を読んだ坂本龍一が「あなたは私のヒーローでした」と語った、と報じていた。
「一人で(「戦場のメリークリスマス」の)台本を小脇に抱えて会いに来てくださいました。『俳優として出てください』と言われ、僕は心の中では『はい』と叫んでいたけど、グッと我慢して無謀にも『音楽をやらせてくれるなら出ます』と言った。監督は『いいですよ』と即答してくれました」(※)
メジャーの映画会社だった松竹を1961年に飛び出した大島渚は、独立プロダクション・創造社を設立。『白昼の通り魔』(1966年)、『忍者武芸帳』(1967年)、『絞死刑』(1968年)、『新宿泥棒日記』(1969年)と、次々に問題作や意欲作を発表した。
その4作品は創造社とアート・シアター・ギルド(以下ATG)の提携作品で、坂本龍一は、それらの社会的かつ政治的な映画を、中学から高校時代にかけてリアルタイムで観ていた。
ATGの拠点だったアートシアター新宿文化は、明治通りと新宿通りが交差する辺りにあった。そして坂本龍一が1967年から1970年まで通っていた都立新宿高校は、その少し先、明治通りと甲州街道の近くに位置していた。
自宅が京王線の仙川にあった坂本の場合、新宿駅の中央口を出て新宿中央通りを歩くのが最短の通学路になる。
そこは中村屋、三越、紀伊國屋書店、丸井、伊勢丹、映画館、レコードの「コタニ」などが立ち並び、一本路地に入れば喫茶店、同伴喫茶、ラーメン屋、天丼屋、定食屋、パチンコ、スマートボール、寄席、麻雀荘、居酒屋、バーと、種々雑多の店がひしめき合う一帯だ。
しかも1960年代後半の新宿は、政治闘争とアングラ・ムーヴメントの発信地であった。普通に歩けば数分で通り抜けられるのに、30分掛かっても学校に着けずに遅れる者も多かった。
『戦メリ』出演の決め手は“勘”
ところで映画の出演依頼を受けた時の坂本龍一は、精神的にはヘヴィになっていた時期だったという。
予想していなかったイエロー・マジック・オーケストラ(以下YMO)の世界的なブレイクがあり、5年間を駆け抜けた後でパブリック・プレッシャーを背負っていたからだ。
そうした時期を抜け出すことができたのは、映画出演がいいきっかけとなった。大島渚監督がYMOの活動にも注目してくれたことが、世界的な規模で製作される映画出演につながったのである。
「それまでも映画の依頼は何本かあったけど、断っていたのね。別に、やってもいいけど、特にやる必要もないと思っていたから。でも、『戦メリ』ではやったほうがいいと思ったんだ。やっぱり勘で、絶対やったほうがいいと」
デヴィット・ボウイが主演する映画ならば、成功するかしないかは別として、世界中にいるボウイのファンが注目する。そして世界の音楽シ-ンに関わる重要な人たちもまた、ボウイの映画ならば必ず観るに違いない。
ボウイと一緒に映画をやれることに即座に反応したのは、自分が生きてきた音楽の世界という共通点があったからだろう。
坂本龍一が演じたのは、満州へ転属となったために、二・二六事件の決起に参加できなかった無念を抱いた過去を持つエリート武官のヨノイ大尉。
ちなみにこの役をめぐっては、当初は高倉健や三浦友和や沢田研二に台本が送られた。そして滝田栄に落ち着きそうになったが、クランクインを待ち続けているうちにNHKの大河ドラマが決まってしまい、映画初出演というYMOの坂本龍一に決まったのだ。
しかし、音楽をやらせてもらうことを条件に俳優に起用された坂本龍一だったが、実はそれまで映画音楽を手掛けたことは一度もなかった。
初めての映画音楽作成、200時間以上もスタジオに籠った
そこでプロデューサーだったジェレミー・トーマスに対して、「右も左も何も知らないので、何か一つだけ参考にしろというんだったら何がいいか」と正直に尋ねたそうだ。
「そしたら『市民ケーン』を参考にしろとジェレミーが言った。かっこいいでしょう? こいつは頭がいいと思ったよ(笑)」
坂本龍一は撮影中に、たった一度だけカメラのファインダーを覗かせてもらった時、音楽が聴こえてきたと言っている。
「メロディーのないたった一音の音だけど、無数の音がひしめき合ってる。そんな感じの音群だった」
初めての映画音楽を前に、200時間以上もスタジオに籠って仕事をし続け、あの有名で感動的なサウンドトラックが作られたのだ。
「映画ができて、試写の時にジェレミーがイギリスから来たのね。ジェレミーはその時初めて聴いただけ。あたまの五分ぐらいか、タイトルの音楽が終わるまで聴いて、すぐ連れ出されて、『ユー・アー・ノット・グッド、‥‥‥バット・グレイト!』と言われた。うれしかった」
坂本龍一はジェレミーと友達になれたことから、その後ベルナルド・ベルトルッチとも出会って、アカデミー賞を受賞することになる映画『ラストエンペラー』に出演して音楽を手掛けることになる。
こうして人と人がつながることで才能と才能が出会い、相手を理解して信頼することによって、時として歴史に残る作品が生まれるのだ。
文/佐藤剛、中野充浩 編集/TAP the POP
参考・引用文献
坂本龍一著「seldom illegal 時には、違法」(角川文庫)
『戦場のメリークリスマス』パンフレット、DVDブックレット
(※)大島渚監督葬儀 坂本龍一、弔辞で「戦メリ」出演時の思い出語る(映画.com ニュース/2013年1月22日)