
20世紀を代表するロックバンドのザ・ビートルズは今から58年前の1966年6月29日に初めて日本に訪れた。当時、熱狂的に報じられた日本で最初で最後となったコンサート、衝撃の様子をお届けしよう。
日本武道館に1万人の若者、前代未聞の警備体制
1966年6月29日早朝。英国出身の4人組が日本航空412便で羽田空港に降り立った、彼らはパトカーに先導される車に乗り込むと、そのままヒルトン・ホテルへ向かった。
ホテルと会場の往復以外は、厳重に警戒された部屋に缶詰め状態で過ごすことになった。この時、警視庁の発表ではのべ8,370人もの警官隊が動員された。
そして翌6月30日。日本武道館には1万人もの若者が集まった。お目当ては世界中を席巻する人気ロックバンド、ザ・ビートルズ。
ファンによる暴動を防ぐという名目で、会場内でも前代未聞の警備体制が敷かれた。
何しろアリーナには観客を一人も入れず、ステージには絶対に観客を近づけないという徹底ぶり。1階席から飛び降りるファンも想定して、多くの警察官が目を光らせている。
それでも午後7時35分にビートルズが登場すると、会場内はたちまち凄まじい歓声に包まれた。
演奏中も曲の合間も歓声が鳴り止まなかった35分間
1、2階席をファンが埋め尽くし、アリーナには警察官が立ち並ぶという異様な空間の中で、1曲目の『ロック・アンド・ロール・ミュージック』が始まる。
厳しい監視によって観客は席に座ることを強要され、立ち上がった観客はすぐに押さえつけられていく。それでも気を失う人が出るほどの熱狂が続き、演奏中でも曲の合間でも歓声が止むことはない。
そして11曲目の『アイム・ダウン』が終わると、35分という短いコンサートはあっという間に幕を閉じた。アンコールもなく、ビートルズは楽屋口に用意された車で武道館を後にした。
終演後、観客席に残った女の子たちはみんな泣いていた。少年たちはみんな茫然としていた。
ビートルズの武道館公演はこの日から計5回行われたが、7月1日の昼公演の様子が、その夜の9時から『ザ・ビートルズ日本公演』という1時間の特別番組で、日本テレビのネット中継で放映された。視聴率は59.8%を記録。
番組の前半では、来日時のドキュメント映像が流された。
空港に到着したビートルズが乗り込んだキャデラックが、朝焼けの東京の首都高速をひた走る。そこに突然、ジョン・レノンの歌声で『ミスター・ムーンライト』が流れる。
18歳のジュリー、15歳のチャボの人生に影響を及ぼした
初日の武道館で関係者用のゲスト席に座っていた著名人は、三島由紀夫、加山雄三、大島渚、加賀まりこといった、作家やミュージシャン、俳優や映画監督たちだった。
当時の新聞や雑誌に出た著名人のコメントには、観客の騒ぎ声が大きすぎて、ビートルズの演奏が聴こえなかったという記事がほとんどだ。中には「“音楽”はひとかけらもなかった。
ところが観客だった少年少女たち、夢に向かう者たちの受け止め方は全く違った。その後の人生に大きな影響を及ぼしたのだ。
後にRCサクセションのメンバーとなる、チャボことギタリストの仲井戸麗市(当時15歳)は、北西スタンド側の上の方の席にいた。
「『歓声で演奏が聞こえなかった』とあるけど、それは違う。俺たちビートルズ少年少女は全曲知ってたから、冒頭でジャーンとギターを弾かれれば一緒に歌えた。北西3階の上からでも、ちゃんと聞こえてた。一つの社会現象として観に来た大人たちは、聞こえなかったんじゃなく、聞こうとしなかったんだ」
当時の機材は現在の音響システムに比べたら話にならないレベルで、十分な音量は出ていなかった。そして叫び声や声援がうるさかったのも事実だろう。
しかし、全目と耳と心で懸命に聴こうとしていた人たちにはビートルズの音楽が伝わっていたし、メッセージさえも共有されたのだろう。
ザ・タイガースとして翌年デビューすることになる、当時18歳になったばかりの沢田研二もその一人だった。
「もう、びっくりしましたよ。
周りの女の子の歓声がすごくて音が聞こえないんだから。(中略) ほとんど『ポール!』『ジョン!』という声ばっかりだったから、僕は『ジョージ!』って叫びましたけどね。
1曲目の『ロック・アンド・ロール・ミュージック』はテンポが遅い。レコードよりずっと遅いけどかっこよかった。物凄いものを見たという感じ。こんなものにはなれないとしか思えなかった」
ジュリーはこの時、思った。
「でもビートルズだってデビュー当初は、専門家や同業者は誰も成功するとは思っていなかった。だから、僕らもまったく可能性がないわけじゃない」と。
文/佐藤剛 編集/TAP the POP サムネイル/Shutterstock
参考・引用
チャボの発言は日刊スポーツ(2013年11月23日)、ジュリーの発言はアサヒ・コムより