ローリング・ストーンズの初来日公演が生み出した異色ユニット「HIS」とは? 幻の武道館公演から16年後の出会いから生まれた奇跡
ローリング・ストーンズの初来日公演が生み出した異色ユニット「HIS」とは? 幻の武道館公演から16年後の出会いから生まれた奇跡

35年前の1990年2月14日に、ザ・ローリング・ストーンズは初めての来日公演を行なった。世界最高のロックバンドがこの公演で生み出したものは、日本人ファンの熱狂だけではなかった。

初来日は、東京ドームで10回連続公演

1966年のビートルズ来日を契機にして、日本には数多くのロックバンドが来日を果たした。そして最後にして最大の大物と言われたのが、ローリング・ストーンズだった。

決して機会がなかったわけではない。

1973年には5回の武道館ライブが計画されて、横尾忠則が書いたポスタ―とともにチケットまで発売になった。

だが、日本政府が麻薬関連での逮捕歴を理由に、メンバーの入国を認めなかったため、来日公演は幻に終わってしまった。

待望の来日が実現したのはそれから16年後、1990年のことだ。ストーンズが3年ぶりのアルバム『Steel Wheels』をリリースすると、そのツアーに東京が組み込まれた。

当時の日本はまさにバブル全盛期で、5万人の収容人数を誇る東京ドームでの10回連続公演は、ファンの数からしたら無謀とも思われたが、50万枚のチケットは発売と同時に飛ぶように売れて完売した。

テレビやラジオ、新聞や雑誌では連日のように特集が組まれ、日本はまさにストーンズ一色になった。

心配された入国審査も無事に通過し、ストーンズは2月14日から27日まで怒涛のステージでファンを沸かせた。

そして、この来日時にはこんな出来事もあった。

ローリング・ストーンズのベーシストだったビル・ワイマンは、1970年代から日本の音楽シーンにも関心を持っていて、3枚目のソロ・アルバム『ビル・ワイマン』のプロモーションで1982年に初来日した際には、人を介して細野晴臣に会ったりしていたという。

だからこの時も当然、細野に会いたいと連絡があった。

そもそも細野に関心を持ったのは、ザ・バンドのリヴォン・ヘルムからカセットの音源を聴かせてもらったのがきっかけだった。

ビルは最初のソロ・アルバム『モンキー・グリップ』(1974年)で、ニューオーリンズの顔というべきピアニストのドクター・ジョンやスワンプ・ロックで知られるレオン・ラッセルと共演するなど、アメリカの南部に息づくケイジャン音楽に魅せられていた。

細野は1975年の『トロピカル・ダンディー』に始まったトロピカル三部作の時期に、ニューオーリンズからカリブ海へと広がる一帯の音楽を視野において、無国籍風でエキゾチックなサウンドに取り組んでいる。それらはビルにとっても間違いなく、興味深い音楽であったのだろう。

アメリカのミュージシャンたちの中にも、YMO以前から細野の作品に関心を持つ者は多かった。

これは偶然だろうが、3部作の第2弾にあたる1976年の『泰安洋行』のジャケットは、ビルの『モンキー・グリップ』と同じテイストが感じられる。

ストーンズが繋いだ細野晴臣と忌野清志郎

話を戻そう。1990年のストーンズ来日時、代官山にある焼肉レストラン「サージェントペッパーズ」という名の店で、細野とビルらは会食することになった。

かつて細野のパーソナル・マネージャーで、YMOも手がけてきた日笠雅水が、そこに同席したときのことをSNSでこう明かしていた。

「サージェントペッパーズ」は細野さんが店名を慮ることなく予約、当日現場で「よりによってこんな名前のお店に!ヤバイ!」って言ってるところにビルがやって来て、ニヒルな感じの笑みを浮かべ、「君たちがロンドンに来た時には僕のスティッキーフィンガーズって店に招待するよ」と言ったのでありました。

この夕食のお返しに、細野はビルからローリング・ストーンズ来日公演に招待されて、VIPとして開演前の楽屋を訪ねることになった。

しかし、ローリング・ストーンズの音楽に細野がそんなに詳しくないので、誰かに同行してもらいたいという話になって、日笠が強く推薦したのが忌野清志郎だった。

この時点での、二人は意外にもほとんど面識がなかったという。

日笠は忌野清志郎とすでに親しい間柄だったし、日頃から両者の信頼を得ていたので、3人で一緒にビルの楽屋を訪ねることになった。

ライターの岡本貴之とフォトグラファーのゆうばひかりによって企画された単行本「I LIKE YOU 忌野清志郎」(河出書房新社)のなかで、日笠はこのように述べていた。

実は私は、清志郎さんと細野さんには、いつか二人で音楽をやってほしいとひそかに考えていたので、これは良いきっかけになるな、と。結局、私も同行することになって、3人で東京ドームに行きました。清志郎さんと細野さんが話をしたのはその時が初めてです。

なお、その時の楽屋での模様については2005年8月15日にオンエアされたNHKラジオの特別番組『ダブルDJショー 2005』で、二人が詳細を語っていた。

それによれば、終演後に3人で六本木で会食した時に話題に出たのが、三宅伸治とともに、坂本冬美をヴォーカルに迎えて始めようとしていたSMIの話だった。

東芝EMIの創立30周年記念イベント「ロックの生まれた日」で競演することになった3人のユニットは、名前の頭文字を取ってSMI(坂本+三宅+忌野)と名付けられていた。

これに惹かれた細野は、リハーサルのスタジオにも顔を出して、アイデアを出したあたりから入り込んでいったという。

「ロックの生まれた日」は、日比谷野外音楽堂と大阪城野外音楽堂で開催されたが、SMIは『パープル・ヘイズ音頭』やビートルズのカヴァー『AND I LOVE HER』、モンキーズのカヴァー『DAY DREAM BELIEVER』、歌謡曲の『高校3年生』など7曲を披露した。

この試みが好評だったことから、音源のレコーディングを作品化する企画が持ち上がると、忌野清志郎は細野をプロデューサー兼メンバーとして迎え入れる。

こうして1991年になってから、あらためてユニット「HIS」が誕生するのであった。

文/佐藤剛 編集/TAP the POP サムネイル/『日本の人 [SHM-CD]』(2016年12月14日発売、Universal Music)

編集部おすすめ