
格闘技のアマチュア全国大会で最年少優勝を果たし、18歳でプロデビュー。『Krush』60kg級の初代・四代王者、『K-1 WORLD GP』('15年)スーパー・フェザー級世界王者など輝かしい戦績を残し続けた卜部弘嵩(36)。
'22年、33歳のときに現役を引退し、現在は『マルト便運輸倉庫』(千葉県流山市)の代表取締役として汗を流している。元世界チャンピオンが、まったくの異業種である物流業界に飛び込んだ理由とは?(前後編の前編)
格闘家から物流商社の社長へ転身した卜部弘嵩
「現役引退試合は1年前くらいから計画し始めて。セカンドキャリアについても現役時代からいろいろと考えていましたね。やっぱり格闘技の世界にいたかったので、当時は後進育成をしたいと思っていましたね」
そう話す卜部は、まず同じく世界王者の弟・卜部功也が開いていたジムで、空手やキックボクシングの指導を試験的にやらせてもらったという。
「そこで自分には教えるセンスがないことを痛感したんですよ(苦笑)。自分が感覚的にできていたことを生徒さんができない理由がわからなくて。言語化し、理論的に伝えることができなかったんです」
まったく別の道を探すしかない。格闘技以外では父親が働いていた物流業界に関心があったと明かす。
「父親がトラックの運転手だったので、子どもの頃は助手席に乗せてもらって、地方でおいしいものを食べて帰ってきたりしていました。そんないいイメージがあったので、物流業界でチャレンジしてみようと考えたんです」
そう思い立つと、まずは千葉県柏市の220坪の倉庫を当時の預金大半を投入し借りた。現役生活最後の1年は、朝は倉庫への入荷対応、午後は東京に戻ってトレーニングという二刀流だったと振り返る。
「業務内容はメーカーさんからの荷物を預かって保管し、必要に応じて出荷。それに伴う検品やラベル貼りなどの軽作業も行ないます。
そんな順風満帆だった卜部だが、3期目で苦境に立たされる。
「急に大きくなった分、業務の細部に目が届かず、社員の急増で教育も追いつかず……。その頃の自分は経営者としての経験値や慎重さ、物流の知識やバックオフィス業務など、すべてにおいて足りていなかった。言うなれば、部活を頑張ってきた高校生が、いきなり社長になったような感じでしたから。
格闘技ってわりとシンプルなんですよ、“リングに上がって相手を倒す”ですから。でも、いざ社会に出てみると、そんなシンプルさでは乗り越えられないことがたくさんあって。会社が苦しい中で、本当にたくさんの勉強をしましたね」
「ダメなときほど、動きながら策を考えなきゃ」
昨年の夏くらいまでは会社の存続すら危うい、身体が震えるような日々を過ごしたと回顧する。
「心が折れそうな瞬間もたくさんあって、金銭的にも対人的部分でも、すごいストレスでした。でも、同時にメンタル勝負だとも思いました。どんなにめちゃくちゃ苦しいときがあっても、それはずっとは続かない。
格闘技をやってきて、散々それを経験してきましたから。でも、止まっていたら死ぬだけ。ただ立ち止まって我慢するのではなく、頭と身体を動かす。常に次の一手を考えて足掻いてきたことが立て直しの鍵だったと思います」
当時は社員30人に加え、パートやアルバイト、派遣社員の約140人が常時稼働していたが、外部に任せられるところは任せるなど、業態や固定費を見直し、コンパクト化をはかった。
「現在の社員数は少数精鋭で10人。一人ひとりが高い専門性を持っていて、直近の売上は約7億円です。
拠点も千葉エリアに集約し、丁寧かつ安定的に運営するスタイルへと転換しています。昨年までは僕も倉庫で入出荷作業をしていましたが、今年から外れました。
現在はドライバー出身で倉庫業の知見もある父に社長業をバトンタッチしました。僕は代表取締役を退任していますが、経営・現場戦略・商談などには深く関わっていて、今は毎朝5時に起きて、午前中は契約書のチェックや日次の確認、会計士や税理士・社労士などとの打ち合わせ、午後は商談や営業ですね」
商談において、元世界チャンピオンの経歴はやはり威力を発揮する。
「なかなかメーカーへの直の商談って難しかったりするんですけど。
過去の経歴も存分に活かしながら365日働いていると話す卜部。そんな彼は、物流業界の深刻な人手不足の解消にも意欲を燃やしている。
「現状、人手不足で困っている会社は多いと思います。作業員もドライバーも足りていない。これまで日本の物流を支えてきた世代から、若い世代が学び、引き継いでいくタイミングでもあると思うんです。
“ウチの会社を引き継いでもらえないか?”というお話をいただくことも何度かあって。今まではお断りしていたんですが、そんなふうに困っている会社がたくさんあるなら、一緒に協力体制を作って、その人たちの生活もしっかり保障しながら業務を広げていけないかと今は考えてます。同業他社とも協力体制を築く必要があると思うんです。
これからは倉庫業だけでなく、運輸業も本格稼働していきたい。そのために運送会社との資本提携も進めています。あわせて、物流業に特化した人材派遣業(株式会社MARUTO WORKER)もより一層力を入れたい。
「格闘技界のセカンドキャリアには物流が待ってる」
そんな卜部が社長を務める『マルト便運輸倉庫』のサイトには「アスリートのセカンドキャリアを応援しております」との記載も。
「アスリート全般かどうかはわかりませんが、格闘家のセカンドキャリアって、わりとみんな困っているんです。指導者になれたらいちばんいいんですけど、そうなれない人がほとんど。中には道を逸れてしまう人もいる。だったら、物流業界を一緒に盛り上げてほしいと思っています」
「格闘家×物流」の相性のよさを、卜部は力説する。
「フィジカルは強いし、頑張る才能もある。もちろん現役選手だっていい。“午前中だけの勤務”など時間の融通も効かせられるし、荷下ろしは“お金がもらえるトレーニング”。
慣れないことに最初はストレスを感じるかもしれませんが、日々覚えていく楽しみは実感できるし、堅苦しい世界じゃない。別に僕の会社じゃなくてもいいんです。運送、倉庫……物流業にはいろんな会社があるので。
声を大にして言いたいことは、格闘技界のセカンドキャリアには物流が待ってる。
ネット通販が当たり前となった今、企業だけではなく、個人の生活も物流によって支えられている。
「物流業はインフラ事業だと、僕は思っています。今の世の中になくてはならない仕事であり、そこに責任と自信を持てる。そして、日本の景気にも必ず影響がある事業ですから」
引退から4年、会社設立から5年。卜部の精悍な顔には、物流マンとして誇りが満ち溢れていた。
(後編はこちら)
取材・文/池谷百合子 撮影/廣瀬靖士