「モラハラの権化」「セクハラ鬼畜」…“伝説のサブカル雑誌”『BUBKA』を生み出した編集者と1990年後半のムチャすぎたアングラ雑誌事情
「モラハラの権化」「セクハラ鬼畜」…“伝説のサブカル雑誌”『BUBKA』を生み出した編集者と1990年後半のムチャすぎたアングラ雑誌事情

小説『さらば雑司ヶ谷』で知られる作家・樋口毅宏氏によるノンフィクション『凡夫 寺島知裕 『BUBKA』を作った男』が話題だ。樋口氏がコアマガジン編集者時代の上司だった『BUBKA』創刊編集長の寺島知裕を描いた一冊で、40人以上延べ100時間以上の関係者取材などを通じて描き切った。

「モラハラの権化」「サディストの化身」と呼ばれた寺島とはどんな人物だったのか? 1990年代後半の雑誌文化とともに樋口氏に振り返ってもらった。

“ぬぼう”としてねっちょりした話し方のサディスト

「1995年に少年出版社がコアマガジンに社名を変更した頃にバイトで入りました。最初に配属されたエロ雑誌の編集長が警察に連行されて休刊になってしまい、第三編集部の部長だった寺島さんに引き取ってもらいました」

そう語るのは小説家の樋口毅宏氏。彼は寺島が編集長を務めるエロ雑誌『ニャン2倶楽部』に配属されることになった。

雑誌の目玉は輪姦撮影ドキュメント「マニア撮影」だった。妻を他の男に抱かせることで興奮する「カンダウリズム」の性癖を持つ全国のマニアから「うちの妻もしてくれ」とリクエストが相次いで人気企画となっていた。

「寺島さんの最初の印象としては正直うさんくさい。背はそんなに大きくなくて、薄い色のついたサングラスをかけていて、金髪と茶髪が混ざっているような長い髪で鼻ひげと顎ひげを生やしていて、“ぬぼう”としていた。話し方もどこかねっちょりとしたような感じでした。

僕を拾ってくれたのは男優OKだったこともあると思います。入社して1ヶ月も経たないうちに勉強の意味も込めて『マニア撮影』に連れて行かれました。30代半ばの地方から上京してきた人妻に童貞だった自分は筆下ろしをしてもらいました。

そのあとはお声がかかれば、自社の編集部だけでなく他社の撮影でもパンツを脱ぎましたね」(樋口毅宏氏、以下同)

いわゆるハメ撮りがエロ雑誌業界では当たり前だったといえ、社内で公然と撮影が行われているのはコアマガジンの異質さだった。

輪姦希望の女性を社内で撮影していると寺島は途中から顔を出し、撮影を中断させて自分だけ済ませるとさっさと去っていくなど、サディストである自分の欲望だけを満たすようになっていったという。

「今回寺島さんについて取材をすると、同僚だったこの人もこんなひどい目に遭っていたのかと思うほど、手を変え品を変え、ひどい目に遭っていたのを知りました。寺島さんの逆鱗に触れて会社をクビになったり、追放されたりした人もいました。

でも、どこかアンビバレントなところですが、寺島さんの話をいろんな人に聞くのはすごく楽しかった。僕たち寺島さんのことを本当は好きだったのか、憎んでいたのかわからなくなるぐらい。そういう意味でもあの頃のコアマガジンを象徴する人だったとも言えます」

『BUBKA』に持ち込まれるようになった写真たち

『ニャン2倶楽部』を部下に任せて、寺島は1996年に代表作となる雑誌『BUBKA』を創刊する。当初はB級ニュースマガジンだったが、人気アイドルやスター女優の下積み時代の水着やヌード写真などの「お宝発掘」にシフトチェンジすると売れ行きに勢いがついた。

「『BUBKA』が2012年から路線変更して「アイドル雑誌」になって今まで続いているのはほんとうにすごいことなんですよ。寺島さんが創刊した時の『BUBKA』は芸能スキャンダルがメインの暴露系雑誌でしたから。

あるハメ撮り写真が持ち込まれて掲載するとすごい話題になったんです。それで一時期は『フライデー』ではなく『BUBKA』に持ち込むのが一番いいみたいな空気が醸成されていったのを覚えています。

スマホが出る前だったから、撮った写真の仕上がりは自分で現像するしかなかった。編集部に持ち込んでくれたら現像してあげて、おまけにそれをいい値段で買い取るから写真がどんどん集まってくるようになっていきました」

どこに行っても『BUBKA』の功績をほめられるようになった寺島の全能感は上がっていった。

「寺島さんは他の出版社だったら絶対に出世できない人でした。あの頃コアマガジンにいて、才能があるライターやカメラマン、部下との出会いに恵まれて出世ができた運だけがいい人のように見えました。

当時は雑誌が売れているから経費もかなり使えたし、自分は雑誌の売り上げをピンハネできればいい立場でしたから数字だけは見てた。先月の返本率がわるくないならいいやっていう感じですよ」

「迷惑系YouTuber」を彷彿させる暴走の果てに

寺島が遊んで飲んでいるだけの状態になっているのと同時期に、彼の知らないところで部下の暴走が始まっていた。

「コアマガジンはワールドカップよりも短い間隔で次々と逮捕者が出る会社だったし、ドラッグ、セックス、殺人事件に関するコンテンツはみんなあった。

たとえば、『BURST』編集長のPISS・KENさんに聞いたら、社内にふたり“売人”らしき人がいたらしいです。

ほかにも『裏BUBKA』の編集長をやっていた岡崎さんは、部下にスタンガンを持参させて奈良公園で鹿を捕まえようとさせたり、爆弾の作り方を誌面に載せて警察に呼ばれたりもしてました。

彼に当時のことを聞くと「雑誌を作るためなら人を●していいと本気で思っていました」と言ってました。今では信じられませんが、ほんとうにそういう時代だったんです」

樋口氏からコアマガジンの話を聞いていくと、現在における「迷惑系YouTuber」のことが脳裏をよぎった。

「たしかに『迷惑系YouTuber』に近いかもしれないですね。恥ずかしい話ですけど、似ているところはあります。ただ、会社でやっていたし、雑誌を作っているという大義名分があるから許されているという雰囲気がありました。

1990年代後期はいろんなメディアがソフィスケートされてマニュアル化されていくなかで、雑誌だけがある種のアナーキーさを行使できたんです。

テレビやラジオや新聞では絶対にできない企画を雑誌だけができる最後の時代だった。インターネットが出てきて移り変わっていく、そんな過渡期だったからみんなちょっとネジが外れていたのもあると思います。

今振り返ると倫理的によくないことだらけだったし、そこはもう反省するしかないです。

それでも、こうやってあの当時の空気感や出来事を書き残さないと、時代の変遷や文脈とかが分からなくなってしまうから、今回本という形にできたのはよかったです。寺島さんの供養にもなりましたし、彼の恥部だけを晒すのはアンフェアなので、自分たちの恥部もしっかり刻みました」

取材・文/碇本学 写真/Shutterstock

凡夫 寺島知裕。 「BUBKA」を作った男

樋口 毅宏
「モラハラの権化」「セクハラ鬼畜」…“伝説のサブカル雑誌”『BUBKA』を生み出した編集者と1990年後半のムチャすぎたアングラ雑誌事情
凡夫 寺島知裕。 「BUBKA」を作った男
2025/5/241,980 円(税込)240ページISBN: 978-49099798031990~2000年代、時代を狂喜させた 伝説の“鬼畜系”サブカル雑誌。 その創刊編集長のちっぽけな栄光と、 ろくでもない死に迫る愛憎ノンフィクション。 関係者取材40人以上、延べ100時間以上のインタビューを経て、 たどり着いたモンスターの真実。 「モラハラの権化」「サディストの化身」「セクハラ鬼畜」。 「強欲の炎」そのものだった男はコアマガジンで英華を極めたが、 遂には自らの炎に燃やし尽くされ、ひっそりと孤独死を迎えた。 彼の人生はいったい何だったのか。
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