どのようにも読み解ける映画ながら、個人的には世間とうまくやっていけない人々の孤独と悲しみを描いたように思えた。筆者には『スイス・アーミー・マン』が決して単に笑えるだけの作品とは言えない。

単なる死体コメディじゃないぞ「スイス・アーミー・マン」が描く現実との折り合いの難しさ

多機能な死体を使って、無人島から生き延びろ


映画が始まって目に入るのは、助けを求める文章が書かれたメッセージボトル。その出どころは、無人島で孤独に助けを待つ青年、ハンクだった。いくら待っても現れない救助に絶望し、首を吊って自殺しようとするハンク。しかしその時、海岸に男の死体が流れ着く。

自分以外では唯一の人間(死んでるけど)の漂着に動揺しつつ、死体を探ってみるハンク。その死体にはガスが溜まっており、浮力を持っていた。協力なこのガスを動力源に、ハンクはジェットスキーのように海の上を滑る。
しかし上陸した海岸にもやはり人の姿は見当たらず、ハンクは死体とともに人里離れた森の中で奇妙なサバイバルを始める。

共に暮らすうちに死体はやがて喋るようになり、自らの名前を「メニー」だと名乗る。歯では髭を剃れ、体内に雨水を溜め込んで水筒やシャワーの代わりになり、死後硬直した腕の反動を使えば斧にもなり、オナラを使えば着火もできるという便利な死体と、なんだかんだでうまくやっていくハンク。果たして彼らは、元いた場所に帰ることはできるのか。

「ダニエル・ラドクリフ、多機能な死体の役に挑戦!」という、そこだけ聞いたら「もう一回言ってもらえます?」って聞き返しちゃいそうなネタで話題になっている『スイス・アーミー・マン』。スイスアーミーナイフになぞらえられるほどのメニーくんの多機能ぶりは本物で、口から水をゲーゲー吐いたり屁がガスバーナーになったりなどのコロコロコミック的死体芸は一見の価値がある。
劇場でも大受けしていた。

というわけで、基本的にはスラップスティックな死体コメディのフリをしているこの映画なのだが、実は人付き合いが苦手なオタクなら即死するような構造になっている。全く油断のできない作品なのである。

死体遊びVS現実、オタク戦慄の物語構造


『スイス・アーミー・マン』は誰の目線で描かれた作品なのだろうかというと、やはり主人公ハンクだろう。冒頭の時点では「なぜか無人島で首を吊ろうとしている人」であるハンクだが、映画が進むにつれて徐々に人物像が明らかになってくる。その人物像というのが、どうにも社会性がなさそうというか、友達が少なそうというか、引きこもりっぽいというか、世の中でつらい思いをたくさんしていそうな感じなのだ。


そんな彼が、意志を持った喋る死体と一緒に大自然の中で孤独なサバイバルをする。この「死体が喋る」というギミックがすでにおかしい。実は生きていた、というような展開を封じるためダニエル・ラドクリフの顔には念入りな死体メイクが施され、どこからどう見ても完全に死んでいる姿が再現されている。そこまでやってあるのに、喋る。これはどう考えても孤独な男であるハンクの一人芝居である。

そして、山の中で死体を活用しつつ、一人芝居に興じるハンクの姿がものすごく楽しそう(実際映画の中でも楽しそうな演出になっている)に描かれる。
死体と一緒に様々な自身の願望を詰め込んだごっこ遊びをエンジョイするハンク。その姿は、とても他人事とは思えなかった。

『スイス・アーミー・マン』では、どこまでがハンクの一人芝居で、どこからが現実なのかははっきりと説明されない。しかし、我々がよく知っているルールで回っている、死体が喋ったりしない「現実」が存在することは劇中で明示される。だから、我々が劇中で「これは非現実的だな」と思ったことは文字通り非現実で、ハンクの妄想である可能性が非常に高い。「無人島でひとりぼっちで首をくくろうとしている」という映画の始まりが、そもそもハンクの心象風景を表現したものではないという説明はどこにもないのだ。


だからこそ、終盤にハンクと「現実」がぶつかりあった時にハンクが取る行動は胸に迫る。わかるよハンク。逃げだとかなんだとか世間から言われようが、たとえ一人芝居だろうが、メニーと遊ぶのは楽しいに決まっているのだ。できるだけ煩わしい人間関係を避けつつ、一人遊びに耽溺するオタクである筆者にはものすごく刺さる。

かつてエヴァンゲリオンは、そのラストで「気持ち悪い」と言って終わった。そうなのだ。
死体で髭剃ったりオナラで火をつけたりするのは、側から見れば気持ち悪いに違いないのである。しかし気持ち悪かろうがなんだろうが、とりあえず我々は現実と折り合いをつけて、生活をやっていかなくてはならない。その苦さと不自由さと、中盤のコロコロコミック的ギャグとの対比は、あまりにも鮮やかで重かった。
(しげる)