AV女優「渡辺まお」としてデビューし、人気を博すも早大卒業とともに現役を引退。その後、文筆家「神野藍」として活動し、著書『私をほどく~ AV女優「渡辺まお」回顧録~』を上梓した。

いったい自分とは何者か? 「私」という存在を裸にするために、神野は言葉を紡ぎ続ける。連載「揺蕩と偏愛」#33 「欲しい文字はどこにもなかった。書くのを辞めるか、死ぬか、どちらにせよ同じ意味なのだ







【私とわたしを繋ぐもの】



 窓ガラスを伝う雨粒の先に、街の揺らめく光が後ろへと去っていく。夜の底を滑るように走る小さな箱の中には、滞留したままの煙が重く漂っていた。



 ふと、スピーカーから気まぐれなシャッフル再生で弾き出されたイントロが、密閉された車内に落ちた。





 甘い酔いの中にどこか冷ややかな潮風を孕んだその音が響いた瞬間、私の背骨を冷たい指でなぞられたような感覚が走った。湿り気のある街の灯りが、奥底に眠っていた記憶を一つ一つ開いていく。呼吸を忘れてその音に耳を澄ませていると、意識は雨の高速道路から、小さな水槽へと引き戻された。





 手元に置いてある小さな赤い光とディスプレイの青白い光が交差する空間で、文字で埋め尽くされた原稿に齧り付いていた。三文書くと、二文消すを繰り返す中、私の魂は暗い底へと落下していった。分かりやすい道標の無い道を歩きながらも、明日の朝になれば社会で生きている私に戻らないといけない。逆も然りで、どんなに微笑ましくクライアントと話した後でも、時がくれば私は潜らないといけない。



 その閉ざされた水槽で、私とわたしを繋ぐのは一つの曲だった。目の前を全て消し去りたくなっても、陸に上がれずに踠き続けたとしても、ちゃんと全てが始まった日に回帰させてくれる、私にとっても、わたしにとっても泊地だった。





 気がつけば、手元のカレンダーを五枚捲った。私は舞い込んでくる仕事の傍で、数十分おきにAmazonの注文履歴と睨み合いをしていた。いつもは在宅であっても玄関前のお届けを設定しているのに、今回だけは対面受け取りに変えていた。数回更新を繰り返した後、「配送済み」の文字が画面に浮かんでいた。音一つ立てないインターフォンに苛立ちを覚えながらも、階下の郵便受けから茶色の封筒をむしり取り、エレベーターの閉ボタンを勢いに任せて押した。





【欲しい文字はどこにもなかった】



 身体の中心が波立つ感覚に襲われながら、右上から左下まで、文字を落とさないようにさらっていくが、欲しい文字はどこにも書いていなかった。



 デスクの隅に追いやっていた五十枚近くの紙の塊を引っ張り出して、数ヶ月前の熱の断片にペンを入れていく。名前が載らなかった事実に打ちのめされながらも、私は自分の中に生まれたものを捨てることなく、過去の吐瀉物に喰らいついていた。





 目の前の仕事では、破綻なく仕上げる手管を覚え、傷つかないように、失敗しないようにと綺麗に取り繕う術ばかりが上手くなっていく。けれど、文字に向き合う時間だけは、茨の道だろうが真っ直ぐに飛び込んで、流れ出る血を他人事として見つめている。



 先の見えなさに反比例して膨れ上がった社会として適応できる顔に吐き気を催しながらも、それでもまた新しい原稿に向かって文字を走らせる日々。



 私は今この瞬間も、その谷間の真っ只中にいて、夜を迎えるたびに汚濁した記憶を掘り返しながら書き続けてしまう。私には、辞めるか、死ぬか、どちらにせよ同じ意味だ。





 曲がラストサビを迎え、流麗な旋律が雨の夜へと溶けていく。



 隣でハンドルを握る男の横顔にちらりと視線を送る。



 「……ねえ、今書いてるやつ、やっぱり頭から書き直すわ」



 走行音に紛れるように呟いた私に、男は「いいんじゃない。好きなだけ暴れな」と笑っていた。





文:神野藍

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