NHK「豊臣兄弟!」は、清須会議で“三法師を担ぎ出す秀吉”を描いた。大河ドラマや映画などの定番シーンだ。
三法師はその後、どのような人生をたどったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に史実に迫る――。
■「担がれた三法師」の描かれない“その後”
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」、8月9日放送の第30回「清須会議」では、秀吉(池松壮亮)が幼子を抱いて現れた。その幼子こそ、三法師。織田信長の嫡孫である。
清須会議、と聞いて多くの人が思い浮かべる光景がある。「秀吉が三法師を担いで勝った」というイメージだ。三谷幸喜の映画では、大泉洋が演じた秀吉が幼子を抱いて颯爽と登場し、重臣たちが平伏する。そのイメージはいまや国民的な「定番絵」として定着している。
8月16日放送の第31回では織田信孝が岐阜城へ連れていくという。だが、この三法師がその後、どうなったかを描いた作品はほとんどない。
信長の嫡孫である。
秀吉に担がれて会議に勝った側の人間である。しかもまだ3歳だった。なぜ歴史の表舞台から、あっけなく消えたのか。答えは、「担がれた」という言葉の中にある。
大抵は清須会議に登場した幼児の姿を最後に忘れ去られてしまう三法師だが、その後も彼の人生は続いている。紆余曲折を経て、秀吉と信雄・家康が対立した小牧・長久手の戦いでは、秀吉に担ぎ出されて従軍している。
黒田基樹『羽柴を名乗った人々』(KADOKAWA、2016年)によれば、この頃までに祖父信長にちなんだ仮名である三郎、そして実名秀信を名乗ったとされる。秀信の名は秀吉からの偏諱に織田家の通字である信を組み合わせたものだ。このことを黒田は次のように記している。
秀信は秀吉配下の立場に置かれたことが、明確に示されたものになっている。織田家当主ではなかったが、織田嫡流家の当主として位置づけられたとみられる。
■織田家の代表は信雄、血統上の本筋は三法師
……なるほど! と納得できるだろうか。
たぶんできない。これは、実にややこしいことである。少し整理しよう。
清須会議から約4カ月後の天正10年(1582年)10月、秀吉は丹羽長秀・池田恒興とともに、信長の次男・信雄を織田家当主として擁立した。清須会議で後継者とされた三法師ではなく、成人した信雄が織田家を代表する立場になったのである。
この時点で三法師は、岐阜城の信孝のもとに置かれていた。しかし12月、秀吉に包囲された信孝は降伏。三法師は信雄の庇護の下、安土城の仮屋敷へ移された。
こうして織田家には、奇妙な二重構造が生まれた。実際に家を代表する当主は信雄。しかし、信長の嫡孫として血統上の本筋にいたのは三法師だった。つまり、成人した信雄が当面のあいだ織田家を率い、その背後に将来の嫡流である三法師が控える構造である。
少なくとも表面上は、信雄が家を支えながら三法師の成長を待つ形にも見えた。
このまま信雄が、三法師を支える当主として振る舞っていれば、大きな問題は起こらなかったかもしれない。ところが、小牧・長久手の戦いは、その建前を完全に壊した。
■秀吉の狙いは「織田一族の取り込み」
信雄は織田家当主の立場で徳川家康と組み、秀吉に戦いを挑んだ。三法師を当主に戻すためではない。自分自身が織田家の主人であり続けるための戦いだった。ところが信雄は、家康に相談することなく、単独で秀吉と講和してしまう。
この講和によって、信雄は名目上、織田家当主の座に残った。しかし、信長の後継者としての実権と権威を握ったのは秀吉だった。三法師が成長すれば織田家の主人になれるという可能性は、ここで事実上消えたのである。
その後、1590年、信雄は小田原征伐後の国替えを拒否し、秀吉によって改易された。織田家を代表する「当主」という政治的な看板まで失われた。

残ったのは秀信(幼名:三法師)が持つ「信長の嫡孫」という血筋だけだった。
しかしその血筋という看板も、小牧・長久手の時点ですでに有名無実になっていた。秀信はもはや秀吉の主人ではなく、秀吉に仕える立場となっていたのである。
しかも秀吉がやったのは、秀信をただの臣下にすることではなかった。織田嫡流を、自らの一族として丸ごと取り込むことだった。
天正16年(1588年)4月、後陽成天皇が聚楽第に行幸した際、秀信は従四位下行侍従に任官し、豊臣姓・羽柴名字を与えられた。この行幸での席次は侍従クラスの大名のうち前田利家や豊臣秀勝、結城秀康らに次ぐ五番目。まだ8歳にも満たない子どもが、これだけの地位を与えられている。秀吉は秀信を冷遇したのではない。一族として取り込むことに、それだけの価値を見いだしていたのだ。
■「信長の後継者である正統性」をもっと示すため
以前、羽柴秀勝の記事で詳述したが、秀吉にとって「信長の血」を手元に置くことは、単なる感傷ではなかった。
本能寺の変の後、秀吉が光秀を討ち取り、清須会議を主導したことは誰の目にも明らかだった。
しかし秀吉はもともと尾張の農民の出とされ、信長の家臣にすぎない。どれだけ武功を立てようとも、「主君を討った光秀を倒した男」というだけでは、天下を動かす正統性にはならない。
そこで秀吉が使ったのが、信長の四男・於次秀勝という存在だった。信長の実子を養子に迎えたことで、秀吉は「信長一族の一員」という立場を手に入れた。
要するに「信長公の息子を養子にもらったのだから、秀吉は信長公と同胞、一体の存在である」という論理である。
ここにさらに秀信を取り込むことは、次秀勝一人では不完全だった正統性の補強を意味した。次秀勝はあくまで信長の「実子」だが、信長の直系嫡流ではない。一方の秀信は、信長―信忠と続く嫡流の血を引く唯一の存在だ。この二つを合わせて手元に置くことで、秀吉の「信長の正統な後継者」という設定は、ようやく盤石なものになったわけである。
こうして秀信という人物は、実にややこしい立場に置かれることになった。
■「織田の血」と「豊臣の傘下」を同時に背負う
肩書きを並べてみよう。織田信長の嫡孫。
織田信忠の嫡男。そして豊臣朝臣、羽柴名字を持つ秀吉の一族。
この3つが、一人の人間の上に同時に乗っかっている。
普通に考えれば、「織田信長の嫡孫」と「豊臣秀吉の一族」は矛盾する。信長と秀吉は主君と家臣の関係だった。その嫡孫が、家臣の一族として遇されているのだ。
秀吉にとっては、この矛盾こそが都合よかった。秀信が「織田嫡流」である限り、秀吉は「信長の正統な後継者」という物語を維持できる。秀信が「羽柴一族」である限り、秀信は秀吉に逆らう根拠を持てない。
「織田の血」と「豊臣の傘下」を同時に背負わされた秀信は、どちらの立場でも秀吉の都合に奉仕する存在となったのである。
この秀吉との血筋の合体は、1592年に小吉秀勝(秀吉の甥)が病死したことで頂点に達する。秀信は遺領である岐阜領を継承することになったのである。黒田は、同時代の史料にはないが、後代には小吉秀勝の娘婿として家督を継承したとするものがあることを挙げ、なんらかの姻戚関係によって家督を継承したとしている。いずれにしても、これによって秀信は、養子である小吉秀勝の跡取り=秀吉の親類としての地位が確定する。
■“担がれる人生”だったが、精神世界は豊かだった
最終的に官位は正三位権中納言如元まで上がっているので、親類衆の中ではそれなりの扱いを受けたと考えられる。
しかし、あるのは官職だけ、特に政権に影響力を持つことはなかった。そして、秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは西軍に属したことで家康方から攻撃を受けて落城。その後は、高野山に退去し、1605年に26歳で死去することになった……。
と、教科書ではせいぜい清須会議で幼名が出るだけ。その後は、嫡流という看板を利用されるだけのパッとしない人生を送ったようにみえる秀信。しかし、別に陰鬱とした人生を送ったわけではなく、精神世界を豊かにすることを選んだ。
秀信が岐阜城に移った後のことだ。数人の家臣の影響によって、秀信はキリスト教に回心した。
これは、かなり危険な選択であった。
秀吉がバテレン追放令を出したのは1587年のことである。キリスト教の布教は禁じられ、宣教師は国外退去を命じられるようになっていた。しかも秀信は、その秀吉の「一族」として遇されている身だ。主君がキリスト教を禁じているのに、その庇護下にある人間が洗礼を受けるなど発覚すればただでは済まない。
にもかかわらず、秀信は受洗した。
■秘密の洗礼「太閤様がこのことを知ったら…」
結城了悟『キリシタンになった大名』(キリシタン文化研究会、1986年)によれば、イエズス会の1595年の年報には、こう記されている。
ついに三法師殿は満足してキリスト信者になる決心をし、この教会で他の三人の家臣と一緒に洗礼を受けました。このことは現在のところ秘密にされています。それは、太閤様がこのことを知ったら再び迫害が燃え上がる危険があります。
「太閤様がこのことを知ったら」この一文に、すべてが凝縮されている。
名前を書き換えられ、系譜を書き換えられ、立場を書き換えられ続けた男が、秀吉に絶対に知られてはならない秘密を、自分の胸の中に持ったのである。
この報告を受けた宣教師たちの興奮は、相当なものだった。なにしろ信長の嫡孫が洗礼を受けたのだ。同じく結城によれば、ルイス・フロイスはこんなことまで書いている。
彼と少し話せば、誰でも彼の血統や父親を知らなくても、彼の容貌、言語、態度の品格から判断して、しかるべき大貴族の息子であることを推察し、日本人であることを知らなければドイツの貴族と思うほどでしょう。
■唯一、自分で選んだ「信仰」
フロイス、褒めすぎである。冷静に読むと「とにかく素晴らしい、何もかも素晴らしい」という感情が先走って、具体的に何が素晴らしいのかよくわからなくなっている。布教活動に心血を注いできた宣教師が、ついに信長の嫡孫を信者に迎えた喜びで、筆が完全に滑っている。
ともあれ、秀信の影響で周囲の家臣たちも次々と受洗したというから、どこまで秀吉に秘密が保たれていたのかはよくわからない。表立って宣伝することはなかったが、秀信は岐阜を訪れた神父に教会を建てるための土地を与えるなど便宜を図っている。しかしそうした信仰の広がりへの希望は、秀信が関ヶ原で西軍に与したことですべて幻となってしまった。
担がれるだけの人生の中で、信仰は秀信が唯一自分で選んだものだった。
そしてここに、もう一つ見落とせない事実がある。秀信はキリスト教を信仰する一方で、領内の寺社には寺領の寄進や諸役の免除を行い、仏教の保護にも熱心だった。崇福寺は信長・信忠の位牌所として特に重視し、繰り返し保護の文書を発給している。
キリスト教への回心は、祖父・父への追善供養を捨てることを意味しなかった。洗礼を受けながら、信長の嫡孫としての務めも手放さなかった。三法師として担がれ、秀信として組み込まれた男が、最後まで自分なりの折り合いをつけようとしていた姿が、ここに見える。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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