真珠湾攻撃の戦果を伝えられ、「バカな」と答えた海軍軍人がいた。政治学者の伊藤隆太さんは「この人物は開戦前から『日本が米国を破り、屈服させることは不可能だ』と警告し、兵器の充足率や鋼材不足を具体的な数字で示して『戦争をしてはならない』と海相に直訴していた。
それでも開戦を止められなかったのは、戦備不足を示す数字を方針の見直しにつなげる仕組みがなかったからだ」という――。
■「軍備計画の改定」を訴えた軍人がいた
「海軍軍備計画ハ根本的ニ改定ヲ要ス」
真珠湾攻撃の約10カ月前の1941年1月、海軍航空本部長を務めるある中将が海軍大臣に提出した文書は、こう始まる。半年後には、兵器の充足率や鋼材の不足を具体的な数字で示し、対米戦に耐えられる戦備が整っていないと警告した。
それでも日本は対米英戦へ進んだ。
冒頭の一文は、防衛省防衛研究所所蔵「新軍備計画論 総論 1、海軍軍備計画は根本的に改定を要す」(1941年1月30日、請求記号⑤航空部隊-航空本部-29、件番号8)に残る。防衛研究所「史料紹介コーナー」も原文を掲げ、海軍航空本部長が海軍大臣に提出した文書だと説明する。
この軍人は何を見抜いていたのか。そしてなぜ、具体的な警告は開戦の見直しに結びつかなかったのか。
■“最後の海軍大将”と呼ばれた男
警告の主は井上成美、当時の海軍航空本部長である。
国立公文書館アジア歴史資料センター(JACAR)が公開する「海軍辞令公報」(1940年10月1日)には、「支那方面艦隊参謀長海軍中将 井上成美 補海軍航空本部長」とある。阿川弘之『井上成美』(新潮社)で、「最後の海軍大将」「帝国海軍きっての知性」と評される人物だ。
対米戦の危険を説いた軍人といえば、山本五十六が有名だ。
だが山本は1939年に連合艦隊司令長官へ移り、開戦前夜には政策を決める海軍中央ではなく、作戦指揮を担う立場にあった。日中戦争の拡大に反対した陸軍の石原莞爾も、1941年には予備役となっている。
開戦前夜の海軍中枢で、戦備を査定し、数字をもとに異を唱え続けた代表格が井上だった。
■勝ち方ではなく「続け方」を問うた
井上の問題意識を最も直接に示すのが、冒頭の「新軍備計画論」である。
その「日米戦争の形態」の章には、「日本ガ米国ヲ破リ彼ヲ屈伏スル事ハ不可能ナリ」とある。井上が問うたのは、艦隊決戦に勝てるかどうかではなかった。その勝利によって米国を屈服させられるのか、という戦争全体の見通しだった。
続く「帝国の海軍軍備整備の要点」の章には、速戦即決を目指す艦隊決戦兵力についてさえ「其ノ整備スラ思フニ任セズ」とあり、「海上補給線ノ確保ニ必要ナル兵力」の整備を求めている。重視したのは、初戦の戦果より、資源と兵器を運び続けながら戦争を続けられるかどうかだった。
■「戦争をしてはならない」と海相に直訴
井上の懸念は半年後、具体的な数字として示された。
1941年7月17日付の内部文書「海軍航空戦備の現状」によると、航空用大型爆弾、九一式魚雷、20ミリ機銃など、列挙された兵器の充足率は10~30%にとどまっていた。これは海軍航空兵力全体ではなく、文書が列挙した兵器に限った数字である。

同文書の「生産力の現状及拡充予想」には、1942年度海軍用鋼材の所要145万トンに対し、取得見込みは約110万トンとある。約35万トン、所要量の約24%が不足する計算だった。
井上の警告は漠然とした悲観論ではなく、兵器、生産力、資材の査定に基づいていた。
数字を突きつけた先は、海軍首脳だ。伝記『井上成美』(井上成美伝記刊行会、1982年、310~311頁)は、井上が1941年7月22日、及川古志郎海相、永野修身軍令部総長らに戦備状況を説明し、「戦争をしてはならない」と訴えたと記す。
約40年後に刊行された伝記であり、1941年の本人文書とは証拠の性格が異なる。それでも対米戦の見方は「新軍備計画論」と一致している。
■反対派の3人は中枢から外された
では、井上の警告は開戦の決定を変えられなかったのか。その背景の一つに人事がある。
1937年、井上は海軍省軍務局長に就いた。米内光政海相、山本五十六次官とともに、日独伊の軍事同盟構想に反対した3人である。井上は戦後、「海軍が最後まで譲らなかったのは、自動的参戦はいやだという一点にありき」と証言している(新名丈夫編『海軍戦争検討会議記録――太平洋戦争開戦の経緯』毎日新聞社、1976年)。

だが山本は1939年8月に連合艦隊へ移り、井上も同年10月に支那方面艦隊参謀長へ転出した。米内内閣も1940年7月に総辞職する。三国同盟が調印されたのはその2カ月後だった。
一連の異動が排除計画だったことを示す一次資料は確認できない。しかし結果として、3人は政策決定の中枢から離れ、異論を一つの政策へまとめる力が弱まった。
■海相辞職という「伝家の宝刀」
海軍省が戦備不足を把握しても、それだけで作戦を止められるわけではなかった。
国立公文書館が公開する「海軍省軍令部業務互渉規程」の写しは、海軍大臣と軍令部総長が、それぞれ何を起案し、何を協議するかを区分している。防衛研究所「史料紹介コーナー」は、この1933年の改定で海軍大臣の権限が縮小し、軍令部主導の業務が増えたと解説する。
海軍省側の戦備査定を作戦中止へつなげるには、省部を越えた合意が必要だったのである。
海軍戦争検討会議記録――太平洋戦争開戦の経緯』178頁の第二回第二次特別座談会(1946年1月22日)には、井上の「内閣を引けば可なり。伝家の宝刀なり」という発言がある。
海相が辞職して後任を出さなければ内閣を倒し得る。
だがそれは、陸海軍の一致を崩し、内閣総辞職を招く非常手段だった。決定的な対立を避けようとする「空気」のなかで、容易に抜ける刀ではなかった。
しかも海相辞職は個人の進退に頼る手段であり、戦備の数字に応じて開戦方針を見直す制度ではなかった。
■戦備の数字は「中止条件」にならなかった
最大の問題は、兵器の充足率や資材の見込みが一定水準を下回れば開戦方針を再審査する、という決まりがなかったことだ。
1941年9月6日の御前会議決定「帝国国策遂行要領」は、米・英・蘭との戦争も辞さない方針の下で準備を進めると定めた。12月1日の御前会議は「帝国ハ米英蘭ニ対シ開戦ス」と決定する(アジア歴史センター「37.対米英蘭開戦ノ件(御前会議決定書)」。
もっとも開戦を中止する条件がなかったわけではない。11月5日の御前会議で改定された「帝国国策遂行要領」は、対米交渉が12月1日午前0時までに成功すれば武力発動を中止するとしていた。
井上がどれほど不足を具体的に示しても、その数字を開戦方針の見直しに結びつける仕組みがなかったのである。
■真珠湾攻撃の戦果に「バカな」
井上はその後も海軍にとどまった。真珠湾攻撃の戦果を伝えられると、「バカな」と答えたという(前掲の伝記325頁に収められた通信参謀・飯田英雄の回想)。
米戦艦を一挙に叩いたという報告は、当時の海軍にとって最大級の吉報である。
だが初戦でどれだけ敵艦を沈めても、米国を屈服させる手段が生まれるわけではなく、生産力や資材の不足が解消するわけでもない。
井上が問うていたのは、初戦の勝ち方ではなく、その後の続け方だった。
1945年5月15日、井上は塚原二四三と共に海軍大将に進級した(「海軍辞令公報」)。終戦の3カ月前である。井上1人だけが最後に進級したわけではなく、“最後の海軍大将”は後世の通称だ。
井上の価値は、敗戦を言い当てた点よりも、対米戦争の問題を補給線、兵器、生産力、資材という継戦条件に分け、開戦前に文書化した点にある。海軍には危険を把握し、数字で示す人材がいた。
それでも開戦は止まらなかった。具体的な警告を開戦方針の再審査につなげる仕組みがなかったからである。

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伊藤 隆太(いとう・りゅうた)

政治学者

群馬県立女子大学・東京都市大学非常勤講師。博士(法学)。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。
同大学大学院法学研究科後期博士課程修了。慶應義塾大学・広島大学助教、日本国際問題研究所研究員等を経て今に至る。Co-Chairs of the IPSA Research Committees (RC12)、APSA Committee of Best International Security Article等を歴任。単著論文はInternational Affairs誌に‘Hybrid Balancing as Classical Realist Statecraft’ (2022)、‘Hubris Balancing’ (2023)、International Relations誌に‘A Neoclassical Realist Model of Overconfidence and the Japan–Soviet Neutrality Pact in 1941’ (2023)、‘Outrage Balancing’ (2026)、単著研究書は『進化政治学と国際政治理論』(芙蓉書房出版、2020)、『進化政治学と戦争』(芙蓉書房出版、2021)、『進化政治学と平和』(芙蓉書房出版、2022)、編著研究書に『インド太平洋をめぐる国際関係』(芙蓉書房出版、2024)等がある。

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(政治学者 伊藤 隆太)
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