シーズン401奪三振、両リーグでのMVP獲得など数々の大記録を打ち立て、「プロ野球史上最高の左腕」と称される江夏豊氏。78歳となった江夏氏にとって最後の書き下ろしとなる書籍『江夏の遺言』(江夏豊・松永多佳倫 共著/小学館刊)が、大きな話題を呼んでいる。
※本記事は『江夏の遺言』から本文の一部を抜粋、再編集したものです。
【「なあ、革命起こしてみんか」】
南海時代、偶然にもオレとおっさん(野村克也選手兼任監督)は隣のマンションに住んでいた。まさに目と鼻の先で、歩けば30秒ほどの距離だ。大阪球場でのナイターを終えて帰宅すると、それぞれ部屋で食事を済ませたあと、必ずおっさんの部屋へ行き、朝方まで野球談義をするのが日課だった。
ある晩のこと。いつものように灰皿が何度目かの山盛りになった頃、窓の外の空が白々と明け始めていた。ちょうどプロ野球の変革的な話題で盛り上がっていた。1977年の時点で、おっさんは「戦後の古臭い野球は、もう終わりや」と言い、こう続けた。
「これからの強いチームは、分業化されたチームほど勝ち残っていく」
当時のパ・リーグは、前期・後期制(1973~82年)を採用していた。そんな時代の流れを踏まえ、おっさんはこう説いていた。
「これからは、ピッチャーも初回から最後までひとりで投げきる時代やない。先発と、7回、8回、9回を専門に投げる投手に分業化されていく。
そして一拍置いて、おっさんはボソッとこうつぶやいた。
「なあ、革命起こしてみんか」
「革命って何ですか?」
「おまえに2回も3回も投げろとは言わん。1回だけを投げるピッチャーになってくれ。新しい投手の形として、革命を起こしてみんか」
最初は「何を言ってるんだ」と思ったし、正直、ピンとこなかった。ただ、「革命」という言葉の響きには妙に惹かれた。フランス革命、キューバ革命、明治維新......と、時代の節目には大きな変化が起こり、英雄になる者もいれば、志半ばで散っていく者もいる。何かを変え、何かを守るために、これほどまで人生を賭ける瞬間はないのだと思ったからだ。
じつは、リリーフ転向については、シーズン中にも打診されたが、その時はまともに取り合わなかった。
【リリーフ転向を決断した野村克也の言葉】
オレンジ色のカーテンの隙間からうっすらと朝日が差し込み始める。それがお開きの合図だった。世間さまの一日が始まろうとする頃、日をまたいで、ようやく長い一日が終わり、オレたちは寝床に就く。
その時、おっさんが満を持したような口ぶりで、ぽつりと呟いた。
「コンディションづくりに関しては、すべておまえひとりで考えてやってみい」
その言葉を聞いた瞬間、自分のなかで踏ん切りがついた。
「わかりました。やりましょう」
この日を境に生まれ変わる決断をしたオレは、広島移籍後の1979年、多くの人が真っ先に思い浮かべるであろう、日本シリーズ第7戦の「21球」へとつながっていくのだ。
山際淳司くんが書いたこの『江夏の21球』という作品があまりにも有名になりすぎたせいで、これまでずっと言えずにいたんだが、じつはあの試合前日、徹夜で麻雀をやっていた。しかもデーゲームだったから、睡眠時間は正味3時間ほど。ベンチにいても、とにかく眠くて仕方がなかった。
『江夏の21球』は、美化されて語られることが多い。だが、その裏で、徹マン明けの江夏がベンチで必死にあくびを噛み殺していたなんて話は、さすがに格好がつかない。まあ、オレとしては、本当のことなんだから、そのほうが面白いと思うんだけどな。
4対3と広島の1点リードで迎えた最終回、近鉄の先頭打者・羽田耕一に投じた初球をセンター前へ運ばれたところから始まった。まさか1点差の場面で、初球のストレートに手を出してくるとは思っていなかった。完全に意表を突かれ、頭の中がゴチャゴチャになった。
本来なら次の打者に集中しなければならないのに、頭の中ではずっと「羽田に打たれた」という思いが渦巻いていた。そんな状態で投げ続けるうち、ノーアウト満塁のピンチを招いていた。
【なぜわざわざ外のブルペンを使うのか】
羽田に初球を打たれたこと以上に、オレの心をかき乱したのは、ノーアウト満塁になった場面で、ベンチが池谷公二郎と北別府学をブルペンへ送ったことだった。「なんじゃ!」と怒りでブチ切れそうになった。
別に、「最後までオレを信用して心中しろ」と言いたいわけじゃない。延長戦も見据えて投手を準備するのは、監督である古葉(竹識)さんにとって当然の采配だし、そこに文句はない。ただ、大阪球場には室内ブルペンもあった。なのに、なぜわざわざ外のブルペンを使うのか。グラウンドで投げているオレは、「少しは配慮せえや」との思いが一気に込み上げてきたのだ。
後日、ブチ(田淵幸一)をはじめとする親しい仲間からは、「おまえの性格を知っている古葉さんは、わざと見えるように外のブルペンへ行かせたに決まっとる」と言われた。もし本当にそうだったのなら、古葉さんは相当な策士だ。
ブチとしては、「怒りがこもった豊の球は打たれない」と考えたのだろう。だが、あれは日本シリーズ第7戦の最終回。
たしかに、あえて怒りに火をつけることで力を引き出そうとしたのかもしれない。だが、それが悪い方向へ転ぶ可能性だってある。まさに一か八かの賭けだ。
この試合、7回一死から登板していた。9回の満塁の場面では、すでに球数は50球近くに達していた。当時は血行障害を抱えていて、50球を超えると極端に握力が落ちる。そうした事情も、古葉さんは当然わかっていたはずだ。
だからこそ、あえてブルペンを見せることで、「延長に入れば江夏を代えるぞ」と、近鉄に揺さぶりをかけたとも言える。
理由が何であれ、イライラは収まらなかった。
【古葉監督からの謝罪】
ノーアウト満塁で迎えた打者は、代打の佐々木恭介だった。前年には首位打者を獲得し、この79年のシーズンも打率3割2分を記録していた好打者である。
初球は、内角低めを狙ったカーブが外れてボール。その時、佐々木がわずかに反応した。ストレートだったら平然と見送ったはずで、佐々木がカーブを狙っていると確信した。そこで2球目は、ど真ん中の球を見逃しストライク。オレが言うのも何だが、佐々木はこの球は振るべきだった。
そして1ボール1ストライクからの3球目。高めのストレートを佐々木が引っ張り、打球は大きく弾みながら三塁線へ切れていった。この時、三塁手の三村敏之が、ジャンプして捕ろうとした際、グラブの先に触っていたのではないかというのだ。
こうして1ボール2ストライクと追い込んだところで、ファーストのサチ(衣笠祥雄)がマウンドへ寄ってきて、オレにこう声をかけた。
「おまえが辞めるなら、オレも一緒に辞めるから」
このひと言で、スーッと落ち着いた。なにより、自分の気持ちを敏感に察してくれたサチの心意気が、たまらなくうれしかった。そしてフルカウントから、最後はインローのカーブで空振り三振。これで1アウトとなった。
タケちゃん(北野武)は、『江夏の21球』を自作自演なんてネタにして笑わせていたけれど、オレはそんなに器用な人間じゃない。自作自演できるほどの技術があるなら、とっくに3人で片づけている。さっさと終わらせて日本一を決めたほうが、どれだけ身も心も休まることか。
次打者・石渡茂への「スクイズ外し」でピンチを脱し、広島が日本一を達成したことは、今さら説明するまでもないだろう。ただ、この試合が終わって以降、オレは古葉さんと翌年の開幕まで、まともに口をきかなかった。あのブルペンの一件が、どうしても腹に据えかねていたからだ。
翌年の開幕戦の日、オレは監督室のドアをノックして、こう告げた。
「去年の日本シリーズ最終戦でどうしても納得できないことがあったので、今日は帰らせてもらいます」
古葉さんは顔色を変え、謝罪してくれた。オレとしては、ひと言謝ってくれればそれで十分だった。だからこそ、そこで気持ちに区切りをつけ、新たな思いでシーズンへ入ることができた。
人によっては、意地の悪いやり方に映るかもしれない。だが、これはオレなりのケジメだ。勝負の世界で生きる者にとって、どうしても譲れないこだわりでもあった。
親友・サチの心意気、古葉さんとの確執と和解。そして野球人生でたどり着いた最高の芸術──『江夏の21球』は、さまざまな感情と人間ドラマが幾重にも重なって生まれた、二度と生まれない奇跡の連続だった。










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