5月5日、「ミスター・プロ野球」長嶋茂雄と、「ゴジラ」松井秀喜に国民栄誉賞が授与された。
今回この「国民栄誉賞」という肩書きを得た長嶋茂雄だが、振り返ってみるとこれまでにも「ミスター・プロ野球」以外でも数々の肩書きやニックネーム、あだ名を持っていた。
これほど様々な異名を持った人物もいないのではないだろうか。それはすなわち、一挙手一投足が常に注目され続け、衆目を浴び続けてきた(浴び続ける要素があった)ということでもある。過去のあだ名・異名・肩書きを振り返りながら、長嶋伝説の数々を今一度振り返ってみたい。


【チビ/ポチ/チトハア/六大学の星】
長嶋茂雄は、幼少の頃からあだ名に事欠かない男だった。自著『野球は人生そのものだ』の中にこんな記述がある。
《小学校ではチビなのでいつも一番先頭。
(略)その頃はあだ名も「チビ」だった。しかし、運動神経抜群で、運動会はいつも一等賞。(略)競争したら近所の「ポチ」にも負けないので「ポチ」というニックネームもあったほどだ》

後に「動物的カン」「アニマル」と称される選手になったことを考えると、幼少期に「ポチ」と呼ばれていたことはなんとも示唆的である。その後、地元の佐倉一高に進んだ長嶋は、高3の夏、はじめて「4番サード長嶋」の肩書きを得て、千葉県大会準々決勝で特大ホームランを放つ。試合には敗れたものの、このホームランが朝日新聞に掲載されて一躍注目選手となり、立教大学へ進学を果たす。そこで付けられたあだ名が「チトハア」だ。
長嶋茂雄研究本『定本・長嶋茂雄』(玉木正之編著)の中で次の記述がある。
《長嶋は、立教大学に入学して東京に出たことから、自分が田舎者であることを痛感させられる。彼は、自らの千葉方言に負い目を感じ、野球部の寮の電話番を忌避していたというのだ。(略)大学時代の長嶋の喋る言葉には妙なところで「チト」と「ハア」という言葉が挿入された。そのため、彼に「チトハア」というあだ名までついたくらいだった。(略)「チト」と「ハア」が、現在の「いわゆる」と「ひとつの」に転化したのかどうかはともかく、長嶋が方言を直す努力をして、それに成功していたなら、のちのスーパースターは誕生しなかった》

「チト」と「ハア」がスーパースターにつながったかどうかはさておき、立教大学で当時の六大学リーグ新記録となる通算8本塁打を放ち「六大学の星」と呼ばれ、まさにスター選手への階段を昇り始めた。



【マンガ/ハリケーン/ゴールデン・ボーイ】
プロ入り直後、当時の巨人軍監督だった水原茂から命名されたあだ名が「マンガ」。極めてマンガチックな動きを繰り返す人物だったからだが、その様子に関しては大学時代の同期・杉浦忠(元・南海)の言葉を借りてみたい。

《「ぶるぶるぶる、ぐわっぐわっぐわっと顔を洗い、ぐしゃぐしゃぐしゃと歯を磨き、がらがらがらと口をゆすぎ、ぶるんぶるんと小便の滴を切る。なにかにつけて大きな動作に、いつも思わず吹き出していた」「しかし、長嶋の大袈裟な動作が、いつの間にか、いかにもスーパースターな天真爛漫な豪快さに見えてきた」》(『定本・長嶋茂雄』より)

一方で、その劇画のような動きから繰り出されるダイナミックな守備・走塁・打撃面でのプレー描写から「ハリケーン長嶋」の異名も付けられたのがこの頃。長嶋以前、守備や走塁で客を呼べた選手はおらず、それゆえ、日本人の野球観を変えた男、と呼ぶこともできるだろう。

週刊誌や新聞紙上では「ゴールデン・ボーイ」ともてはやされ、当時としては異例の契約金(1800万円。
ちなみに中日は2350万円を提示したという)の高さから、国会答弁で「人身売買の疑いはないのか」と議題に上がったほどである。
果たして長嶋は、1年目から29本塁打・92打点を記録し、本塁打王と打点王の二冠を獲得。打率(.305)と盗塁(37)もリーグ2位という、とてつもない記録を打ち立てて新人王とベストナインにも選出された。もっとも、かの有名な「ベース踏み忘れ事件」がなければ本当は30本塁打であり、3割・30本・30盗塁といういわゆる“トリプルスリー”を取り逃がしたことだけは、忘れっぽい長嶋茂雄でも悔しい思い出であるという。

《あのホームランのベース踏み忘れがなければ、昭和33年に、背番号3の三塁手が、3割、30ホーマー、30盗塁の記録を残した……といった具合に、数字の3が、じつに美しくずらりと並ぶわけです。この美しい記録を逃したのは、いまも悔やまれますね。
はい》(『定本・長嶋茂雄』より)

記録でも美しさにこだわっていたというのが、実に長嶋茂雄らしい。


【忘れ物の卸問屋】
上述した“ベース踏み忘れ”に代表されるように、長嶋茂雄と言えば数々の“モノ忘れ”事件があり、それゆえ「忘れ物の卸問屋」という異名を頂戴することになる。有名なエピソードだけでも……
◎ストッキングを同じ足に2枚重ねて履き、「僕のストッキング、片方知らない?」
◎自宅の場所を忘れ、お手伝いさんに「長嶋茂雄です。僕の家、どこでしたっけ?」
◎試合後「車の鍵がない」と大騒ぎ。周りの選手も一緒になって鍵探しをする中、「ごめん。今日は電車で来てたんだ」etc.
と、忘れ物エピソードは他にも挙げればキリがないが、やはり外せないのは、当時幼稚園児だった息子・長嶋一茂(元・巨人)を球場に忘れて帰った、というエピソードだろう。

だが、子どもに関心がなかったかと言えばそんなことはない。もう一人の国民栄誉賞・松井秀喜の自伝『不動心』から長嶋茂雄の子煩悩っぷりを引いてみたい。
《はじめて(※長嶋の)ご自宅に伺った日のことです。素振りをするために地下室へ行くと、数多くのトロフィーや賞状が整然と並べられていました。さすが往年の名選手だと思いながら姿勢を正して見ていくと……それは全部、息子の一茂さんのものでした。監督がもらったものは、隅のほうにおいやられていました》

今回贈られた金のバットは6日~8日の阪神戦で東京ドームに展示されるそうだが、その後はどこに飾っておくのだろうか。


【ミスター・ジャイアンツ/皇室御用達男/燃える男】
そんな長嶋がスーパースターの座を決定的なものとしたのが、入団2年目(昭和34年)に行われた天覧試合・巨人×阪神戦だ。この試合で2本のホームランを放ち、特に村山実からサヨナラホームランを打ったことが長嶋自身の「ミスター・ジャイアンツ」の地位を確立し、ひいては巨人を“球界の盟主”の座に、野球を“国民的娯楽”の地位に押し上げることとなった。
長嶋茂雄という打者が特徴的なのは、こうした“スペシャルイベント”であればあるほど打ちまくったという点だ。
◎開幕戦での本塁打・通算10本(歴代1位)
◎日本シリーズMVP4回受賞(歴代1位)
◎日本シリーズの通算打率.343(160打数以上で歴代1位)
◎オールスターの通算打率.313(130打数以上で歴代1位)
とにかく、日本中が注目する試合では必ずといっていいほど活躍する長嶋の姿があった。
さらにすごいのが、上記の天覧試合に代表される皇室観覧試合。全10試合35打席で18安打。通算打率は脅威の.514。通算7本塁打とともに日本記録である。この活躍をもって、「皇室御用達男」なる言葉まで生まれたほどだ。
《王貞治は「記録」に残る選手。長嶋茂雄は「記憶」に残る選手》とは元日本テレビアナウンサー・徳光和夫の言葉と言われているが、まさに、みんなが期待し、衆目の記憶に残りやすい場面でこそ活躍するのが長嶋茂雄という男であり、ここから「燃える男」のニックネームも生まれることとなった。


【ゲス・ヒッター】
長嶋茂雄の打撃面での呼称には「ゲス・ヒッター」というものもある。「guess hitter」つまり、ヤマハリ・ヤマカン打者ということ。“来た球を打つ!”が長嶋の打撃の極意であったという。
《アンパイアや観客から大きくゾーンを外れているように見える球でも僕が「来た」と思えばそれは、僕にとってはストライクだった》(『野球は人生そのものだ』より)
それ故、敬遠のようなクソボールでもヒットにするなど、常人では理解できない打撃理論を持っていたが、どうやら理解できないのは“人間”だけではなかったらしい。
《コンピュータを使いましてね。ぼくと王ちゃんのバッティングを分析したことがあったんですよね。そうして、まあ、得意なミートポイントだとか弱点だとか、打球の飛ぶ方向を詳しく分析して、いわゆる、みなさん方がよくご存知の「王シフト」というやつを編み出したんですが、ぼくについては、分析できなかったらしいんですよ。コンピュータもお手上げだったと(笑)。まあ、手のないコンピュータがどんなふうにお手上げだったのか知りませんが》(『定本・長嶋茂雄』より)

もっともコレは逆もまたしかりで、長嶋が「来た」と思わなければ、たとえ真ん中であってもストライクには見えないらしい。板東英二が投じたど真ん中に「今の球はなんて魔球だ」と叫んだエピソードはここに起因している。


【カンピュータ】
「我が巨人軍は永久に不滅です」の言葉を残して引退した翌年から巨人軍の監督を務めた長嶋茂雄。しかし、長嶋巨人はいきなり球団創設以来初(にして唯一)のシーズン最下位に転落し、その後もなかなか勝てない日々が続いた。その奇妙な采配は観客や視聴者だけでなく、選手やコーチ、OBら解説陣も驚かせ、「カンピュータ野球」と呼ばれることになるのだが、むしろ狙ってそのような采配をしていた節がある。いわゆるひとつの浪人時代、劇作家・井上ひさしとの対談において、長嶋は次の言葉を残している。
《何もブック・ベースボール(※教科書通りの野球)を否定はしませんが、いまだったら、(井上)先生だってベンチに入って采配をふれますよ。でも、そのくらいおもしろくないんですね。1たす1は2なんていうのは、僕はイヤですねぇ。1たす1が5にも10にもなる。ヤケドすればマイナス2にもなる(笑)。そういうドラマチックな、ですね、野球のからみ合いをみせてほしいという感じがします》(『The座』No10より)

そんなドラマチックな采配が次々と生まれたのが1993年からの第2次長嶋政権であり、その象徴が1994年の「10・8決戦」であるだろう。
報知新聞に寄せた優勝手記の中で、「私の野球はジャズみたいなものだ」として、次のように記している。
《指揮者のタクト一本で、整然と各パートが譜面通りに音楽を奏でるオーケストラが西武の野球だとしたら、私の野球は演奏のノリの中で様々なアドリブが飛び交う野球である》

カンだったのか、アドリブだったのかはともかく、その後も続く「メークドラマ」「メークミラクル」な長嶋茂雄の野球によって、1993年に開幕したJリーグ人気に押されていた野球が息を吹き返し、今日でもまだ隆盛を極めているのは紛れもない事実であるだろう。


【ミスター・プロ野球】
他にも長嶋茂雄には異名・あだ名が数多くある(大将/天才/長嶋気象台/ミスター・サンヨー/バンホーテンのおじさん.etc)が、字数も尽きてきたので割愛したい。
だが、今の長嶋茂雄にとってもっともふさわしい別名は、間違いなく「ミスター・プロ野球」であるだろう。そしてその二つ名を最も誇らしく感じているのもまた、長嶋自身なのではないだろうか。大学入学直後に亡くなった父の遺言、それこそが、後の長嶋茂雄の生きる道を指し示していた。最後も自著『野球は人生そのものだ』より引用したい。

《野球をやるからには六大学一番の選手にならんといかんぞ。プロに行っても富士山のような日本一の男になれ》
この言葉の通り、野球の世界で日本一の男となった長嶋に授与された「国民栄誉賞」。その先に残された願いとは……

《人生、最後の最後まで野球とともに生きることができたら、こんな幸せなことはない》

(オグマナオト)