おなかがいっぱいになるのはとても幸せなことだ。
おいしくて当たり前の料理が、当たり前においしい。
そのことにありがたみを感じなければならないほど、この世の中はひねくれている。
一人の中年男がいる。独り者だ。独りであることに慣れていて、もはや手出しができないほどにたたずまいが完成されている。それは洗練の成果である。しかし洗練された孤独は、現実においては滑稽に感じられることがある。

『孤独のグルメ』は、その滑稽のダンディズムを味わう作品だ。
だってさ、大のおとなが、腹を空かせて街をさまよう話なんだもの。滑稽だよね。
そこがたまらなく愛らしいのではあるが。

久住昌之作・谷口ジロー画の漫画『孤独のグルメ』が映像化されると聞いてびっくりした。いや、映像化はできるだろうが、どうやって井之頭五郎を現実のものにするのかが理解できなかったのである。
演じるのは、これがドラマ初主演となる松重豊(プロフィールを見ると、柔道2段で散策が趣味とある。そのへんが評価されたか?)
愛読者には説明の必要もないだろうがあえて書く。
井之頭五郎とは『孤独のグルメ』の主人公であり、唯一のレギュラーである。彼は個人営業の輸入業者で、納品などのために首都圏のほうぼうを動き回っている。一人で行動しているのだから、当然飯を食うのも一人だ。咳をしても一人。
彼が腹を空かしながら街を歩き、店を見つけ、飯を食うまでの顛末を追い続けるのが『孤独のグルメ』各話のあらましである。
そんなことで作品は成立するのか、と心配になっちゃう読者もいるだろうが、大丈夫。成立するのである。五郎の独白によって話は組み立てられているからだ。その独白、及び彼が飲食店の関係者と交わす会話が本篇の読みどころといっていい。その台詞回しに、癖になるような個性があるのだ。
今はなき「PANJA」1994年10月号に掲載された第1話「東京都台東区山谷のぶた肉いためライス」のときから、スタイルは完成されていた。

ーー(腹を空かせて街を歩きながら)まいったな…いったいどこに迷いこんでしまったんだ/焦るんじゃない/俺は腹が減っているだけなんだ/腹が減って死にそうなんだ

未知の街で男が彷徨っている、とくれば次の場面では悪漢から逃げている美女が救いを求めて彼の胸に飛び込み、追っ手と男との死闘が始まる、というのが娯楽映画の常道だが、『孤独のグルメ』ではそうはならない。井之頭五郎の戦いの場は「めし屋」なのである。
初めて入る店というのは不安を感じさせるものだ。美味いのか。味はよくとも量が適切でなければ当たりとはいえない。
そもそも、店員の態度や店内の雰囲気だって一つの味の要素だ。常連ばかりの店で一見の客を快く思っていない可能性だってあるーーといった心中の葛藤を経て、出てきた料理を食べ、満足か不満、いずれかの気持ちを抱えて店を出る。誰もが日常的に体験しているそうした過程を、井之頭五郎はトレースするのである。
だからたまに失敗するし、至福の時間を味わいもする。

ーーうーん…ぶた肉ととん汁でぶたがダブってしまった/なるほど…この店はとん汁とライスで十分なんだな(前出。第1話)

ーーマズくない! けっしてマズくないぞ!!/ああ うまい! なんだかなつかしい味だ(うっすら反感を抱いていた自然食レストランで。
第10話「東京都杉並区西荻窪のおまかせ定食」

井之頭五郎は、読者の前に二通りの自分しか見せてくれない。お腹が空いている自分と、お腹がいっぱいの自分だ。この世界のどこかにいそうなキャラクターではあるが、やはり漫画としてのデフォルメを受けている。はらぺこの反動から火がついてしまうと、彼はかなりの「食いしん坊」になるのである。

ーー(焼き肉屋でスイッチが入り)うおォン 俺はまるで人間火力発電所だ(第8話「京浜工業地帯を経て川崎セメント通りの焼き肉」)

はらぺこだと彼はかなり機嫌が悪くなる。その性格を表す最たるものが、あの台詞だろう。腹を空かせて入った店の雰囲気があまりに悪かったことにブチ切れ、五郎は激高する。いや、その気持ちを伝えたくて、思わず言ってしまうのである。

「モノを食べる時はね/誰にも邪魔されず自由で/なんというか救われてなきゃあダメなんだ/独りで静かで豊かで……」(第12話「東京都板橋区大山町のハンバーグ・ランチ)

案の定店主からは「なにをわけのわからないことを言ってやがる」と的確な切り返しをされてしまうのであった。
この第12話で見せた「実は古武術の達人」という一面や第13話でわかった「意外といい体をしている」といった側面、これも漫画だからこそ表現できる過剰である。こうした虚構性を松重豊の身体は背負えているのだろうか。その辺に不安を感じながら、2012年1月4日に放映された第1話を観てみた。

結論。松重豊、いいんじゃないか。上背があるので、漫画に描かれた井之頭五郎よりもひょろっとして見える(あの体格で「それ以上いけない」をやるとどうなるのだろうか)。また、ちょっとおちょぼ口なので五郎ほどガツガツ食べている印象がない。そういう違いはあるのだが、お腹いっぱいになってほっこりしたときの顔はまさしく井之頭五郎だった。あの幸せそうな顔、できたら毎回見たいな。
それより驚いたのは脚本のほうである。完全オリジナルだったのだ。第一話「江東区 門前仲町のやきとりと焼き飯」に該当する原作は存在しない。実在する居酒屋がモデルになっており、番組の最後に久住昌之本人が登場し、その店を訪れる「ぶらっとQUSUMI」というコーナーがあった(久住は劇伴音楽も提供している)。ドラマの中にグルメ番組が混ざったような形態だ。原作で強調されている、井之頭五郎の街からの浮き上がり方、異邦人感といったものも画面からは排除されていた(だからAパートに違和を感じる)。
ややコミカルな味の『孤独のグルメ』、原作のように裏設定を匂わせるような作りは難しいだろう。TV版は別物と割り切って観たほうがよさそうだ。気になるのは原作に登場した数々の名台詞の扱いだが、これに関してはぜひ今後に期待したい。やっぱり五郎に「持ち帰り! そういうのもあるのか」って言ってほしいよね。

なお『孤独のグルメ』は現在も「週刊SPA!」で不定期連載中。wikipediaを見たら、作品リストから2011年7月5・12日合併号掲載の「三鷹のお茶漬けの味」が抜けていた(この回の名台詞は「人生には…大嫌いなものを黙って食べなきゃならない時もある/だけど人が嫌がるものを無理矢理食わせる権利は誰にもない」です。これはドラマのオープニングにも使われていた)。だから2011年1月現在、全部で24話+特別篇1のはずである。

あとは余談になる。
井之頭五郎は、久住昌之の中枢にあるものを体現したキャラクターだ。久住は泉晴紀とのユニット、泉昌之名義でデビューを果たしたが、1981年に彼らが「ガロ」に持ちこんだ作品「夜行」に、すでに五郎の原型は登場していた(『かっこいいスキヤキ』所収)。トレンチコートのタフガイ・本郷播だ。同作は、夜行列車に乗りこんだ本郷が、駅で購入した幕の内弁当をいかに美味しく、物語のような起伏を味わいながら食べられるかの闘いに挑むという話である。
この辺の、他人にはどうでもいいが自分にとっては大きな意味を持つこと、への視点がユニット・泉昌之の1つの武器だった。豪放磊落なキャラクターが登場する連作『豪快さんだっ』にも豪快さんがカツ丼の食べ方にこだわるエピソードが登場する(大盛りがないので2杯食べる、というのがおかしい)。食事ではなく生活全般にその興味を広げたのが連載作品『ダンドリくん』で、バブリーな世相に背を向け、下宿内での生活を豊かにすることにこだわるありようは、文学でいうミニマリズムに時代錯誤の要素を加えてパロディ化したものだった。

細部のふとしたディテールに関心を持ったり、普通であることの意味を考えたりするエッセイストの要素が泉晴紀ではなく久住昌之の側に多いということは、1985年に久住が単独で発表した初めてのエッセイ『近くへ行きたい。』を読んで知った。これは久住が近所のラーメン屋を定期的に訪れ、店員たちの人生を勝手に想像していくという定点観測ルポだ。日によって当たり外れがあるという「江ぐち」の味を『近くへ行きたい。』刊行時、27歳だった久住は「アタリハズレがあるというのは、もう「お楽しみ」以外の何ものでもありません」と書いた。それから25年後、同書を加筆して『孤独の中華そば「江ぐち」』として再刊した際に、52歳になった久住はもう少し深みのある言い回しを使って、こう書いている。

ーー味には相変わらずいつも波がある。(中略)ボク自身、自分にも毎日波があることを知っている。同じ面白さの作品を毎週作るなんてことはできない。(中略)そういうとき、江ぐちのラーメンを食べると、心が和む。肩の力が向ける。ラーメンなんだから、と思う。そしてマンガなんだから、いいじゃないか、と思う。

ものを食べないと生きていけない人間は、食事が人生の節目になっている。そしてものをおいしく食べられる自分と、その食事とは軸を一にして同期している。久住はそのことを繰り返し作品の中で書き続けてきたように思うのだ。
たとえば『食い意地クン』は、特定の食べものを前にするとつい食い意地を張ってしまう自分のおかしさを見つめたエッセイである。ここでの久住は、ひどく食いしん坊だ。「カレーライス」の回の「カレーライスは、理屈を言わなくても、あの匂いにかき立てられて、興奮のままにかき込めば、おいしさなんてあとからついて来るんだ」などという文章は、そのまま井之頭五郎の台詞になりそうである。
久住にはもう1冊、五郎と同じように独りで飯を食べることをテーマにした『野武士のグルメ』というエッセイ集がある。その中の「朝のアジ」「九月の焼きそビール」という2篇が、私はとても好きだ。お腹がいっぱいになった人間には、世界が本当に幸せなものに見える。そのことについて書いたエッセイなのである。『孤独のグルメ』ファンの方、よかったらぜひ読んでみてください。

 ーー白いごはんと、キュウリとワカメの酢の物、アサリの味噌汁。
 お決まりの味付けのりと梅干しと納豆も付いている。
 それが高校生六人のお膳にならんでいる。
 今考えると、光り輝く青春の健康と自由と幸福の情景だ。(「朝のアジ」)

(杉江松恋)