■史上初の“2時間切り”
4月26日に行われたロンドンマラソンで、ケニアのセバスチャン・サウェ選手がマラソンの世界記録を更新し、記録対象となる公式大会で史上初めて2時間を切る、1時間59分30秒という驚異的なタイムを打ち出しました。
振り返れば、人類が初めてマラソンで2時間10分を切ったのは、オーストラリアのデレク・クレイトン選手が2時間9分36秒で世界記録を出した1967年のこと。
そして、マラソン界に大きな影響を与えたNIKEの厚底シューズ「ヴェイパーフライ」が登場する前の世界記録は、デニス・キメット選手(ケニア)の2時間2分57秒だったのですが、2018年に「ヴェイパーフライ」が登場してから一気にタイムが更新されていき、今回2時間を切りました。
サウェ選手が今回履いていた厚底シューズは、adidasの「Adizero Adios Pro Evo3」ですが、世界記録が出たシューズということでランナーの間でも一気に注目度が高まり、7万円以上という高価であるにもかかわらず、4月27日にアメリカで販売されたところ瞬時に完売したようです。日本での販売は未定のようですが、もしも国内販売された場合には即完売になるでしょう。
実はadidasのシューズによってマラソンの世界記録が更新されたのはこれが初めてではなく、NIKEの厚底シューズ「ヴェイパーフライ」が登場する直前は、adidasのシューズを履いたエチオピア、ケニアのランナーによって度々マラソンの世界記録が更新されていました。
今回サウェ選手によって久々にadidasのシューズが世界記録を出すまではどのような状況だったのでしょうか。そして、サウェ選手が履いたシューズは何がそれほど画期的なのでしょうか。
■adidasの復権
2007年に長距離界の「皇帝」ハイレ・ゲブレシラシエ選手(エチオピア)が、2時間4分26秒で世界記録を出したときのシューズがadidasの「Adizero Japan」で、以降、2014年にデニス・キメット選手(ケニア)が「Adizero Japan Boost2」で世界記録を出すまでずっと、adidasのシューズを履いたランナーによってマラソンの世界記録が更新されていました。
そのため、当時は市民ランナーの間でもadidas愛好家はとても多く、マラソンを走る筆者もよく「Adizero Japan Boost」シリーズを好んで使用していました。この「Adizero Japan Boost」シリーズは、従来の薄底シューズと比べるとクッション性が高く、やや厚底シューズでしたので、厚底シューズの先駆けといえるかもしれません。
そんな中、2018年にNIKEが販売した厚底シューズ「ヴェイパーフライ」が状況を一変させます。
そしてそれを改良した「ヴェイパーフライ ネクスト%」は、ソールの形状が図1のようになっており、足が勝手に前に進むような従来にない革新的な効果をもたらしました。
その後「ヴェイパーフライ ネクスト%」を履いて走るランナーは軒並みいい記録を出すようになり、2018年にエリウド・キプチョゲ選手(ケニア)が世界記録を出して以降、2023年のケルヴィン・キプタム選手(ケニア)の世界記録までずっとNIKEの厚底シューズによって世界記録が更新されました。
日本でも、2020年1月の第96回箱根駅伝では実に90%近くのランナーがNIKEの厚底シューズを履くという事態になり、市民ランナーでも記録狙いのランナーはほとんどNIKEの厚底シューズを履くという状況になりました。
NIKEの厚底シューズの技術はしっかりと特許で守られていたため、他社がNIKEの特許に引っかからないように、かつNIKEの厚底シューズを上回るシューズを作るにはだいぶ時間がかかるため、しばらくはNIKEの一強状態が続いていました。
そうした中、adidasやasicsなどのメーカーが数年かけて開発を重ね、NIKEと同等のシューズが作られるようになってきて、そしてようやくadidasのシューズが12年ぶりに世界記録を出したというわけです。
今回、サウェ選手が「Adizero Adios Pro Evo3」を履いて世界記録を出したことはまさに“adidasの復権”といえますが、「Adizero Adios Pro Evo3」は、片足の重量が97gで、およそ卵2個分という驚異的な軽さだけでなく、“トランポリン構造”を取り入れた点が従来の厚底シューズと大きく異なります。
では、トランポリン構造とは具体的にどのようなもので、それを実現したadidasの特許出願中の技術とはどのようなものなのでしょうか。
■Evo3に採用されているトランポリン構造とは
従来の厚底シューズは、シューズの中(ソール)に硬いカーボンプレートが入っていることが一般的でした。
このカーボンプレートを活かしたバネのような動きによって推進力が生まれるのですが、「Adizero Adios Pro Evo3」は、カーボンをソールの外枠だけに配置して、内側は空けて下のクッションフォーム(非常に柔らかいLIGHTSTRIKE PRO EVOフォーム)を直接踏みしめるような構造になっています。
この構造によりカーボン部分を大幅に削れるため軽量化が実現。片足97gという驚異の軽さは、このようにカーボン部分を大幅に削ることで実現されています。
そして、足が柔らかいクッションフォームを直接踏みしめるため、足への衝撃が少なくなります。さらに、外側のカーボンが枠として反発を支えるため、クッションフォームの弾みが最大化されて従来よりも弾む推進力を得ることができます。
こうしたトランポリンのような弾みをシューズで実現するというのが「Adizero Adios Pro Evo3」の最大の特徴であり、adidasが特許出願中(特許出願番号:特願2024-188725)の技術によって実現されています。
特許文献においても、この技術の目的が、「高い緩衝性と、着用者への大きいエネルギーリターンの提供、そしてシューズの軽量化」を実現することであり、トランポリン構造にすることで、着用者が走行中に受ける衝撃を外枠のカーボンに蓄えて、推進力に変えることができる旨が記載されています。
また、疲労によりランニングフォームが崩れてもこのようなトランポリン構造による恩恵を受けられると書かれているので、疲れが出てくるレース終盤でも推進力が維持できる可能性があります。
「Adizero Adios Pro Evo3」には、adidasのほかの特許技術など(アッパーやソール、クッション素材などに関する特許技術等)も用いられていると推察でき、adidasの技術を総結集して作られたシューズだと考えられます。
adidasのほかにも、日本メーカーasicsも負けじといいシューズを開発して特許を多数取得しており、また、マラソン日本記録保持者である大迫傑選手が履いている中国メーカーのシューズ「リーニン」も技術開発を進め、多くの特許を取得しています。
今後も各社の技術開発が激化し、革新的なシューズが次々と生まれてくると考えられます。どこまでマラソンの記録が更新されていくのか、これからも目が離せません。
▼藤枝 秀幸プロフィール大手IT企業などでSEとしてシステム開発などに従事した後、2009年に「藤枝知財法務事務所」を開業。以降、IT分野やエンタメ分野を中心に契約書業務や知的財産業務を行う。メディアや企業のコンテンツ監修なども手がけている。
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