子供の頃から雑誌が好きで、編集者・ライターとして数々の雑誌の現場を見てきた新保信長さんが、昭和~平成のさまざまな雑誌について、個人的体験と時代の変遷を絡めて綴る連載エッセイ。一世を風靡した名雑誌から、「こんな雑誌があったのか!?」というユニーク雑誌まで、雑誌というメディアの面白さをたっぷりお届け!「体験的雑誌クロニクル」【37冊目】「誰も『SPA!』を真似できなかった(前編)」をどうぞ。
【37冊目】誰も『SPA!』を真似できなかった(前編)
1987年4月に(そこしか内定取れなかったのでやむなく)新卒で入った教育系出版社(というか実態は訪問販売の教材制作会社)をさっさと辞め、新聞の募集広告に応募して採用された編プロで働き出したのが88年1月末のこと。そこで『モノ・マガジン』(ワールドフォトプレス)の特集や別冊の仕事をした話は【7冊目】に書いた。当然まだライターやカメラマンの人脈もなく、先輩編集者に紹介してもらった人たちと仕事をしながら経験を積んでいた時期である。
そのとき仕事をしたライターの中にKさんという人がいた。取材や資料をもとに手堅い原稿を書くタイプの人で、雰囲気的には記者とかジャーナリストという感じ。原稿は遅かったが、当時の私からすれば“頼れるベテラン”というイメージだった。とはいえ、10歳上だったとしてもまだ30代前半なので、雑誌業界的には若手かせいぜい中堅クラスだったろう(正確な年齢は知らない)。
そのKさんからある日、電話があった。このたび『週刊サンケイ』(サンケイ出版→扶桑社)がリニューアルして、まったく新しい雑誌になる。自分はそこで仕事をすることになっているが、スタッフ募集中なのでキミも一緒にやらないか、というお誘いだった。
最初の会社を辞めた理由は「書店で普通に売ってるような雑誌を作りたい(けど、この会社にいては無理)」ということだったので、メジャーな週刊誌へのお誘いには惹かれるものがある。が、新卒で入った会社を10カ月で辞めた何の実績もない人間を拾ってくれた編プロを、また3カ月ほどで辞めるのはさすがに人としてどうかと思ったし、リニューアルした雑誌がどんなものになるのかもわからず、「とりあえず今の場所で頑張ります」ということで丁重にお断りしたのだった。
その2カ月後、「週刊誌の突然変異」という触れ込みで世に出たのが、『SPA!』(扶桑社)である。新装刊号(1988年6月9日号)の表紙は、同年公開の映画『帝都物語』で一躍有名になった怪優・嶋田久作で、その顔面力はインパクト抜群。キャッチコピーは「スパ!と図星発見――情報と遊べる痛快WEEKLY」だった。誌名の由来は「時代をスパッと斬る」という説が有力だが、定かではない。
巻頭目玉企画は「ニュース戦争インサイドトーク」と題した木村太郎と久米宏の対談。続いて「NEWS CHOP」なるニュースコーナー、「NEWS CUBE」と称してロス疑惑や赤報隊事件に関するノンフィクション記事……と、このへんまでは総合週刊誌だった『週刊サンケイ』のテイストを引き継いでいる。しかし、そこからあとが一味違った。
「見参!! もう90年代を走っている次世代型ビジネスマン」「全国激安ショップ・ガイド」といった記事は『DIME』(小学館/1986年創刊)や『日経トレンディ』(日経ホーム出版社→日経BP/1987年創刊)を思わせる。石ノ森章太郎のマンガ『姫刑事(ひめでか)』、安部譲二、森村誠一の連載小説は当時としても少々古めかしいが、「タモリのゴルフ天国」なんて記事はいかにもフジサンケイグループらしいし、「嘉門達夫のお気楽作詞・替え歌教室」「まみちゃん(山瀬まみ)のニュース塾」「高田文夫のギョロめ八目」などの連載もフジテレビっぽい。
それもそのはず、初代編集長はフジテレビ出身の宇留田俊夫氏。紙媒体の経験はなかったが、フジサンケイグループ総帥・鹿内春雄からの要請で任に就いた。『昭和40年男』(クレタパブリッシング)2016年2月号掲載のインタビューによれば、就任に当たって出した条件が2つあったという。
〈ひとつは2年の間だけ、もうひとつは編集部の人選と毎号の企画への口出しは無用というものだったのですが、鹿内さんはどちらも承諾しちゃったんです(笑)〉
かくして〈渋々初代編集長を引き受けた〉宇留田氏が打ち出した〈政治色を極力控え、ビジネス・トレンドの潮流をいち早く取り上げる〉〈まだあまり知られていない遊びや趣味にスポットを当てる〉という方針に、長年『週刊サンケイ』に携わってきた編集部員は反発し、多くのスタッフが去っていった――と記事にはある。しかし、抜本的なリニューアルにおいて、それはむしろ渡りに船だったのではないか。
当時の編集部員の一人で『SPA!』3代目編集長・靏師一彦氏の著書『「週刊SPA!」黄金伝説1988~1995』(朝日新聞出版/2010年)によれば、靏師氏自身も含め『週刊サンケイ』からの残留組が半数ほどいたらしいが、いずれにせよ大改革には違いない。
それに伴い、対象読者層も大きく変わった。
〈読者を若返らせるというのは大命題でした。それも10歳以上ですね。具体的にいうと30歳前後の会社員です。(中略)それと女性に敬遠されないように、ということは心がけました。この年に『Hanako』が創刊されましたが、あの雑誌は働く若い女性を購買層に想定して、大きな支持を得ましたよね。僕も、男性読者だけに目を向ける時代は終わりだと感じていましたから、デザインも内容も含めて、“清潔感”は重視しました〉と宇留田氏は語る。実際、デザインはオヤジ週刊誌と違ってポップだったし、新装刊号には「脱パッケージ結婚宣言」なる記事も載っているが、それはつまり読者対象を独身に設定しているということだ。
『昭和40年男』の記事には、〈編集部を去ったベテランの記者や編集者たちに代わり、宇留田は想定読者に近い20代から30代の才能を必死で社外からかき集めた〉との記述もある。
一方、私のほうはといえば、Kさんの誘いを断って残留した編プロで働いて働いて働いて、その編プロの親会社的なワールドフォトプレスに移籍してさらに働いて働いて働いて、1991年の秋にフリーになった。『Miss家庭画報』(世界文化社)の文化欄をレギュラー仕事として、ほかにもいろんな雑誌や単行本の仕事をする。そこで、誰だったかの紹介で『SPA!』に売り込みに行ったのが、1992年1月のこと。当時のスケジュール帳を見たら、その翌月にはもう「SPA!入稿」と書いてある。さっそく仕事をもらったわけだ。
しかし、この頃の『SPA!』は新装刊時とは少し変わっていた。編集長は2代目・渡辺直樹氏に交代しており、ロゴや表紙デザインもリニューアルされている。左上に赤地に白抜きで「SPA!」のロゴが入り、サイドにタテに大きく特集タイトルが入るというフォーマットは、今やすっかりおなじみだ。内容的には、報道色がさらに薄れ、ビジネスやライフスタイル、トレンド、カルチャー、面白ネタなどの企画モノ中心となっている。
この「企画モノ中心」というあり方が、週刊誌としての『SPA!』を特異な存在にした。
たとえば、「小和田雅子さん報道のドタバタウォッチング」(1993年2月10日号)。皇太子妃内定が報じられた小和田雅子さん(当時)をめぐって、猛烈な取材合戦が勃発した。そこに『SPA!』もおっとり刀で参戦し、私はライターとして小和田邸前に駆け付けたのだが、取材対象は小和田家関係者ではなく、そこに集結しているマスコミだった。
小和田邸前で張り込みを続けている記者たちの陣取り合戦のルール、食事やトイレ事情について話を聞く。雅子さんの双子の妹のどちらかが愛犬ショコラの散歩に出てくると各社のカメラは一斉にそちらを向くのだが、『SPA!』のカメラマンだけは逆にマスコミ側を向いていて、それ自体、ちょっと面白い構図だった(ちなみに、トイレは近所のガソリンスタンド、食事は弁当か出前で、出前は「小和田邸前」と言えば持ってきてくれたという)。
この場合は企画ありきで仕事を振られたパターンだが、持ち込み企画を丸ごと担当することもあった。「誰もやろうとしなかったC級テーマの研究論文」(1992年4月15日号)なんかは5ページ・8人分をアポ取りからカメラマンの手配、取材・執筆まで全部一人でやっているので、たぶんそうだ。
ただ、企画時点では単なる「珍コレクター/マニア特集」だったのを、担当編集者の「もうひとひねり欲しい」という要望で「研究論文」と銘打つことになった。そこで「リカちゃん人形にみるバブル崩壊後の家族形態」「理髪店のサインポールにみる合理主義の欠陥」「公共料金領収印にみる金融機関の労働の倫理」など、もっともらしい見出しを掲げ、「バブル崩壊後、核家族から大家族へと若者の志向は変化する」といった、いささかこじつけめいた「結論」も付けている。
この「ひとひねり加える」というのも当時の『SPA!』の企画のポイントだった。麻雀で言えば二翻(リャンハン)縛り。面白ネタだけ、タイムリーなだけではダメで、プラスアルファが必要なのだ。前述の例でいえば「小和田雅子さん」に「報道のドタバタウォッチング」が加わって初めて企画として成立する。
もっとも、ネタ自体が一定ラインを越えていればOKなところもあって、「知られざる小さな独占企業たち」(1992年6月17日号)、「知る人ぞ知る! プロ中のプロ! 仕事現場の達人たち」(同8月26日号)なんかは、わりとストレートな企画だった。
前者は、世間的に名前は知られていないものの身近な製品(アイスクリームのコーンの紙、縫い針、輪ゴム、ゴルフのスコアカード用鉛筆、パチンコ玉など)で圧倒的シェアを占めている会社を紹介したもの。後者では、いろんな業界の現場(パワーショベル、アイロンがけ、中吊り広告交換、ハンダ付けなど)で達人級の技を持つ人たちを集めた。
インターネットのない時代、こうした企画の取材先探しは、電話が頼りだ。当たりをつけた業界の団体や協会、企業にひたすら電話する。
この時期の企画で我ながら気に入っているのは「チラシ・カタログ・通販で見つけた笑えるセールス・コピー傑作集」(1993年12月30日・1994年1月6日号)。タイトルどおりの企画だが、これがマジで傑作なのだ。
〈警察の本物を良心的価格でどうぞ〉(特殊警棒)、〈外性器は実物そっくり。小陰唇は開きます〉(看護実習用模型)、〈仕事帰りは社長の奥さんの居酒屋へ直行〉(内装工の求人)、〈味の素や東芝の工場を塗装〉(塗装工の求人)、〈客室係による民謡〉(温泉旅館)、〈1万円以上お買い上げの方には新宿駅までのバス券を進呈〉(天文グッズ専門店)……など。そこをアピールするんですか? ほかに売りはないんですか? というビミョーなセールス・コピーを集めてツッコミを入れた。
しかし、この一見くだらない原稿が意外と大変だったのだ。一本一本は短いが、その中で内容を説明しつつツッコミ入れてオチをつけねばならない。しかも担当編集Aさんのダメ出しが、口調は優しいながらハードルが高く、簡単にOKが出ない。今はもちろん若い頃も、あんまり原稿にダメ出しされたことはないが、『SPA!』だけは別。特にAさんは厳しくて、苦労はしたが勉強になった。
そうした企画のほかにカルチャー系特集のインタビュー取材などもやっていて、気がつけば月イチどころか2~3週に1本ぐらいのペースで入稿している。企画の採用率も結構高く、ほぼレギュラー仕事といってもいい状況になってきた。
そんな折、よく仕事をしていたモノクロ特集班のデスクに「編集をやらないか」と誘われ、1994年からは業務委託契約として編集部にデスクを置くことになる。契約の際、『SPA!』の業務に差し障りない限り、他社の仕事もしていいという項目は入れてもらった。【17冊目】で書いたとおり、当時は『マルコポーロ』(文藝春秋)の契約スタッフもやっていたので、2つの編集部を掛け持ちすることになる。
『マルコポーロ』は、その翌年、1995年2月号で廃刊となるが、『SPA!』との付き合いは長く続いた。とはいえ、それがまさか四半世紀にも及ぶとは、このときは想像もしていなかったのであるが。(後編に続く)
文:新保信長
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