子供の頃から雑誌が好きで、編集者・ライターとして数々の雑誌の現場を見てきた新保信長さんが、昭和~平成のさまざまな雑誌について、個人的体験と時代の変遷を絡めて綴る連載エッセイ。一世を風靡した名雑誌から、「こんな雑誌があったのか!?」というユニーク雑誌まで、雑誌というメディアの面白さをたっぷりお届け!「体験的雑誌クロニクル」【38冊目】「誰も『SPA!』を真似できなかった(後編)」をどうぞ。
【38冊目】誰も『SPA!』を真似できなかった(後編)
前回書いたとおり、1994年から『SPA!』(扶桑社)で編集として仕事をすることになった。主に担当したのは後半モノクロ特集、部内で「C級」と呼ばれていた枠である。「C級」とは何かという定義を聞かされた覚えはないが、B級よりもさらに低い“下から目線”で世の中を見るスタンス――と自分なりに解釈していた。
基本5ページの特集を2週に1本入稿する。楽そうに思えるかもしれないが、これは結構大変だ。企画を考え、デスクのOKをもらい、3~4人のライターと打ち合わせして、取材にかかる。取材期間は10日ぐらいで、集まった素材を基にデザインを組み、ライターと原稿のやりとりをしながら入稿する。週刊誌なので入稿から校了までのスケジュールは厳守。入稿日は、ほぼ徹夜になる。その間に次の企画を考え、デスクのOKをもらい、ライターと打ち合わせして……という自転車操業だ。
当時の企画で印象深いものをいくつか挙げてみよう。
まずは「24時間営業店 居座り耐久レースに挑戦!」(1994年7月13日号)。
そんなことして何の意味があるのかと思われるかもしれないが、限界に挑んだときの人間心理の記録であると同時に、24時間営業店に出入りする客やスタッフの人間模様観察ルポでもある。入店者数をカウントし、周囲の会話に耳を澄ます。店員の態度も要チェックだ。NHKの『ドキュメント72時間』を先取りしつつ体も張った企画であり、これはこれでジャーナリズムだと、個人的には思っている。
結果的には、喫茶店に14時間15分滞在した女性ライターが優勝。条件的に厳しい牛丼屋で10時間45分粘った男性ライターが敢闘賞を獲得した。条件面でいえば私が担当したコンビニも厳しいが、当時は雑誌がテープ留めされてなくて立ち読みができたので結構粘って、5時間45分の記録を樹立。最後のほうは立ちっぱなしで足腰がキツく、トイレにも行きたくなってきたものの今さら「トイレ貸して」とも言えず、適当な品をカゴに放り込んでレジに向かうと、バイトの青年に「いらっしゃいませ!」と元気よく言われて、「もうずいぶん前からいらっしゃってたんですけど……」と思ったのもいい思い出だ(今なら通報事案かもしれないが)。
同じチャレンジ系企画では、「爆笑! よい子の[商品テスト]」(1996年2月14日号)も忘れがたい。
ボールペン担当者は、原稿用紙のマス目に普通の油性ボールペンで「SPA!SPA!SPA!……」と書き続けること計12時間8分、「SPA!」×1万3491回で見事使い切った。が、ここで終わらないのがC級魂である。サインペン、水性ボールペンでも挑戦し、それぞれ1万2450回、1万4547回という結果を得た。
すごいのはシヤチハタで、同じく原稿用紙のマス目に押すこと約5時間。かなり薄くなってきたところで一旦終了したまではよかったが、翌朝とどめを刺そうと作業再開したら、なんと復活していたのだ。その後も一晩寝かせると復活を繰り返し、合計18時間48分、10万5278回押したところで締め切りが来てしまった。普通の使い方なら、おそらく一生使えるはず。恐るべしシヤチハタ!
「思わず苦笑の[絵馬]大集合」(1995年1月18日号)では、タイトルどおり神社の絵馬に書かれたさまざまなお願いを収集し、ツッコミ入れつつ紹介した。受験や就職の成功を願うのはよくあるが、「学習院、成蹊、中央、法政、明治、立教、上智、青山、千葉大学に合格しますように」「三菱商事、伊藤忠商事、住友商事、ノエビア、ナムコの内定がもらえますように」なんてのは欲張りすぎだ。逆に「どこでもいいので高校に受かりますように」「高3になれますように」と謙虚な願いもある。
恋愛方面では「かわいらしくてやさしくて性格がよくて尽くしてくれる恋人ができ、結婚できますように」「新しくたくさんのガールフレンドと彼女ができますように 残りの学生生活が充実した日々となれますように 毎日のように女の子と遊びに行けますように 佐藤洋子(仮名・以下同)さん 遠藤幸恵さん 谷川京子さんとつき合えますように」と図々しいヤツが。
なかには「太田家の相続に対し、皆平等に納得できる答えがでますように神様、力をお貸し下さい」「裁判に勝てます様に――パパが一刻も早く家に帰って来れますようお願い致します」なんて生々しいものや、「将来天下国家をも動かす権力を持った大人物へと導き、鍛え上げてください」という壮大な願いもある。いささか覗き見趣味ではあるが、絵馬ほど人間の業や欲望をストレートに感じられる媒体もなかなかない。
こうしたお笑い寄りの企画だけでなく、差別表現と言葉狩り、阪神・淡路大震災のボランティア事情、交通取り締まりの理不尽など、わりと真面目なテーマも扱っているのだが、その場合でも大上段に振りかぶるのではなく腰は低く構えており、何なら揉み手のひとつもするぐらいの姿勢を心がけていた。
素朴な疑問を大切に、真面目なことをくだらなく、くだらないことを真面目にやる。チャレンジ系の企画は特にそうだが、今ならウェブメディアの「デイリーポータルZ」が近いかも。当時のライターさんにはムチャ振りをきっちり実行していただいて、感謝しかない。
C級枠でやった企画はさんざんテレビにパクられた。しかし、世間の人が『SPA!』と聞いてイメージするのは、そんな便利なすき間家具みたいなポジションのモノクロ特集ではなく、メインのカラー特集や連載のほうだろう。今の『SPA!』はグラビアとマンガがメインになっているので、また違うイメージかもしれないが、かつての『SPA!』は多くの名物企画や流行語を生み出した。
名物特集としては「合コン四季報」「男が選ぶ好きな男・嫌いな男」「ジャンル別(裏)ベスト10」など。「SPA!が“診断”した[ビョーキ15年史]」(2003年6月24日号)で自ら振り返っているように、その時代ごとの人々の嗜好や傾向を「○○症候群」と名づけた特集も多々あった。
篠山紀信・中森明夫「ニュースな女たち」、中森明夫「中森文化新聞」、都築響一「珍日本紀行」、神足裕司「これは事件だ」、鴻上尚史「ドン・キホーテのピアス」、鈴木邦男「夕刻のコペルニクス」、天久聖一・椎名基樹・せきしろ「バカはサイレンで泣く」など、名物連載も枚挙にいとまない。みうらじゅん「ゆるキャラだョ!全員集合」(単行本は『ゆるキャラ大図鑑』)は、全国にゆるキャラブームを巻き起こした。2005年にスタートした、みうらじゅん×リリー・フランキー「グラビアン魂」は、現在まで続く長寿企画となっている。
そして、『SPA!』といえば見逃せないのがマンガである。流行語「オヤジギャル」の発信源となった中尊寺ゆつこ『スイートスポット』に始まり、小林よしのり『ゴーマニズム宣言』、倉田真由美『だめんず・うぉ~か~』、峰なゆか『アラサーちゃん』など、一世を風靡した作品がいくつもある。不定期すぎて連載とは呼びがたいが、私が立ち上げた西原理恵子『できるかな』シリーズも(手前味噌ながら)話題を呼んだ。
マンガ誌と比べて『SPA!』のような週刊誌はページ当たりの予算が大きい。具体的な数字は秘すが、ライターやカメラマンが束になって作るページを漫画家一人で埋められるのだから、通常のページ単価の半分の原稿料でも一般的マンガ誌の倍ぐらいにはなる。一回のページ数は2~8ページと少なくても、週刊で連載すればそれなりの金額になるし、マンガ誌の連載より社会的に注目も浴びやすい。そういう意味でも『SPA!』の仕事は漫画家にとって悪い話ではなかったと思う(今はどうか知らんけど)。
しかし、そのマンガ連載が『SPA!』史上最大のトラブルを呼ぶことにもなった。発端は1995年5月3・10日号に掲載された宅八郎とオウム真理教の上祐史浩との対談だ。地下鉄サリン事件でオウム真理教が日本中を震撼させている最中の対談記事に対し、小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』欄外にて宅および靏師一彦編集長(当時)を〈命かけてやってる江川紹子氏を上祐と2人で笑いもんにするとはサイテーの野郎だ! 靏師編集長も、宅とタッグ組んでるんだから、わしは許さん!〉と攻撃する。
宅もすかさず連載「週刊宅八郎」にて反撃。小林の〈誤読〉を指摘し、〈一方的に嚙みついてきた小林のエキセントリックさはまさに狂信的、まさにヒステリーだ〉と批判した。7月5日号では「小林よしのりへの決闘状!」と銘打って、〈逃げるなよ、小林!〉と啖呵を切る。が、噴き上がる宅をよそに小林は表面上はノーリアクション。8月2日号の「週刊宅八郎」は通常見開き2ページのところが1ページになり、「異常事態発生! この連載に潜む深い闇!!」と大見出しが掲げられており、異様なムードを醸し出す。
そして、8月9日号で『ゴーマニズム宣言』は突然の最終回を迎える。「さらばSPA!よ」と題したこの回はすさまじかった。小林側から見た経緯説明と靏師編集長への不信と罵倒を、ここぞとばかりに大展開。掲載誌の編集長をここまでこき下ろしたマンガは前代未聞だろう。
このトラブルにより靏師氏は編集長を解任される。舞台裏で何があったかは、前編でも紹介した『「週刊SPA!」黄金伝説1988~1995』で靏師氏自身が詳しく綴っているが、外部委託スタッフである私には扶桑社の社内事情など知る由もなく、不穏な空気を感じながらも「なんかえらく揉めてるなー」ぐらいの感覚だった。
ところが、その余波が思いっきり私にかぶさってくる。私が所属していた後半モノクロ班のデスク・杉田淳氏が後任の編集長の座に就くことになり、空席となったデスクの代行として私に白羽の矢が立ったのだ。
いやいや、それは社員がやってくださいよ……と正直思った。が、編集部内もゴタゴタしていて、ほかに適任者がいないということで押し切られてしまう。当然その分のギャラは上乗せしてもらったが、従来どおり2週に1本担当しながら、それ以外の週もデスクとして企画から入稿までチェックするというフル回転のスケジュールは地獄だった。しかも、『ポパイ』や『PENTHOUSE JAPAN』など他の雑誌、別冊宝島などのムック、単行本の仕事も並行してやってたんだから、我ながらどうかしている。
結局、1年半ほどでデスク代行の任からは解放され、特集担当も3週に1本ぐらいのペースに緩和された。さらに2001年頃からは月イチぐらいのペースになって、ずいぶん楽になる。その分、ゲッツ板谷『わらしべ偉人伝』『出禁上等!』『板谷番付!』『板谷遠足』、柳田理科雄『空想科学研究所』『空想科学的“生活向上委員会”』などの連載を立ち上げて単行本化したり、2003年と2005年には我らが阪神タイガースの快進撃と優勝を祝して何冊も出た臨時増刊に参加したり、まあ、とにかくいろんな仕事をした。
その間、『SPA!』の表紙デザインや全体の雰囲気、企画のノリを真似た雑誌はいくつか出たが、長続きはしなかった。現物を保管していないので具体的な誌名を挙げられなくて恐縮だが、月刊誌を週刊で作っているような『SPA!』のやり方は、編集部の体制、予算、企画の練り込みなど、そう簡単に真似できるものではないのである。
とはいえ、どの雑誌もそうであるように、時とともに『SPA!』も変わっていく。不況が常態化し格差が広がるなかで、「下流社会の[明るい借金]入門」(2006年8月1日号)、「仲間うち[年収格差]の非情」(2008年2月26日号)、「[副業1か月]本気ならこんなに稼げる!」(同6月10日号)といった、しょっぱい特集が目につくようになる。想定読者層もおそらく少し上がって40代になった。
私のほうは相変わらず後半モノクロ特集を担当していたが、長年やってるとさすがにやり尽くした感が出てくる。ざっくり計算して少なくとも250本、ヘタすりゃ300本ぐらいはやってきたわけで、だんだん自己模倣のようになってきた。加えて、2011年6月にスタートしたウェブの「日刊SPA!」の記事提出ノルマがつらく、2014年で業務委託契約を解除した。ほかにも理由はいくつかあったが、編集長がどんどん年下になり、年齢的にも潮時ではあった。
契約解除後も完全フリーの立場(=出来高制)で『もにゅキャラ巡礼』(楠見清・南信長・山出高士)の連載や「S級グルメ」のコーナーを月イチぐらいで担当していたが、2018年6月5日号掲載の『できるかな』をもって私の『SPA!』での仕事は終わった。
ライター時代から数えれば26年、編集としては24年。それだけ長く仕事をしていたのだから愛着はある。ただ、文化欄と「バカサイ」がなくなった時点で、もはや別の雑誌のような気はしている。最後にひとつだけ言わせてもらうと、『SPA!』の表記ルールに関して、文中の(笑い)を送り仮名なしの(笑)に改めるよう強く主張して実現させたのは私である。それが私が『SPA!』に残した最大の遺産かもしれない(笑)。
文:新保信長
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