常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 古代史重要地点をシリーズで紹介いたします。
奈良盆地は天然の要害

 奈良盆地は西側の山塊が天然の要害(ようがい)になっていた。

 瀬戸内海方面から攻めかかる敵は、たいがいこの山並みに阻まれた。

 神武(じんむ)東征説話で、生駒山を背に陣取る長髄彦(ながすねびこ)に、神武天皇は勝てなかった。

 時代は下り、楠木正成(くすのきまさしげ)も葛城(かつらぎ)山系を背にして、鎌倉幕府の大軍を撃破している。

 縄文人が西からやってくる稲作文化を奈良盆地でくい止めようとしたように、三世紀から四世紀の「ヤマト建国」も、実際には、「東の西へのレジスタンスが実を結んだのではないか」と筆者は考える。

 なぜなら、これまでの常識どおり、西側から東に攻め上った征服者がヤマトを建国したのならば、奈良盆地を都に選ぶはずはなかったからだ。

 奈良盆地は西からやってくる敵をはね返すことに適していたが、東から攻められたら、ひとたまりも無い。蹴散らしたと思っていた先住民に逆襲されるのが落ちだ。

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国土地理院・色別標高図を基に作成

 名阪(めいはん)という国道(二五号線)がある。車の往来が激しく、制限速度が六〇~七〇キロなのに、地元の方は一〇〇キロぐらいのスピードで走っている。

 信号がなく、そのくせ合流レーンが恐ろしく短いインターがあって、途中から乗るときは、度胸が必要な時があるという恐怖の道である。

 ただ、福住(ふくすみ)インターから先の天理インターに向かう下りの長い坂道が、絶景なのだ。

 一気に奈良盆地に下っていくが、まるで天孫降臨をするような気分にさせてくれる。この高低差に、ヤマトの弱点が見えてくる。

 もしヤマトの敵が東側から現れて高台に陣取れば、ヤマトの政権は、震え上がっただろう。

 かつての常識通り、武力を携えた強大な勢力が西側からやってきて政権を打ち立てたのなら、奈良盆地は選ばなかっただろう。

 それは、名阪国道を走ってみれば、すぐに分かることなのだ。

 東の脅威を感じたら、ヤマトに住んでいられない。

 奈良の地形が特殊だったために、思わぬ場所で、何度も合戦が起きてしまっている。

 それは、大阪府の奈良県寄りの一帯だ。大和川が大阪側に流れ下り、南側から流れてくる石川が合流するあたりは、古くから何度も合戦の舞台になってきたのだ。

 ちなみに当時の大和川は、石川と合流したあと、西ではなく、北に向かっていた。

 最初は、用明二年(五八七)七月の、物部守屋と蘇我馬子の仏教導入をめぐる争いで、餌香川(えががわ)(石川)で激戦が展開され、稲城(いなき)を築いて激しく抵抗した物部守屋だったが、聖徳太子の神通力を持って、ようやく蘇我馬子は勝利を得ている。

 ヤマトから攻め下る蘇我馬子の勢力をくい止めるのに、河川を楯にしたわけだ。

地形で読み解く古代史』より

明日は「古代から『真田丸』の時代まで幾度も戦場となった要所とは!?」です。