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Text by 山元翔一
Text by 小鉄昇一郎



坂本龍一が発表した数々の音楽作品を紐解く連載「追悼・坂本龍一:わたしたちが聴いた音楽とその時代」(記事一覧はこちら)。第6回の書き手は、トラックメイカーとしても活動するライターの小鉄昇一郎。

『SMOOCHY』(1995年)をとりあげて、「坂本龍一の歌」あるいは、坂本龍一とJ-POP(※)ついて思考をめぐらせる。



坂本龍一は90年代に入ると、それまでの「世界のサカモト」、国際的なビッグプロジェクト志向ではなく、再び日本をターゲットに、それも明確にポップチャートを意識した仕事に舵を切る。ダウンタウンとのGEISHA GIRLS、中谷美紀の歌手活動プロデュース……当然この傾向はそれらの「外仕事」に留まらず、ソロアルバムとも共振している。かくして1995年、「坂本龍一が歌うJ-POPアルバム」という彼の長いキャリアにおいても特異なアルバム『SMOOCHY』ができあがった。



“PERSPECTIVE”、“thatness and thereness”、“きみについて……。”(※)などに加え、『左うでの夢』(1981年)も坂本のボーカル曲が多数収録されているが、収録曲の半数がJ-POP的な歌もの、というのはこのアルバムのみである。



坂本龍一 追悼連載vol.6:なぜ自ら歌を?半世紀におよぶキャリアの特異点『SMOOCHY』

坂本龍一(さかもと りゅういち) / Photo by zakkubalan ©2022 Kab Inc.
1952年東京生まれ。1978年に『千のナイフ』でソロデビュー。同年、Yellow Magic Orchestra(YMO)を結成。散開後も多方面で活躍。2014年7月、中咽頭がんの罹患を発表したが、2015年、山田洋次監督作品『母と暮せば』とアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督作品『レヴェナント:蘇えりし者』の音楽制作で復帰を果した。2017年春には8年ぶりとなるソロアルバム『async』を発表。

2023年3月28日、逝去。同年1月17日、71歳の誕生日にリリースされたアルバム『12』が遺作となった。



教授流トリップホップとでも言うべき“美貌の青空”にはじまり、森俊彦によるUKガレージ/2ステップを先取りしたようなトラックの上で中谷美紀とデュエットする“愛してる、愛してない”、“美貌の青空”同様に以降のキャリアでも何度も再演されるスタンダードナンバーとなった密室のボサノヴァ“TANGO”、ポスト・ヴェイパーウェイブの時代に聴くにはあまりに牧歌的で涙が出るインターネット礼賛ソング“電脳戯話”からの、「半球」を意味する曲名の、おそらくは日本の裏側・ブラジルへの妄想的なノスタルジーと逃避願望を歌う“HEMISPHERE”……。



売野雅勇、高野寛、大貫妙子らによる香気溢れる作詞、佐橋佳幸やバカボン鈴木、パウラ&ジャキス・モレレンバウム夫妻と、サウンドを固めるスタジオミュージシャンの仕事ぶりも見逃せない。サウンド、歌詞ともに充実した歌曲が揃っている。



と、ここまで読んで「へぇ、そんなアルバム知らなかったけど、教授ってピアノだけじゃなく歌もイケるんだ~」と思う読者もいるかも知れないが……その歌は、お世辞にも上手いとは言えない。

いわゆる「ボーカリスト」然とした──たとえば『未来派野郎』(1986年)や80年代のツアーにも参加していたバーナード・ファウラーや、この時期に森俊彦に勧められてよく聴いてたいたというD'Angeloのような──よく響き、張りのある美声ではまったくない。



命じられて、利き腕ではない手で線を描くような、おずおずとした慎重さと不安定さでメロディーラインをなぞる歌声はよく言えば素朴、悪く言えば……。



結局、このアルバム以降、坂本は自ら歌うことはほぼなくなる。2000年以降の坂本の「歌」となるとm-floとの“I WANNA BE DOWN”、TOWA TEIとの“GENIUS”など、コラボレーション~共演者に求められたうえでの場に限定される(※)。



だが、それでも『SMOOCHY』で坂本は自らマイクを取り、歌った。技巧としての「歌」を極めたボーカリストを集めてアルバムをつくることも可能だったはずだ。

実際、アルバムの最後を飾る“A DAY IN THE PARK”はヴィヴィアン・セッサムズ(※)がボーカルをとるR&B風で、こういう曲をエンディングといわず全編に配することもできただろう。しかし、そうすることはせず、自ら不得手と自覚している歌に挑んだ。その理由は何だろうか?



坂本の制作ノートやインタビューをまとめた労作『坂本龍一・全仕事』(1991年、太田出版)から、坂本が『左うでの夢』(1981年)や“フロントライン”(1981年)で自らの歌を披露しはじめた時期のインタビューを見てみよう。

「ルー・リードの『ベルリン』ってあるでしょ。あれを聴いてね、すごく良かった。歌っていうのは、うまさじゃなく、声色って言うの、まあその人間そのものって言うかさ、出るじゃない。
(略)だから別にヘタでも何でも、いちばんなんか自己表現としては、音楽の中では最高のものでしょ」
- 『音楽専科』81年10月号掲載インタビュー(『坂本龍一・全仕事』より孫引き)
「声は五線譜上の論理に変えられない力を持っている。ある音が譜面上でどれだけ精巧に作られ、論理の強さがあったとしても、つまらないスリー・コードのフォーク・ソングに勝てない面がある。それだけ声には未知の力があると思う」
- 『遊』81年4月号掲載インタビュー(『坂本龍一・全仕事』より孫引き)

また、『BEAUTY』(1989年)のツアーパンフレットには、明るく、ハデでわかりやすい「ボーカリストの歌い方」ではなく、アントニオ・カルロス・ジョビンやバート・バカラック、ヴァン・ダイク・パークスなどに共通する「作曲家の歌い方(Composer Singing)」があり、自分はそれにチャレンジしている……という独自の視点を開陳している(原文は英語につき拙訳)。「歌」が持つ無視できない魅力について、坂本がつねに思考していたことがうかがわれる。



楽器にはない「歌」だけに宿るエネルギー──その正体を坂本は自らの声で掴もうとし、そしてそれをポップチャートというもっともわかりやすく、それでいて不確定要素のかたまりのような謎めいた磁場で解き明かしてみせようとしたのではないか。



しかし……『SMOOCHY』を含め、この時期の坂本のポップスへの挑戦というテーマ全体の成果は、結局どうだったのか。



GEISHA GIRLSにせよ中谷美紀のプロデュースにせよ、話題性とともにスマッシュヒットを果たし、楽曲にはいまなお根強いファンはいるものの、いずれもYMO時代のような大きなヒットには至らなかった。ダウンタウンのプロデュースという点では小室哲哉によるH Jungle with tに大きく水をあけられる。



逆に、ポップスへの挑戦に見切りをつけた1999年に入ってから、栄養剤のCMソングとして一筆書きのような素早さでつくられた“energy flow”が期せずしてヒットしたのは、いかにも皮肉な流れだ(※)。



坂本自身、後の回顧録などでも『SMOOCHY』をはじめとするこの時期についての言及は消極的だ。亡くなるひと月前(!)に放映された、音楽バラエティー『関ジャム 完全燃SHOW』(テレビ朝日)にメールインタビューで出演した際にも「90年代は『ポップ』であろうと目指してみたことがあって、いろいろやったんですが、成果は全くなかったですね」「ポップを定義することは本当に難しいことです」と語っているので、『SMOOCHY』は作者自ら「低迷期、停滞期の作品」と烙印されたようなものかもしれない。



しかし、それでも私は『SMOOCHY』を聴く。聴くし、より多くの人に聴かれてほしいと願っている。「坂本龍一が歌うJ-POPアルバム」として珍盤・迷作の類いのように聴くこともできるだろうが、注意深く耳を傾ければ、豊潤な果実のように滋味深いクエスチョンマークが、いくつも生まれてくる。



たとえば……歌とは、歌うこととは何なのか? 「いい歌」とは何が「いい」のか? 歌だけにあり、ほかの楽器や表現形態にはないものとは何か? あるいは──大衆文化とは誰がつくるのか? ポップとポップスの差はどこにあるのか? 「売れた曲」とそうでない曲は何が違ったのか? 「売れた曲」は、それが「売れた曲」であることでどのように聴こえ方が違ってくるか?



YMOでの諸作や『B-2 UNIT』、あるいは著名なサウンドトラックの数々、『CHASM』(2004年)以降のコンセプチュアルなアルバムが、大理石か宝石のように、誰もが認める誉れ高い光を放っているとするならば、『SMOOCHY』は試金石のような存在として、私の胸中にずっと居座っている。



そして何より、彼がこの世を去ったいま、その「声」が多く残されたこのアルバムは、より一層特別なものになってしまった。