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源仲章(生田斗真)と源実朝(柿澤勇人)|ドラマ公式サイトより

 『鎌倉殿の13人』第42回「夢のゆくえ」では、源実朝(柿澤勇人さん)の「危うさ」があらわになりました。

 前回のコラムで想像したとおり、ドラマの陳和卿(テイ龍進さん)は京都側が送り込んできた“刺客”だったようです。

実朝は「夢日記」を書いており、その不思議な内容を把握していた源仲章(生田斗真さん)が、宋人・陳和卿にあたかも自分も同じ夢を見たかのように日記の内容を語らせ、実朝の歓心を買うことに成功したという描かれ方でしたね。そして船を作らせることで「経済的に幕府を疲弊させ、その勢いを削げればよい」程度の朝廷の考えに対し、その船を砂浜から動かせない重さにしてしまったのは、義時(小栗旬さん)によるさらなる陰謀だったようです。

 まさに「内憂外患」――悩める実朝の母として、北条政子(小池栄子さん)が政に積極介入を見せ始めたのも印象的でした。政子は大江広元(栗原英雄さん)と特別な強い信頼で結ばれているようで、彼のアドバイスを真摯に受けて止めていましたね。頼朝のように「都育ち」というブランドの男性に価値を見いだしているのでしょう。

 尼御台の役割から「逃げてはなりません」、「あのお方(=頼朝)の思いを引き継ぎ、この鎌倉を引っ張っていくのはあなたなのです」と励ます広元の言葉によって心を決めた政子でしたが、広元よりも前に、尼御台として背負うものが多すぎるとこぼす政子に「まだそんな甘えたことを言ってるのですか。

いいかげん覚悟を決めるのです」と叱咤激励したのが、あの丹後局(鈴木京香さん)であったという設定も、興味深く思われました。かつて政子は長女・大姫(南沙良さん)を天皇の後宮に入内させようとした際、丹後局に「あなたはただの東夷(あずまえびす=田舎者)。その娘がたやすく入内などできるとお思いか」「そなたの娘など、帝からすればあまたいる女子の一人にすぎぬ」などと厳しい言葉を投げかけられ、大姫の心が折れてしまうというシーンがドラマには出てきていたからです。

 史実の丹後局が鎌倉を訪問した記録はないようですが、ドラマとしてはアリでしょう。かつては後白河法皇の愛妾として権力の中心にいた彼女も、後鳥羽院時代には見る影もなく力を失い、亡き夫・平業房(たいらのなりふさ)の遺領の浄土寺にて暮らしていたようです。ただ、当時は出家すると、出家以前の社会的ステイタスと、それにまつわる行動上の制限からも自由になれるため、ドラマの丹後局のセリフにもあったように「暇をもてあまし」、あちこちに旅することもありえたかもしれません。

実際、尼姿の丹後局が京都から鎌倉まで旅してきたというドラマの設定は、鎌倉時代の中後期に日記文学『とはずがたり』を残したことで知られる二条という女性を思わせるところがあり、個人的には非常に面白かったです。

 「鎌倉殿」としての重責に悩み、問題行動とも取れる動きを見せる実朝を母として守るべく、政子がついに行動に出るというドラマの設定は「政子は悪女ではない」と前々から発言している三谷幸喜さんならではだなぁ、と思わせられました。三谷さんは政子について「普通に考えて、彼女に悪女と呼べる要素は何もない。常に妻として母として悩み、行動してきただけ」と明言しています(『鎌倉殿の13人』三谷幸喜インタビューより)。

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『鎌倉殿』同様に八田知家はワイルドでわが道を行く人物だった? 実朝を諌めた逸話も
『鎌倉殿』同様に八田知家はワイルドでわが道を行く人物だった? 実朝を諌めた逸話も
日刊サイゾー2022.10.16

 悩める繊細な息子・実朝には「鎌倉殿」という責任重大な地位から降りてもらって、京都の高貴な血筋の人物を実朝の養子として迎え、新しい「鎌倉殿」に据える。そして、実朝は「大御所」という肩書で「鎌倉殿」の後見となることで「鎌倉の揺るぎない主」となる……というアイデアも、政子が考えたことになっていました。

 確かに、何人もの子供や肉親を政の犠牲として失ってきた政子だからこそ、残された実朝だけは母として守ることに決めた、という描き方は新鮮で、「なるほど」と思ってしまいました。外から養子を取るというアイデアには、即座に実衣(宮澤エマさん)や北条義時から「ありえない」「鎌倉殿は源氏の血筋から出すものだ」などと猛反対を受けていましたが……。

 天皇の都である京都から坂東(=関東)までやってきた高貴な存在を「鎌倉殿」として祭り上げるからこそ、その権威やブランドに御家人たちもひれ伏すという構図は、史実でも同じだと思います。複雑な歴史的背景を踏まえた上で、面白いドラマを作劇していける三谷さんの力量はすごい、と改めて思わせられた第42回でした。

 ……と、前回の内容の振り返りが長くなりましたが、今回は八田知家について触れておきましょう。市原隼人さん演じる知家を、市原さん本人は「セクシー」を意識して演じたわけではないとのことでしたが(笑)、常にセリフの言葉尻に「……」がつくような余韻のある喋り方、他の御家人にはない開き方をした胸元がネット上で話題になり続けた知家が『鎌倉殿』のセクシー担当であり続けたことは間違いないです。

 市原さんは史料があまり残されていない八田知家を演じるにあたり、知家の子孫にあたる方にお会いしたり、墓参りを行うなどしたそうです。その上で、彼なりに「知家」という存在を掴み、演じたのだとか。野生感と、それだけにはとどまらない知的な部分もある『鎌倉殿』の知家は、市原さんという演者の個性とマッチしていてよかったと思います。ドラマの幕府はまだ“創世期”ですから、ああいう型破りでワイルド、そして特定の誰の味方をするわけでもなく、淡々と自分の信じる道をいくタイプの御家人が幕府の中枢にいたとしても、おかしくはないと感じました。(1/2 P2はこちら

『鎌倉殿』同様に八田知家はワイルドでわが道を行く人物だった? 実朝を諌めた逸話も
陳和卿(テイ龍進)と八田知家(市原隼人)|ドラマ公式サイトより

 八田知家という人物について、断片的に残された史実や逸話を総合すると、たしかに「型破り」とか「自分の道をいく」タイプであったのではないかと思えてきます。たとえば知家にはこんなエピソードがあります。

 後鳥羽上皇に対面するべく、実朝が上洛(=京都に行くこと)を企てた時、それにかかる経費の莫大さを認識しながらも、御家人たちはなかなか反対ができませんでした。ドラマとは異なり、史実の実朝は気性が激しく、御家人たちはそんな彼が怖かったのです。

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『鎌倉殿』同様に八田知家はワイルドでわが道を行く人物だった? 実朝を諌めた逸話も
『鎌倉殿』同様に八田知家はワイルドでわが道を行く人物だった? 実朝を諌めた逸話も
日刊サイゾー2022.09.04

 しかし、この大事な評議に知家は遅刻して現れた上に、みんなが言いたくても言えなかった費用の問題をズバッと指摘し、実朝も彼の言葉だからこそ、おとなしく従ったそうです。知家は、「獣の王」たる「天竺の師子(=獅子)」がその鳴き声だけで人々を恐れさせるように、その気がなくても君主は畏れられるものだと発言し、この喩えを実朝は気に入ったようで、上洛計画はめでたく取りやめになったというくだりは興味深いです。

 これは、鎌倉時代に成立した『沙石集』という「説話」――つまり「本当にあった話」という触れ込みで、一説に知家の血縁にあたる無住(むじゅう)という僧が編纂した書物に見られる話です。

 また、知家が重要な会議に「遅刻してきた」……つまり、それでも許されたという逸話は『吾妻鏡』の頼朝時代の記述にも見られます。

 頼朝の上洛についての重要事項を決定する会議に知家は遅れてきたものの、頼朝は仕方なく受け入れただけでなく、彼のアドバイスを全面的に採用したといいます。頼朝には、「石橋山の戦い」に大敗して味方を募っていた時期に、大遅刻してきた上総広常に激怒して威信を示したという逸話もある一方で、知家が遅刻しても怒ることはなかったようですね。

 これは、彼が“遅刻キャラ”だったからというわけではありません。八田知家の子・知重、そしてその子孫たちも幕府で影響力を持ち続けたので、彼らの先祖の知家も、頼朝さえ一目置くほどに高く、知的な人物だったと『吾妻鏡』に明記させたかったのでしょう。実際、頼朝の乳母の一人である寒河尼は知家の姉妹でしたから、頼朝にとって、知家は叔父さんのような存在だったのかもしれません。

 「頼朝にとって知家は叔父さん」といえば、『鎌倉殿』第42回では、知家が実年齢をほのめかしたシーンも話題を呼びました。知家は「この仕事(=唐船の造船作業)を最後に隠居しようと思っている」と発言し、「まだお若いではないか」と三善康信(小林隆さん)に言われると、「若く見えるが……実はあなたとそう変わらない」と返した彼のセリフを信用すると、当時70代ということでしょうか。知家の生没年は定かではないのですが、思わず笑ってしまうやり取りでした。

 知家は隠居時期についてもよくわかっていませんが、一説には、実朝が鎌倉殿に就任した1年後の建仁4年(1204年)以降、彼が「筑後入道」と呼ばれ始めたそうで(法名は尊念)、その頃には出家し、家督も息子たちに譲ることを進めていたと考えられます。例の唐船騒動の時(建保5年=1217年4月)にまだ鎌倉にいたところで、実際にはドラマの三善康信と同じく坊主頭で僧の姿だった可能性は高いと思われますね。

 最後に、八田知家や三浦義村(山本耕史さん)のマッチョぶりがネット上で大いに話題となっていましたが、当時あんな筋骨隆々なことは本当にありうるのか?という話もついでに検証しておきましょうか。

 鎌倉時代初期は、京都の貴族や僧侶たちに比べて、武士たちの間では肉食がタブーという感覚はまだ薄かったと思われます。さらに当時は、肉や魚の代わりに別の素材をそれらしく味付けした「精進料理」が鎌倉の武士たちに受け入れられる以前の時期なので、魚肉からのタンパク質の摂取量はかなり高かったと思われます。

 教科書の類に載る坂東武者の食卓のサンプル写真のようなメザシと味噌汁と玄米食だけではなく、実際には野山の獣の肉なども日常的に食べていたことも十分に考えられ、当時の御家人たちのガタイは総じて良く、身長も高かったと思われます。また、鎌倉では、現代でいえばレスリングに相当する相撲なども日常的に娯楽・トレーニングとして行われていたといいますね。

 ただ、坂東武者たちが、本当に市原さんや山本さんのような体つきだったかというと、そうはならないでしょう。現代の彼らの肉体美は、解剖学の知識に則って全身の筋肉を個別に鍛えていった成果だと考えられるからです。史実の八田知家がマッチョだったという記述は例によってないのですが、現代でいう「筋トレ」はさぼりがちでも、自分のやっている競技のトレーニングだけは熱心なタイプのアスリートのような体付きであった可能性はあるとは思います。

 しかし、次回・第43回の相関図から、知家の写真は消えてしまっているのにお気づきでしょうか? 第42回でついに上半身もろ肌ぬぎのセクシー大全開となった知家は、あの隠居宣言をもってドラマから退場なのかもしれません。同じように隠居しているものの暇だと言って姿を見せている二階堂行政(野仲イサオさん)のように、またドラマにも戻ってきてくれるといいですね。まぁ、その時は、第42回に久々に姿を見せたことが本当のラスト出演となった北条時政のように、知家も坊主になっているでしょうが……。

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